感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 2偈

2 怒りが起こったならば、それを捨て去れ。情欲が起こったならば、それを防げ。思慮ある人は無明(むみょう)を捨てされ。真理を体得することから幸せが起こる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
怒りは自分も相手も周りの人々を幸せにしない。不幸にすると説明しました。ですから怒りは捨て去った方がよいのです。

ここでは情欲とは、物をむさぼりそれに執着する心の意味ですが、必要以上に欲しがり、それに執着することです。美味しいからと言いって食べ過ぎれば病気になります。失恋をしていつまでも相手に未練を残していれば、いつまでも不幸です。幸せになりません。

怒り、情欲はなぜそれがいけないのか比較的わかりやすいのです。無明はわかりにくいものです。
たとえば、怒りが起こった状態は無明なのです。また、情欲が起こった状態は無明なのです。無明を捨て去っていれば、怒りや情欲が起きないのです。

無明は真理を体得することで捨て去ることができるのです。


ですから、真理を体得することから幸せが起こるのです。

真理は「法の句」を聞くことで体得できます。功徳を積んでください。「法の句」を聞くチャンスが訪れます。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第20章 怒り 1偈

1 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とに執著せず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 

(221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「怒りを捨てよ。」これは幸せになりたい人の必須条件です。怒っている人は自分は幸せとは感じていないのです。また、怒りを向けられた人も幸せを感じません。さらに周りの人々も不愉快な思いにさせます。怒りは自分も相手も周りの人も不幸するものですから止めたほうがよいのです。

しかし、怒りをやめることはなかなか難しいのです。そのためにこの偈では、次に「慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。」という言葉が続き、怒りを止める方法が述べられているのです。

さらに、怒りが起こる根本を「名称と形態へ執着」として、名称と形態とに執著しないことを提唱しています。
「名称と形態」について、SRKWブッダは理法「名称と形態(nama-rupa:名色)」で述べておられます。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou006.htm

しかし、ここでは「名称と形態」について、SRKWブッダと少し異なる説明をします。
名称は物の名前です。形態は物の形や色や香りや味などです。

子供は、「あれ何?」とよく聞きます。
子供は、物の形や色などは分かっています。それを形態と言います。
名前を教えてとは思ってませんが、大人は名前を教えます。それは名称といいます。

子供が幼い時、星をさして「あれ何?」と聞きました。
多分、私は「星」だと答えたのだと思います。
しかし、子供は星を小鳥が夜になると帰る家だと思っていたのでした。
そのことはずっと後になってわかりました。

何を言いたいかと言えば、名称と形態がわかっても、本質はわかっていないのです。
しかし、人々は名称と形態がわかると、わかった気になって、しかもそれに固執するのです。
名称に固執することをやめると、人と対立することが少なくなります。形態に固執することをやめると、人との対立がなくなります。人と対立することがなければ、怒りが現れません。

「無一物となった者」とは、精神的な意味です。名称にも形態にも固執することがなくなった者です。そのような者は、もちろん苦悩に追われることがありません。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 14偈

14 実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。 故に自分を制御せよ。___御者が良い馬を調教するように。 

(ダンマパダ380 実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。 故に自分をととのえよ。___商人が良い馬を調教するように。)

                 以上第19章 馬 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
よく考えれば、自分の行為はすべて自分が選択して行ったものです。この自分には無意識の自分も含みます。例えば、脅されから行った盗みをしたと言っても、脅しに負けずに盗みをやらないこともできるのです。しかし、脅しに負けて盗みをしたのは最終的に自分がそれを選択したのです。その意味で自分は自分の主人なのです。自分の行為は他人の責任にはできません。そのことを自覚する必要があります。

そして、その行為の結果も自分が引き受けるのです。けして、他人が引き受けてはくれません。これは悪い行為についても、善い行為についても言えることです。善い行為をすれば、その果報は自分が受けることになります。この果報は王も盗賊も盗むことができないのです。

「故に自分を制御せよ。」ということになるのです。自分を正さなければ、悪行為を避けて、善行為ができないからです。


 

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 13偈

13 おのれ自らをととのえよ。___御者が良い馬をととのえるように。おのれ自らをととのえて、念(おも)いをおちつけて、苦しみの彼岸に達する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「おのれ自らをととのえる」とはどいうことかは、「御者が良い馬をととのえるように」のたとえでわかります。自分が御者になり、落ち着かない馬を落ち着かせて、正しく道を歩ませるように、自分を落ち着かせて、正しい道を歩むことです。

