#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 13偈

13 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者は心にとどめて楽しむ。 

(ダンマパダ79 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この13偈と同じ内容のダンマパダ79を解説した記事を検索したら、なんと!2010年1月1日のものでした。今から10年前に書いたものでした。参考のために引用します。
https://76263383.at.webry.info/201001/article_1.html

(以下引用)
日本では、仏教ブームなどと言われる時もありますが、その内容は神社、仏閣めぐりや仏像見学や鑑賞にとどまり、仏陀の教えを学ぶ人は本当に少ないのです。その上、日本仏教にはいろいろな宗派がありその教えもまちまちです。何が本物の仏陀の教えか分かるのが本当に難しいのです。それでも、何とか本物の仏陀の教えにたどり着き、その教えを実践することができれば、心からこだわりが消えて、悩みがなくなることがわかります。ですから、本物の仏陀の教えを知った賢い人は仏陀の教えを実践して、安楽に生きるのです。

 新年にあたり、仏陀の教えに「遭遇」できた幸運をあらためてかみしめます。本当によかったなと思います。しかし同時に、この道を完成させることは簡単ではありません。欲と怒りと無知の習慣は強固なもので、これを断ち切るには、日々新たな精進のエネルギーを充電しなければなりません。毎日、ダンマパダを学ぶことは精進エネルギーの充電です。これからも皆様といっしょに、この道を一歩一歩前進したいと思っておりますので、皆様の叱咤激励をお願いいたします。

(以上引用)

あれから、10年後2019年1月15日に解脱知見を得て、如来となった今日、「真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。」ことを実感しています。

これは奇跡ではありません。皆様も功徳を積み、精進なさいまして、如来になりますようにお祈り申し上げます。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 12偈

12 福徳を積んだ人に対しては、悪魔の身をとった神々も、他(ほか)から害をなすことも、障りをなすこともできないであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

福徳を積んだ人でなくても、本当は心配ないのです。大丈夫なのです。繰り返しますが、心配ないのです。大丈夫なのです。どんなことがあっても、それには意味があって、そこから学べるのです。すべてのことは学ぶために、起きているのです。

しかし、福徳のない人は、自分の心がやましさを感じて、そのことに自信がもてず、心配し、悩み、苦しむのです。

福徳を積んだ人は、自分の心はやましさを感じないでしょうから、なおのこと、自信をもってください。心配ありません。どんなことが起きても大丈夫です。どんなことにも意味があります。そこから意味を学びましょう。

「悪魔の身をとった神々」について。仏教では悪魔も神々の一員と考えています。人間に害をなす神々は悪魔というのです。それらの悪魔の行為はやさしくないのですが、上で述べたように、それにも意味がありますから、そこから学んでください。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 11偈

11 福徳の果報が熟するのは楽しい。希望することが成就する。そうしてその人は速やかに最高のやすらぎ、覆いの解きほぐされた(解脱の)状態におもむく。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この章の7偈や8偈で説かれているように、「道理をよく実践すると、幸せを受ける。」また、「信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽になる。」のですが、「まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。(ダンマパダ120)」ということもあります。

しかし、福徳の果報が熟せば、希望することが成就するのです。それは楽しいです。

しかも、その人は最高のやすらぎ、解脱の状態におもむくというのです。これ以上に楽しいことはないでしょう。

話は変わりますが、昨日、SRKWブッダ著「覚りの境地(2019改訂版)」を紹介した方から電話がありまして、「この本は素晴らしい。覚った人しか書けない本だ。親しい人に差し上げる。」と、喜びを知らせてきました。それを聞いて、楽しくなりました。これも果報です。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 9偈、10偈

9 わかち与えることと戦闘とは相等しいと人々は言う。これらの美徳は悪人には存在しない。人々にわかち与える時は、戦闘の時のごとくである。その原因をまとめて言うならば、(いずれも他と)等しいであろう。

