#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20A偈

20A (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「慈しみの心」を理解するために、SRKWブッダの理法「慈悲喜捨」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou001.htm


(以下引用)

【慈悲喜捨】

慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。



慈:慈しみの心。相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。 ものおしみ(飢渇)を制した其の心。



悲: 世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。



喜: 大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。 見下し(嫌悪)を制した其の心。@



捨: 自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。 愛著(欲望)を制した其の心。

最初に書いたように、慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。なぜならば、慈悲喜捨は覚りのこころそのものであるからです。したがって、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)がそれを真実に理解することは実は不可能です。それは例えば、(世間的な)喜怒哀楽の真実は、大人には理解できても子供には本当には理解できないことに似ています。それと同様に、人々(衆生)は誰しも、(世間的な)喜怒哀楽については深く理解しているでしょうが、(出世間の)慈悲喜捨はそのような人間的な心の単なる延長上には無く、またそれは人々(衆生)が推量できるあらゆることのいずれにも属さないものであるゆえに、それを人々(衆生)が理解するよすががありません。したがって、慈悲喜捨について覚りの境地に至った人が人々(衆生)にどんな説明をしたにせよ、その真意が人々に(直接に、直ちに)理解されることは無いでしょう。

ところで、慈悲喜捨は、その行為が為された後においてのみその真意が理解され得る性質のものです。その様は、例えば赤色という色全体を理解してもらうために予め用意した赤色の幾つかのサンプルが、相手が赤色全体を理解して初めて、それらのどれもが赤色の良いサンプルであったことを後づけで了解することに似ています。つまり、相手が赤色全体を理解しない間は、それらのサンプルが何を意図して提示されているのかという基本的なことさえ相手には理解されないことでしょう。なお、すでに赤色を知っている人が決して手を抜いている訳ではありませんが、言ってみればそのような適当なサンプルしか予め示せないのは、赤色を知ることを欲しているそれぞれの人が、具体的にどの赤色で赤色全体を理解するかということを前もって予測することが誰にもできない性質のことであるからです。

それと同様な事情から、如来が人々(衆生)に対して行う慈悲喜捨の説明も、それについて適当に用意したいくつかの譬えを無作為に示すしか現実的な方法が見あたりませんが、慈悲喜捨は確かに存在するこころ(の働き)であることは間違いないことです。人が覚りの境地に至ったとき、その人が慈悲喜捨が虚妄ならざる真実のこころであることを後づけで理解することは間違いないことであるからです。そして、その様は、年端もいかない子供が初めて一つの赤色を正しく理解したときに、それと同時にすべての赤色を正しく理解するのだと断言できることと同様です。それが起こるとき、それは一瞬間の出来事ですが、その一瞬間を境にその子供はおよそ世の中に存在するすべての赤色を残らず理解することでしょう。そして、その理解は、何かを順次覚えていった結果として段階的に生じるのではなく、そのときがまさに到来したときに一挙にその理解が起こるという性質のものであるのは疑いのないことです。同様に、人がブッダのこころを理解するのも一瞬間の出来事(頓悟)であり、そのときを境にその人はすべての覚りを理解することでしょう。

[補足説明]

無理を承知の上で敢えて仏教を哲学的に表現するならば、大きく二本の柱を立てることができるでしょう。それは、「慈悲心」と「平等心」の二本柱です。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「慈悲心の柱」にあたり、喜捨は「平等心の柱」にあたります。また、同じ事を別の言葉で表現するならば、「清浄心」と「本来清浄心」の二本柱を立てることができます。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「清浄心の柱」にあたり、喜捨は「本来清浄心の柱」にあたると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
慈悲の慈は外的に観察され得るこころ(外に出して憚ることのないこころ)であり、悲は内的にのみ見い出されるこころ(人にさとられてはならないこころ、人にさとられてしまっては完成し得ないこころ)です。同様に、喜捨の喜は外的に観察され得るこころであり、捨は内的にのみ見い出されるこころです。

[補足説明(3)]
阿摩羅識をルーツとする真実の慈悲喜捨は、阿頼耶識(いわゆる人類の集合的無意識)にもとづく感動や感動のエッセンスとは違っていることに注意しなければなりません。それについて、中国の六祖慧能(ブッダ)は、阿頼耶識にもとづく慈悲喜捨に似て非なるものを「人の知恵」と呼び、本当の慈悲喜捨である仏智(仏の智慧)とは区別しています。(六祖壇教-法達の参門)

(以上引用)