落ち着かない自分とは、念いが乱れているのです。何か不満なことがあったり、心配事があるのです。

まず、不満や心配の原因を調べてください。その原因のほとんどは自分の拘りです。次は拘る必要があるものかどうか吟味してください。ほとんどは必要のないものですが、はじめは、そのようには思えないでしょう。しかし、いずれわかります。

苦しみの彼岸とは、苦しみはこちら側とすると、苦しみのない側はあちら側(彼岸)です。おのれ自らをととのえることで、彼岸(=ニルヴァーナ)に達するのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 8偈

8 何となれば、その人はその乗物によってはその境地(=ニルヴァーナ)に達することができない。おのれ自らをよくととのえてこそ、速やかに静けき境地におもむくのである。 
 
(ダンマパダ323 何となれば、これらの乗物によっては未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この8偈は、7偈の根拠です。7偈は次の通りです。

「7 この世で騾馬を馴らしたら良い。インダス河のほとりの血統よき馬を馴らすのも良い。クンジャラという名の大きな象を馴らすのも良い。しかし自己(おのれ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。」

すなわち、調教したラバや血統の良い馬や大きな象は、良い乗物になるが、安らぎの境地(=ニルヴァーナ)に運ぶことができないのに対し、「おのれ自らをよくととのえること」で、おのれをニルヴァーナに運んでくれる。それ故に、「自己(おのれ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。」ということです。

・・・・・・

尚、以下の8A 偈 から12偈まで、同様の趣旨の偈が繰り返されいますので、これらのコメントは省略します。

8A (訳すと7に同じ)

8B 何となれば、その人はその乗物によってはその境地(=ニルヴァーナ)に達することができないであろう。おのれ自らをよくととのえて、迷いのうちにありながら苦しみの彼岸(かなた)におもむくのである。

8C (訳文は7に同じ)

9 何となれば、その人はその乗物によってはその境地(=ニルヴァーナ)に達することができない。おのれ自らをよくととのえて一切の苦難を捨て去る。

9A (訳文は7に同じ)

10 何となれば、その人はその乗物によってはその境地(=ニルヴァーナ)に達することができない。おのれ自らをよくととのえて一切の束縛の絆(きずな)を断ち切る。

10A (7に同じ)

11 何となれば、その人はその乗物によってはその境地(=ニルヴァーナ)に達することができない。おのれ自らをよくととのえて一切の苦しみから脱れる。

11A (7に同じ)

11B 何となれば、その人はその乗物によってはその境地(=ニルヴァーナ)に達することができない。おのれ自らをよくととのえて一切の繁栄を捨て去る。

11C (7に同じ)

12 何となれば、その人はその乗物によってはその境地(=ニルヴァーナ)に達することができない。おのれ自らをよくととのえたならば、かれは安らぎ(ニルヴァーナ)の近くにある。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 6偈、7偈

6 馴らされた馬は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなる。自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。かれは世のそしりを忍ぶ。

7 この世で騾馬を馴らしたら良い。インダス河のほとりの血統よき馬を馴らすのも良い。クンジャラという名の大きな象を馴らすのも良い。しかし自己(おのれ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。
 
(ダンマパダ322 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
6偈では、馴らされた(調教した)馬は、王の乗りものとなるので良いものだと述べています。そのように自らをおさめた者は最上の者であると述べています。

7偈では、調教された騾馬、血統の良い馬、大きな象などは良い乗りものになるので良いと言っています。しかし、自己をととのえた人はそれよりもすぐれていると言っています。

なぜでしょうか? その答えは、明日掲載する8偈にあります。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 5偈

5 恥を知り、明らかな知慧あり、よく心を統一安定しているこの人は、一切の悪を捨て去る。___良い馬が鞭を受けたときのように

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
恥とは、それが悪であるとわかっているのに止めないことです。

「明らかな知慧」については、SRKWブッダの理法「明知」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou114.htm

(以下引用)
世において知るべきことを知るべきことであるとこころに知り、知るべきでないことを知るべきでないことであるとこころに知っている人。かれが明知の人である。かれは、ことに臨んで、見えないものを見てその真実のすがたを捉え、また聞こえない声を聞いてその真実の意味を知るのである。

明知は、学んで身につけるものでは無い。明知は、努力によって獲得するものでも無い。かといって、明知は、いわゆる素質と言うべきものにはあたらないものである。ただ明知は、それがあるときにかれにはそれがあるのだと確かに認められる「それ」に他ならず、その由来を過去・現在・未来に亘るかれ自身にも、また本人以外の何ものにも求めることはできない。それゆえに、明知は<明知>と名づけられるのである。

