ブッダの感興のことば(ウダーナヴァルガ)第2章 愛欲 第8偈

8 人間のうちにある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。欲望の主体は無常なるものとして存在している。束縛されているところのものを捨て去ったならば、死の領域は迫って来ないし、さらに次の迷いの生存を受けることもない、と、われは説く。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*ワン爺のコメント
昨日、掲載しました7偈にありましたように、「欲望は、人間の思いと欲情なのである」のです。この偈はそれを欲望の主体であると述べています。そして、それは無常なるものとして存在していると解かれています。

無常なるものは、消え去るものですから、欲望の主体は消え去るものです。しかし、消え去るものですが、また生まれてきますから、この再生を止める必要があるのです。

この再生を止めるに、「束縛されているところのものを捨て去ったならば、」と述べられていますから、名称と形態の消滅が必要なのです。

SRKWブッダは次のアドレスで、「名称と形態(nama-rupa:名色)について、詳細に解説しておられますから、是非参照してください。少し難しいですが、時々繰り返し読めば、だんだんわかります。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou006.htm


この記事へのコメント

toshi
2018年07月04日 07:34
《「愛(あい)」の解説(その2)》・・・「また仏陀の詩を集めた「法句経」(ダンマパダ212)には、「愛より愁いは生じ、愛より怖れは生ずる。愛を超えし人には愁いはなし。かくていずこにか怖れあらん。」と歌われており、つづいて同文の詩で、愛ということばを、親愛・欲楽・愛欲・渇愛に変えたものが並んでいる。愛とは自己・血族・親族に対する血縁的な愛情をさし、親愛とは他者に対する友情をさし、欲楽とは特定の個人に対する愛情(恋愛)をさし、愛欲とは性的愛をさし、渇愛とは病的・盲目的な執着となった愛をさしている。これらは別のものではなくて、本来の様相である盲執(渇愛)が、種々に形を現すようになると解すべきである。」(つづく)