10 執著する心がなくて施し与える人は、幾百の障害にうち勝って、敵である物惜しみを圧倒して、勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

9偈の「わかち与えることと戦闘とは相等しいと人々は言う。」という言葉は、これを読んだだけではよくわかりません。しかも、次のことばが、「これらの美徳は悪人には存在しない。」とあります。とすると、戦闘も美徳ということになります。

その意味は10偈を読むとわかります。つまり、「敵である物惜しみ」と書いてあります。これらの偈でいう「戦闘」とは、敵である物惜しみと戦う戦闘なのです。

わかち与えるためには、敵である物惜しみと戦わなければならないということです。

通常、勇士といえば自分の外部にいる勇敢に戦う戦士を意味しますが、自分の内部の敵、すなわち物惜しみなどと戦う戦士は、外部の戦う戦士以上に困難は敵と戦うわけですから、「勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。」というわけです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 8偈

8 善い人々は僅かであっても、正しくわかち与えるならば、多くの人々に勝つ。ただ物をくれてやることが勝つのではない。たとい僅かのものであっても、信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽となる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈の表現は、わかりにくいところがあります。古い経典は多くの編者の手を経ていますので、途中で書き換わっているものもあるでしょう。

わかりやすく書き換えるならば、次のようになります。

「善い人々は、僅かであっても正しくわかち与えるならば、ただ物をくれてやる多くの人々に勝つ。ただ物をくれてやることが勝つのではない。たとい僅かのものであっても、信仰心をもって与えるならば、この人は来世において安楽となる。」

「正しくわかち与える」とは、「信仰心をもって与える」ということであり、相手の幸せを願って、やさしい気持ちで与えることです。

また、この偈で「勝つ」とは、利益(りやく)がある、功徳があるという意味です。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 6偈、7偈

6 道理を実践する人を、つねに道理が守る。大雨が降るときに傘がかさが守ってくれるようなものである。道理をよく実践すると、このすぐれた利益がある。道理を実践する人は悪いところ(=地獄)におもむかない。 
 
7 道理を実践する人を、つねに道理が守る。道理をよく実践すると、幸せを受ける。道理をよく実践すると、このすぐれた利益がある。道理を実践する人は悪いところ(=地獄)におもむかない。

(テーラガーター303 理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護る。理法をよく実践するならば、幸せをもたらす。理法を良く実践したならば、このすぐれた功徳がある。理法を良く実践する人は、悪い境界におもむくことが無い。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「道理を実践する人を、つねに道理が守る。」の説明が「大雨が降るときに傘がかさが守ってくれるようなものである。」 この説明がわかりやすいですね。災害に遭遇しても、道理を実践する人は助かるということです。

不思議ですが本当にそうなのです。

「このすぐれた利益がある。」の「利益」は「りえき」とよむよりは「りやく」と読む方がよいのです。利益(りえき)は世俗的に利益ですが、利益(りやく)は世間的な意味ではなく、功徳があるという意味です。

しかし、道理を実践する人には、利益(りえき)もあるものです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 5偈

5 よい果報を生ずるもととして善い行ないを実行せよ。報いを生ずるもととして悪い行ないを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。 

(ダンマパダ169 善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「善い行ないを実行せよ。」と「悪い行ないを実行するな。」とは、「ことわりに従って行なう」ということです。

では、「ことわりに従って行なう」とは何かと言えば、3偈、4偈で述べられていたように、生きものを暴力によって害しないことです。

暴力にはいろいろあります。実際に棒や武器で傷つけるだけではなく、言葉の暴力もあります。微妙な態度で人を傷つけることもあります。

これを、SRKWブッダは「だれも悲しまなせない」という表現を使っています。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 3偈、4偈

3 生きとし生ける者は安楽をもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自己の安楽をもとめていても、実は安楽を得ることができない。

4 生きとし生ける者は安楽をもとめている。もしも暴力によって生きものを害することがないならば、その人は自己の安楽をもとめているが、死後には安楽が得られる。

(ダンマパダ131 生きとし生ける者は幸(しあわ)せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。)