人は、明知によって道を見いだし、ついに究極の境地(=ニルヴァーナ)に至る。それゆえに、やすらぎを求める人は、自分ならざる何ものにも依拠することなく、ただ自らに依拠して、よく気をつけて世を遍歴すべきである。こころある人は、他ならぬ自らが自分自身の明知を信じ、自らの道のあゆみを浄くせよ。

人がまさしくこのようにして覚りの境地に至ったとき、かれは<明知>の真実について理解することになるのである。
(以上引用)

「心の統一安定」については、SRKWブッダの理法「定慧と仏道修行者」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou334.htm

(以下引用)
真実を知ろうとするならば、どうしても定を完成しなければならない。何となれば、定においてのみ自分自身の本当のところが明らかとなり、また相手の本当のところも明らめることが出来得るからである。そこにおいて智慧を生じたならば、解脱が起こると説かれる。

見せかけの静けさは定では無い。見せかけの静けさによって解脱は生じない。したがって、たとえば瞑想(メディテーション)によって達するそれぞれの空住 は、定の完成には役立たない。それぞれの空住は、それぞれの空住という境地を得るに過ぎないからである。その一方で、正しい定は、その定のもといとなった 事象についてのそれぞれの智慧と一対になっているものである。

ところで、定を完成させるための固定的な方法は存在しない。観(=止観)は、その一つの知られた方法であるが、これによって必ず定が完成すると言えるものでは無い。ただ、ある人は、観(=止観)を縁として定を完成させるということである。

一般に、修行者にとって大事なことは定の本質に迫ることである。それで、静けさを目指して邁進する人が、次第次第に功徳を積んだとき、ついに解脱すると説かれる。このとき、定の完成が同時に為し遂げられているのである。

修行者がいきなり智慧を理解することは極めて難しい。その一方で、定を理解し、完成を目指して邁進することは比較的容易である。実際、定が本体であり、智 慧は作用であると説かれる。たとえば、素養の無い人が数学の高度な公式を聞き知ったとしても理解出来ないであろう。その一方で、数学的な素養がある人に とってはそれぞれの公式は便利なものである。定慧も同様である。

また、この構図は、如来と善知識(化身)においても成り立っている。修行者にとって如来の本質を理解することは極めて難しい。目の当たりに生き身 の如来を見ても、如来だと認知することさえ難しいほどである。その一方で、善知識を縁として発心し、善知識(化身)が発する法の句を縁として解脱を生じる ことは誰にとっても充分に為し得る筈のことがらである。

そして、この意味において、覚りと如来とは無関係であると言えよう。何となれば、如来が善知識(化身)の役割を果たすことはまずあり得ないからである。

善知識(化身)との邂逅を意味あるものにするためには、修行者は気をつけていなければならない。そこで、「気をつけていよ」と説かれる。このように気をつけている人を、仏道修行者と呼ぶ。
(以上引用)

恥を知り、明らかな知慧あり、よく心を統一安定しているこの人は、当然、一切の悪を捨て去っているのです。









感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 4偈

4 怠りなまけている人々の中で、ひとりつとめはげみ、眠っている人々の中で、はっきりと目覚(めざ)めている思慮ある人は、足のろの馬が良馬に比べられるように、他のものどもを措(お)いて、すぐれた叡智ある人に向かっておもむく。

(ダンマパダ29 怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、眠っている人々のなかで、ひとりよく目覚めている思慮ある人は、疾(はや)くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この偈の「怠りなまけている人々」とは、気をつけていない人々です。「はげみ」とは、自分の身口意(行動、言葉、心)に気をつけて、法の句を聞き逃さないようにきをつけるということです。

そのような人は、叡智ある人(仏=ブッダ)になるということです。

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 3偈

3 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、欠点を捨て、汚れのなくなった人___その人を神々でさえもつねに羨む。 

(ダンマパダ94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった___このような境地にある人を神々でさえも羨む。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「おのが感官を静め」とは、自分の感覚器官の働きを静めるということですが、これにより心を静めることです。心は感覚器官からの刺激によって動揺して、静かではなくなるからです。

しかし、本当は感覚器官の働きを静めるだけでは、心の動揺は静まりません。欠点を捨てることが必要です。欠点とは心の名称作用と形態作用です。これらが無くなった人を「汚れのなくなった人」というのです。

名称作用と形態作用については、SRKWブッダの理法「名称と形態」をお読みください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou006.htm

そのような人は慧解脱した仏(ブッダ)ですから、神々さえも羨むのです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 2偈

2 良い馬が鞭をあてられると、勢いよく熱気をこめて走るように、勢いよく努め励め。信仰あり、また徳行をそなえ、精神を安定統一して、真理を確かに知って、知慧と行ないを完成し、思念をこらして、このような境地に達した人は、すべての苦しみを捨て去る。