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第24章 広く説く 20A偈

20A (愚かな者が)たとい毎月(苦行者の風習にならって)クシャ草の端(はし)につけて(極く僅かの)食物を摂(と)るようなことをしても、慈しみの心(の功徳)の十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「慈しみの心」を理解するために、SRKWブッダの理法「慈悲喜捨」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou001.htm


(以下引用)

【慈悲喜捨】

慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。



慈:慈しみの心。相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。 ものおしみ(飢渇)を制した其の心。



悲: 世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。



喜: 大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。 見下し(嫌悪)を制した其の心。@



捨: 自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。 愛著(欲望)を制した其の心。

最初に書いたように、慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。なぜならば、慈悲喜捨は覚りのこころそのものであるからです。したがって、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)がそれを真実に理解することは実は不可能です。それは例えば、(世間的な)喜怒哀楽の真実は、大人には理解できても子供には本当には理解できないことに似ています。それと同様に、人々(衆生)は誰しも、(世間的な)喜怒哀楽については深く理解しているでしょうが、(出世間の)慈悲喜捨はそのような人間的な心の単なる延長上には無く、またそれは人々(衆生)が推量できるあらゆることのいずれにも属さないものであるゆえに、それを人々(衆生)が理解するよすががありません。したがって、慈悲喜捨について覚りの境地に至った人が人々(衆生)にどんな説明をしたにせよ、その真意が人々に(直接に、直ちに)理解されることは無いでしょう。

ところで、慈悲喜捨は、その行為が為された後においてのみその真意が理解され得る性質のものです。その様は、例えば赤色という色全体を理解してもらうために予め用意した赤色の幾つかのサンプルが、相手が赤色全体を理解して初めて、それらのどれもが赤色の良いサンプルであったことを後づけで了解することに似ています。つまり、相手が赤色全体を理解しない間は、それらのサンプルが何を意図して提示されているのかという基本的なことさえ相手には理解されないことでしょう。なお、すでに赤色を知っている人が決して手を抜いている訳ではありませんが、言ってみればそのような適当なサンプルしか予め示せないのは、赤色を知ることを欲しているそれぞれの人が、具体的にどの赤色で赤色全体を理解するかということを前もって予測することが誰にもできない性質のことであるからです。

それと同様な事情から、如来が人々(衆生)に対して行う慈悲喜捨の説明も、それについて適当に用意したいくつかの譬えを無作為に示すしか現実的な方法が見あたりませんが、慈悲喜捨は確かに存在するこころ(の働き)であることは間違いないことです。人が覚りの境地に至ったとき、その人が慈悲喜捨が虚妄ならざる真実のこころであることを後づけで理解することは間違いないことであるからです。そして、その様は、年端もいかない子供が初めて一つの赤色を正しく理解したときに、それと同時にすべての赤色を正しく理解するのだと断言できることと同様です。それが起こるとき、それは一瞬間の出来事ですが、その一瞬間を境にその子供はおよそ世の中に存在するすべての赤色を残らず理解することでしょう。そして、その理解は、何かを順次覚えていった結果として段階的に生じるのではなく、そのときがまさに到来したときに一挙にその理解が起こるという性質のものであるのは疑いのないことです。同様に、人がブッダのこころを理解するのも一瞬間の出来事(頓悟)であり、そのときを境にその人はすべての覚りを理解することでしょう。

[補足説明]

無理を承知の上で敢えて仏教を哲学的に表現するならば、大きく二本の柱を立てることができるでしょう。それは、「慈悲心」と「平等心」の二本柱です。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「慈悲心の柱」にあたり、喜捨は「平等心の柱」にあたります。また、同じ事を別の言葉で表現するならば、「清浄心」と「本来清浄心」の二本柱を立てることができます。ここで、慈悲喜捨の慈悲は「清浄心の柱」にあたり、喜捨は「本来清浄心の柱」にあたると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
慈悲の慈は外的に観察され得るこころ(外に出して憚ることのないこころ)であり、悲は内的にのみ見い出されるこころ(人にさとられてはならないこころ、人にさとられてしまっては完成し得ないこころ)です。同様に、喜捨の喜は外的に観察され得るこころであり、捨は内的にのみ見い出されるこころです。

[補足説明(3)]
阿摩羅識をルーツとする真実の慈悲喜捨は、阿頼耶識(いわゆる人類の集合的無意識)にもとづく感動や感動のエッセンスとは違っていることに注意しなければなりません。それについて、中国の六祖慧能(ブッダ)は、阿頼耶識にもとづく慈悲喜捨に似て非なるものを「人の知恵」と呼び、本当の慈悲喜捨である仏智(仏の智慧)とは区別しています。(六祖壇教-法達の参門)

(以上引用)