(ダンマパダ132 生きとし生ける者は幸(しあわ)せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

3、4偈のはじめに述べられている言葉、「生きとし生ける者は安楽をもとめている。」は、ダンマパダ131、132では、「生きとし生ける者は幸(しあわ)せをもとめている。」となっています。
どちらも同じことだと考えてよいでしょう。また、この言葉にほとんどの人々が同意するでしょう。

しかし、これに同意しない人もいます。強がりで言っている人もいますが、本当にそう思ってない人もいます。これは不幸なことですが、この問題は今は置いておきます。

生きとし生ける者は安楽をもとめていることがわかれば、他の生きものもそれを求めていることがわかります。それならば、他の生きものといっしょに安楽を求めればよいのです。

それなのに、暴力によって生きものを害することは、他の生きもの安楽を壊すことになるのです。それどころか他の生きものを苦しめているのです。その時のそのような事をする人の気持ちをイメージしてください。それは決して安楽ではないのです。実は、それは苦しみなのです。死後ではなくとも、その時、すでに地獄なのです。

暴力によって生きものを害することがないならば、他の生きものを苦しめることがなく、慈しみの心で他の生きものに接せれば、その時お互いに楽しくなり、死後にも安楽でいられるでしょう。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 2偈

2 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。 

(ダンマパダ291 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆(きずな)にまつわれて、怨みから免れることができない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

2010年6月3日、ダンマパダ291の解説で次のように書きました。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_3.html

(以下引用)
現代人は自分の目的を達するためには戦いに勝つことだと考えているのです。しかし、戦いに勝つことでは決して幸福になることはできません。もちろん戦いは必ず勝つとは限りません。たとえ、勝ったとしても、勝つためには多くの精神的、物質的損害を被るし、戦いに敗れた人々の怨みを買い、またいつ反撃されるかわからないのです。ですから、落ち着きや安心は得られないのです。落ち着き、安心のないところには決して幸福はないのです。

 この詩の「他の者らに苦を与え自分の楽を求める者は(他人に苦を与えて自分の楽を求める者は)」とは、戦いに勝って、幸福を求める者という意味です。この大いなる勘違いを、正すことは人類の最大の課題だといってもよいと思います。また、次のダンマパダの第5番と共に学んで下さい。

実にこの世において
怨みは怨みによって静まらない
怨みを持たないことで静まる
これは永遠の真理である

 この詩は仏教が全世界に伝えるべき、緊急メッセージです。

(以上引用)

現代人に限らず、ゴータマ・ブッダの時代もこの偈で述べられている通りであったのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 1偈

1 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安楽に臥す。 

(ダンマパダ201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥(ふす)す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

山本太郎著「#あなたを幸せにしたいんだ」という本を読んでいたら、その中に元銀行員、元セブン・イレブン・オーナー三井義文氏のスピーチ記事が載っていました。かれの言葉の一部を引用します。

(以下引用)

私が大嫌いな言葉『勝ち組・負け組」、そんなもの絶対にないですからね。いいですか。誰も勝っていないし、誰も負けてない。だいたい勝っているやつに言いたいよ。あなたの洋服、だれが作ったんや。今、食べているビーフステーキ、誰が牛を育ててきたんだよ、と。全然わかってないと思います。
明治時代に (competition という英語が)入ってきて、福沢諭吉が競争という言葉を作ったことは、皆さんご存じですかね? 日本には(もともと)ないんですよ? 競争という言葉は。日本にあったのは切磋琢磨(せっさたくま)なんです。

(以上引用)

この文章を引用しましたのは、勝ち負けはあるように見えるけれども、本来勝ち負けはないのだと言いたいためですが、少しわかりにくいかもしれませんでした。

もう一つ、金子みすゞの詩を引用します。

(以下引用)