(ダンマパダ144 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この偈の前半の「良い馬が鞭をあてられると、勢いよく熱気をこめて走るように、勢いよく努め励め。信仰あり、また徳行をそなえ、精神を安定統一して、真理を確かに知って、」の部分は昨日の偈と同じですから、昨日のブログ記事をお読みください。

後半部分は表現は異なりますが、内容は同じことなのです。真理を確かに知った人は、感官を制御し、忍耐の力をそなえており、迷いの生存をすべて残りなく捨て去るのです。また、知慧と行ないを完成し、思念をこらして、解脱の境地に達して、すべての苦しみを捨て去るのです。

迷いの生存とは、輪廻の世界にいることです。また、すべての苦しみを捨てるとは、苦しみ作りだす元をなくすことです。具体的は心の名称作用と形態作用がなくなることです。







感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第19章 馬 1偈

1 良い馬が鞭をあてられると、勢いよく熱気をこめて走るように、勢いよく努め励め。信仰あり、また徳行をそなえ、精神を安定統一して、真理を確かに知って、感官を制御し、忍耐の力をそなえた人は、迷いの生存をすべて残りなく捨て去る。

(ダンマパダ144 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「良い馬が鞭をあてられると、勢いよく熱気をこめて走るように」とは、ボーとしてないで、しっかりと目覚めて、努めて励めということです。

まず信仰これが初めです。信仰は「人は実はやさしい」と信じる事です。
SRKWブッダの理法「信」を参照してください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou016.htm

次は「徳行をそなえる」は、誠実、堪え忍び、施与、自制の徳目をそなえることです。
これはSRKWブッダの理法「徳目」を参照してください。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou014.htm

あとは、功徳を積めば、因縁により、迷いの生存をすべて残りなく捨て去ることができます。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 21F偈

21F 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、愛執をすっかり断ち切ったった修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。

                       以上第18章 花

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
今回の偈も、21A偈と同じ構造です。テーマは「愛執」に変わります。愛執とは、我がものという思いです。

愛執を理解するために、ウダーナヴァルガ第3章愛執の第1偈を引用します。

「あれこれ考えて心が乱され、愛欲がはげしいのに、愛欲を清らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆(きずな)を堅固ならしめる。」

愛欲がはげしく、あれこれ考える人は、心が乱れ、愛執が増大すると述べられています。

この偈の中の言葉「愛欲」については、ウダーナヴァルガ第2章愛欲の第1偈を引用します。

「愛欲よ。わたしは汝の本(もと)を知っている。愛欲よ。汝は思いから生じる。わたしは汝のことを思わないであろう。そうすれば、わたしにとって汝はもはや現れないであろう。」

愛欲、すなわち物を欲しがる気持ちは外部刺激によって生じると考えられがちですが、ここでは愛欲は思いから生じると述べられています。

そして、あれこれ考えて心が乱れると、愛欲は愛執になり、増大すると述べています。

ですから、「愛執をすっかり断ち切ったった修行者」とは、あれこれ考えることをやめて、心を乱すことがなく、愛欲を思わず、物を欲しがる気持ちがなくなっているのです。

そのような修行者は、こちらの岸を捨て去って、ニルヴァーナを楽しんでいるのです。


この偈を以て、「第18章 花」が終わります。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 21E偈

21E 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、貪りをすっかり断ち切ったった修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
今回の偈も、21A偈と同じ構造です。テーマは「貪り」です。

貪りは、貪欲と言っていいのです。貪欲は単なる欲とは違って、欲の対象に執著することです。単なる欲は生きるために必要なものもあります。単なる欲は、欲の対象を帰ることが可能です。例えば、パンが食べたいと思っても、パンがなければ、うどんでもいいのです。しかし、欲の対象に執著している人はパンをうどんに変えられません。

これは、心に余韻作用、変換・増幅作用があるために起こるのです。パンを食べたいといつまでも思っているからであり、またパンが絶対に食べたいものなのだと思いを変換し、その思いを増大させているからなのです。

貪りをすっかり断ち切ったった修行者は、心から余韻作用、変換・増幅作用をなくした修行者は、執著心がありませんから、こちらの岸を捨て去てて、ニルヴァーナに至るのです。

最後に私ごとですが、昨日は孫娘(2歳6ヶ月)に朝から晩まで付き合っていて、ブログが書けませんでした。悪しからず。孫の心の余韻作用、変換・増幅作用は強烈でした。




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 21D偈

21D 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、おごり高ぶりをすっかり断ち切ったった修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この偈も、21A偈と同じ構造です。テーマは「おごり高ぶり」です。

おごり高ぶりは、別の言葉で言えば、高慢です。高慢の意味は「自分の才能・容貌(ようぼう)などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。」です。

高慢な人は他人を見下すことによって傷つけることもしていますが、世の中には上には上がいるもので、自分より上の人から自分が傷つけられ、苦しむことになるのです。(実は、このような現象はありますが、お互いにこのように思っているだけなのです。真実は優れているとか劣っているといるとはないのですから。)

おごり高ぶり(高慢)の問題点は、他人と比較するという思いなのです。

「おごり高ぶりをすっかり断ち切ったった修行者」とは、他人と比較するという思いが完全に存在しない人なのです。

この偈の理解するために、参考になるスッタニパータの偈を引用します。それは、昨日引用した偈の次の842偈です。
(以下引用)
『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、___かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、___かれには『等しい』とか『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
(以上引用)




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 21C偈

21C 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、迷妄をすっかり断ち切ったった修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
今回も21C偈も文の構造は、21A偈と21偈Bと同じですが、テーマが「情欲」、「憎しみ」から「迷妄」に変わっています。

この「迷妄」を理解するために、「スッタニパータ第4章9マーガンディヤ」の841偈の一部を引用します。

(師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。)

つまり、自分に執著があるから、迷妄に陥ると述べられています。ちなみにSRKWブッダは迷妄とは、名称(ナーマ)に基づく混乱であり、妄執(渇愛)とは形態(ルーパ)に基づく混乱だと述べておられます。

迷妄をすっかり断ち切ったった修行者は、執著をすっかりなくしているのです。

執著は愛執(我がものという念い)で我執(我ありという念い)です。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 21B偈

21B 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、憎しみをすっかり断ち切ったった修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
今回の21B偈は、前回の21A偈の「情欲」という言葉が「憎しみ」に変わったのものです。つまり、テーマが「情欲」から「憎しみ」になりました。

憎しみも、情欲と同じように自覚している場合もありますが、無自覚である場合もあります。その場合は、その人はイライラしているという状態になります。その人は何故自分がイライラしているかわからないのです。イライラの原因がわかりませんから、それをなおすこともできません。その人は憎しみのために、晴れやかな明るい人生は送れません。不幸なことです。

しかし、憎しみをすっかり断ち切ったった修行者は、無自覚な憎しみにも気づき、憎しみを根こそぎ無くしたのです。憎しみは、持続した怒りですので、もちろん怒りも根こそぎなくしたのです。そのような修行者は、解脱して、こちらの岸、すなわち輪廻の世界を捨てて、ニルヴァーナに至るのです。

感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 21A偈

21A 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、情欲をすっかり断ち切ったった修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。

(スッタニパータ2 池に生(は)える蓮華(れんげ)を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断(た)ってしまった修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。___蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この偈は、21偈の「・・・修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。」の部分は同じです。その解説はしました。

「 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、情欲をすっかり断ち切ったった」を説明すると次のようになります。

蓮華は池の底の地中に根をはり、地下茎をのばして、地上に茎を伸ばして、花を咲かせるのです。ですから、蓮華をすべて刈り取るとすれば、根や地下茎も水に潜って刈り取らなければなりません。そのように、情欲をすっかり断ち切るとは、顕在意識だけでなく、潜在意識における情欲もなくすということです。潜在意識における情欲をなくすことは、顕在意識で無くそうと思っただけではできません。智慧の力が必要なのです。その智慧はどうすれば得られるかが問題ですが、そのは因縁によるとしか言えません。そこで、心構えの正しい人は、功徳を積むということになるのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 21偈

21 (諸の存在の実体は)ウドゥンバラ樹の花(優曇華)をもとめても得られないようなものだとさとって、諸の生存のうちに堅固なものを見出さなかった修行者は、こちらの岸を捨て去る。___蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。) 
 
(スッタニパータ5 無花果(いちじく)の樹(き)の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々(もろもろ)の生存状態のうちに堅固(けんご)なものを見出さない修行者は、この世とかの世をともに捨て去る。___蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「諸の生存のうち」を観察するためには、自己を観察することしかできません。ですから、自己を観察します。自己の中に、堅固なもの、変わらないものがありません。肉体はもちろん、心と言われるものも、昨日の心と今日の心は違います。堅固なものとは言えないのです。修行者は、諸々の存在のうちに堅固なものはないと知るのです。そこでこの世には執著すべきものはないと覚り、この世に対する執著をなくすのです。それが「こちらの岸を捨て去る。」ということです。

スッタニパータ5にも、この偈と同じようなものがありますが、細かいところは少し異なります。たとえが「ウドゥンバラ樹の花(優曇華)」と「無花果(いちじく)」の違いです。いちじくの花は本来ないものですが、優曇華は三千年に一度仏の出現するときなどに開くといわれる伝説の花ですので、三千に一度でも開く時があります。ないとは言えない例えが使われています。

また、スッタニパータ5では、「この世とかの世をともに捨て去る。」と述べられていますが、ウダーナヴァルガでは、「こちらの岸を捨て去る。」となっています。前者の意味は「輪廻から解脱する」という意味になりますが、後者では、解脱した修行者にとって、あの世はニルヴァーナと考えたのだと推測します。

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今日はまた、石法如来が昨日下記の正法を発表されましたので、お知らせします。

「自らの明知をひたらすら信じ歩みを進めよ。さすれば苦しみの止滅にみちびくことができる。」
です。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 19偈、20偈

19 この世は水瓶のように脆いものだと知って、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであると、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

20 この世は泡沫(うたかた)のようなものだと知り、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであると、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
今回の19偈と20偈は、昨日引用した17偈と18偈の出だしの言葉「この身体は」が「この世は」に変わったものです。

すなわち、「この世は」は「この身体」と同様に、水瓶や泡沫と同様にはかない本姓のものであるということです。

この世とは、自分の外界と言ってよいでしょうが、それは激しく移り変わり、何も固定した変化しないものはありません。はかないものであることがわかります。それならば、自分の外界を追い求め、それらに執著することはありません。

昨日述べましたように、この世は輪廻の世界であり、悪魔の支配する世界なのです。そのことがわかれば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、解脱して、死王に見られないところ(ニルヴァーナ)に行くだろうということです。


さて、また皆様に、喜ばしいニュースを報告します。
昨日、石法尊者が慧解脱して、石法如来になられたことが判明しました。
次々にSRKWブッダの弟子がブッダになられております。
法津如来、法捗如来、法風如来、石法如来です。
大変めでたいことです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 17偈、18偈

17 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであると、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

18 この身は泡沫(うたたか)のようなものと知り、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものであると、さとったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。 


(ダンマパダ40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。勝ち得たものを守れ。____しかもそれに執着することなく。)

(ダンマパダ46 この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
17偈と18偈の違いは、身体の比喩を前者は「水瓶」を使い、後者は「泡沫」を使っていますが、両者とも「この身体は・・・・・、陽炎(かげろう)のようなはかない本性のものである」と言っていますから、両者の趣旨は同じです。

この身体ははかない本性のものとは、寿命は長くても120年、平均は80年くらい、その間に病気や事故天災などに遭えば、短くて、死ぬことになるということです。それならば、身体に執著するなということです。

ここで「この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。」という文章が続きます。

「悪魔の花の矢」とは、身体の楽しみ、すなわち感覚の楽しみです。なぜこのように言うのでしょうか? 悪魔は輪廻の世界の支配者です。悪魔は生命を輪廻の世界に結びつけるために、感覚の楽しみを使っているのです。美しいものを見たいのでこの世で生きていたい。美しい音を聞きたいのでこの世で生きていたい。美味しいものを味わいたいのでこの世で生きていたいというようにして、生命を輪廻の世界に結びつけているのです。

「死王」とは、悪魔のことです。感覚の楽しみを断ち切ると、「死王に見られないところ」すなわち輪廻から抜け出てたニルヴァーナ(涅槃)の世界に行くのです。

感覚の楽しみに断ち切るとは、感覚の楽しみに執著しないということです。感覚の楽しみに執著しなければ、それに支配されません。それが、断ち切るということです。

この偈で大切なことは、感覚の楽しみに執著しないことです。注意すべきは、この身体を軽視せよということではありません。この感覚があるから、快・不快がわかり、苦の本体がわかるのです。苦を縁として、解脱するのですから、身体や感覚は軽視できないのです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 14偈、15偈、16偈

14 花を摘(つ)むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、___眠っている村を、洪水が押し流して行くように、____

15 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。

(ダンマパダ47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、___ )

(ダンマパダ48 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。)

16 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、未だ財産が集まらないうちに、死神がかれを征服する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
14偈は15偈で完結します。16偈は15偈で述べられた「未だ望みを果たさないうちに」の一つの具体的な例でしょう。

では、「花を摘(つ)むのに夢中になっている人」とは何を意味しているのでしょう。花とは人々の興味の対象です。いろいろな人がいますから、その興味の対象もいろいろです。生きるために食べ物や、それを得るためのお金を得ることに興味のある人は多いでしょう。

しかし、彼らの望みは果てしないので、彼らの望みが果たされないうちに、寿命が尽きて死んでしまうのです。

「眠っている村を、洪水が押し流して行くように」とは、寿命が尽きる前に、災害や事故で死んでしまう人々もいます。彼らも望みを果たさないうちに死んでしまうのです。「死神がかれを征服する。」とは、そのことを言っているのです。

ここで、ブッダは何を言いたいのでしょうか? 人の命ははかないものであると知って、人として生まれたならば、何をすべきか考えなさいということです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 12偈、13偈

12、13 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香ぐわしく麗(うるわ)しい蓮華が生ずるように。塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだに、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子たちは智慧をもて輝く。 

(ダンマパダ58、59 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から香(かぐわ)しく麗(うるわ)しい蓮華が生ずるように。塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって、正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもて輝く。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この世の中は、真実を知らないことで、解決の糸口がわからずに、悩み苦しみ、愚かなことをしている人々の集まりです。そのために、世の中は不平等がはびこり、不幸な出来事が多いのです。

しかし、それだからこそ、その矛盾に気づき、真実を求める人々が現れます。

その先駆けは、ゴータマ・ブッダでした。

現代では、正しくめざめた人はSRKWはブッダです。

その弟子たちは次々に輝き始めています。

はじめに、心解脱したカッシー長老が輝きました。

次に、身解脱して、涼風尊者が輝きました。

次に、身解脱して、石法尊者が輝きました。

次に、慧解脱して、法津如来が輝きました。

次に、身解脱して、美歩尊者が輝きました。

次に、身解脱して、山句尊者が輝きました。

次に、慧解脱して、法捗如来が輝きました。

次に、慧解脱して、法風如来が輝きました。

これからもブッダの弟子たちは輝き始めるでしょう。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 11偈

11 修行僧らよ。雨期にはバグラの花が(萎れた)花びらを捨て落とすように、情欲と罪過とを捨て去れよ。

(ダンマパダ377 修行僧らよ。ジャスミンの花が萎(しお)れた花びらを捨て落とすように、貪り(むさぼ)と怒りとを捨て去れよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「バグラ」は、岩波文庫の注によると、「樹の名。若い女の口から酒をそそがれて花が咲くといわれている。」と記されています。ダンマパダ377では、ジャスミンと書かれていますから、ジャスミンの花ののように、この花も、枯れるとぽろっと花びらが落ちるのだと思われます。

また、この偈の「情欲と罪過」について、岩波文庫の注によれば、パーリ語の dosa は「怒り」という意味です。サンスクリット語の dosa は「罪過」「欠陥」という意味になるが、その句が『ウダーナヴァルガ』に取り入れられたのであるとしてあります。ですから、ブッダの本当に意図は、罪過ではなく、怒りだと判断します。

貪り(むさぼ)と怒りとを、なんの未練や後腐れもなく、ポロリとなくせということです。しかし、それはなかなかできることではありません。貪りや怒りが、意味がなく、自分にも他人にも苦しみをもたらすものだと、よく知って、智慧の力で捨て去るのです。


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 10偈

10 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなすべし。 

(ダンマパダ53 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
人として生まれることは、盲亀浮木(もうきふぼく:大海にすむ盲目の亀が、百年に一度だけ水面に浮かび上がるが、水面に漂っている流木のたった一つの穴にもぐり込もうとしても、なかなか入ることができないという説話)や曇華一現(どんげいちげん:三千年に一度、仏の出現するときなどに開くといわれる伝説の花)のように、稀有なことなのです。

別な説明をすれば、三千世界の生命は無数です。数えきれないのです。それら生命は輪廻をしています。天界や餓鬼、地獄にいる生命は意識体ですから、空間を必要としていませんので、その数は制限されていません。しかし、人間界と畜生界の生命は体がありますから、空間を必要とします。そのため、その数は制限されています。地球上の人間でいえば、現在七十数億人です。もう少し増えることがあっても、その数には限界があります。無数の生命が人間として生まれたいと思っても、その可能性は、宝くじに当たるよりも少ないのです。ですから、人間として生まれたならば、そのチャンスを生かすべきなのです。人間ならば、解脱して、苦しみの輪廻の世界から脱出することができるのです。

多くの善いことをすることは、善いことをすれば功徳になるとは言えませんが、功徳に繋がることは間違いありません。功徳を積めば、人は因縁により解脱するのです。ですから、「人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなすべし。」ということになるのです。

 


感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 9偈

9 他人の過去を見るなかれ。他人のなしたこととしなかったことを見るなかれ。ただ自分の(なしたこととしなかったことについて)それが正しかったか正しくなかったかを、よく反省せよ。


(ダンマパダ50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
仏道修行は、真実を知りたいというところから始まります。真実は遠くにはありません。一番近いところは自分自身です。ですから、この偈では「他人の過去を見るなかれ。他人のなしたこととしなかったことを見るなかれ。ただ自分の(なしたこととしなかったことについて)それが正しかったか正しくなかったかを、よく反省せよ。」と述べているのです。





感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 8偈

8 蜜蜂は(花の)色香を害に、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村のなかを行くときは、そのようにせよ。

(ダンマパダ49 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に、汁をとって、花から飛び去る。聖者が村に行くときは、そのようにせよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この偈からは、菜の花の咲くの春のどかな風景が浮かんでくるので、以前から好きでした。

さて、皆様に、ここで新たに二人の如来が誕生したことをお知らせします。

一人は以前、美歩尊者であられた法捗(ほうちょく)如来です。
この如来の正法は「「おのれをしって、おのれをしる。」です。

もう一人は以前、涼風尊者であられた法風(のりかぜ)如来です。
この如来の正法は「真実の教えを実行せよ。そうすればあなたの願いは叶い、こころの騒めきも静まる。」です。

私、法津如来の正法はまだ明言していませんでしたが、ここで発表します。
「人は功徳を積み、因縁によって解脱するものではあるが、その功徳は固執すべきではない。」




感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 6偈、7偈

6 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実(み)のりがない。

7 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも良い香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実(み)のりがある。


(ダンマパダ51 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。)
 
(ダンマパダ52 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
この二つの偈の喩えについて、注意してください。私は以前誤解していました。

「うるわしく、あでやかに咲く花」の例えは、「実行している人」です。実行している人でも、正しく実行している人と、正しく実行していない人がいるのです。

(私の以前の誤解は、「うるわしく、あでやかに咲く花」を「善く説かれたことば」の喩えとしていました。)

正しく実行している人を「良い香りのあるもの」と言っているのです。正しく実行していない人は「香りのないもの」と言っているのです。

正しく実行している人には、実り(解脱)があるが、正しく実行していない人には実り(解脱)がないと言っているのです。

7偈の訳語「それを実行する人には、実(み)のりがある。」と書いてあり、「正しく実行する人には、実りがある。」とは書かれていませんから、誤解しやすいですが、原文のパーリ語では正しい実行と書いてあります。

実行しない人は論外ですが、正しく実行する人とは、善く説かれたを正しく理解して、心構えが正しく実行する人です。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 5偈

5 自己の愛執を断ち切れ、___池の水から出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静けさに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。

(ダンマパダ285 自己の愛執を断ち切れ、___池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
「自己の愛執を断ち切れ」とブッダは述べていますが、「愛執」とは何を意味しているのでしょうか?

感興のことば(ウダーナヴァルガ)では、すでに第3章で18の偈で説明しています。参考のためにその初めの偈を引用します。
https://76263383.at.webry.info/201807/article_16.html


「あれこれ考えて心が乱され、愛欲がはげしいのに、愛欲を清らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆(きずな)を堅固ならしめる。」

あれこれ考えて、心が乱れている人は、欲しいものを欲しい欲しいと思い、しかもその思いを正しいと思い、執著が増大します。そして、その執著がその人を束縛してしまうのです。これが苦しみになるのです。

ですから、「自己の愛執を断ち切れ」と述べておられます。これが解脱への道なのです。

このように、ブッダは解脱への道を説いているのです。



感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第18章 花 4偈

4 たとい僅かであろうとも、親族に対する人の欲望が断たれていないあいだは、その人の心はそこに束縛されている。___乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うようなものである。 

(ダンマパダ284 たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その人の心はそこ束縛されている。___乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
解脱を目指す人は、すべての束縛から脱して、解放されなければなりません。しかし、自分をよく観察すると、自分の心が多くのものに束縛されていることを知ります。

外から「それはいけないあれはいけない」と言われて、それに束縛されている場合がありますが、内から「それはいけない、あれはいけない」と自分で自分を束縛している場合も多いのです。

さらに、依存という形で束縛されているのです。束縛といっても自分からその束縛を求めているのです。「親族に対する人の欲望」などはその一つです。しかし、自分ではそれを束縛とは思っていませんから、その束縛を断つことは難しいのです。

ですから、「親族に対する人の欲望が断たれていないあいだは、その人の心はそこに束縛されている。」と述べられているのです。