わたしと小鳥とすずと

わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。

わたしが体をゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、
たくさんな唄は知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、

みんなちがって、みんないい。

(以上引用)

以前、ダンマパダ201を子供のためにつぎのように訳しました。
https://76263383.at.webry.info/201004/article_3.html

勝てばうらまれるし
負ければくやしい
だから賢い人は
戦わずに仲良く生きる


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 57偈

57 前を捨てよ。後を捨てよ。中間でも棄てよ。生存の彼岸に達した人はあらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。 

(ダンマパダ348 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「前を捨てよ。後を捨てよ。中間でも棄てよ」の、前と後と中間とは何かについて、約10年前にコメントしています。
https://76263383.at.webry.info/201007/article_3.html

前を過去とすれば後は未来で中間は現在になりますが、前を未来にすれば後は過去で中間は変わらずに現在になります。どちらでもよいのです。どちらも、妄想ですから。

普通、仏教では過去・未来は頭の中にある妄想で、実際にあるのは現在だと言います。それで、「今に生きろ。」などと言います。しかし、この偈では、「中間でも棄てよ。」と述べています。これは、衆生は現在についてもいろいろ妄想して、正しく見ていないからです。

「生存の彼岸に達した人」とは解脱して、すべての束縛を捨てた人ですが、このような人はこの世を正しく見ているのです。

「生れと老いとを受けることが無い」とは、輪廻転生を繰り返すことがないということです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 56偈

56 想(おもい)を払いのけて、心の内がすっかり静かになっている人は、すべての想い・執著を乗り超えて、束縛を離れ、未だ渡らぬ聖河合流霊域におもむく。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

54偈は50偈と、55偈は53偈とほぼ同じですので省略します。

「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫の56偈の注には、「スッタニパータ7参照」とありますので、それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/20130407/index.html

「想念を焼き尽して余すことなく、心の内がよく整(ととの)えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。___蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」

「想(おもい)」、スッタニパータでは「想念」と訳されています。これを無くすと心がしずかになります。想いが心を騒がしくしているのです。

「未だ渡らぬ聖河合流霊域におもむく」の意味はよくわかりませんが、スッタニパータを参考にすると、「この世とかの世とをともに捨て去る」ことであり、すなわち、ニルヴァーナ(涅槃)にいくことでしょう。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 53偈

53 世の人々を誘(いざな)うために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれには存在しない。ブッダの境地はひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?)

(ダンマパダ180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ180について、10年前に次のようなコメントを書いていました。
https://76263383.at.webry.info/200905/article_12.html

(以下引用)
 昨日、「朝顔はどのようにして離れた場所の支えを探してその支えに巻きつくのでしょうか?」と言う問いを書きました。皆さんは暇と余裕がないでしょうから、朝顔のつるの動きを一時間も観察できないでしょう。ですから、私の観察結果を書きます。朝顔は静かに本当にゆっくり右回りにつるを伸ばしながら、回っているのです。支えが遠くにあると初めは空振りしながら回ります。しかし、つるが伸びれば二回目の回転の時、つるは支えにぶつかります。そうするとつるは支えを軸にして右回りするのです。このようにして朝顔は支えを見つけて支えに巻きつくのです。

 さて、今回の詩とは直接関係はないのですが、ブッダが幾つかの経典で、(例:中部経典第76サンダカ経)修行者が話題にしてはいけない無駄話が具体的に書かれています。それは次の通りです。王国の話、盗賊の話、大臣の話、軍隊の話、恐怖の話、戦争の話、食べ物の話、飲み物の話、衣服の話、髪型の話、香料の話、親族の話、乗り物の話、村の話、町の話、都の話、国の話、女性の話、男性の話、英雄の話、道路の話、井戸端の話、先祖の話、四方山話、世界説、海洋説、有り無しの話、以上です。すべて欲や怒りや無知を増やす話なのです。

 この話題は私の為に書いたのです。最近の世界や日本の政治や経済の状況を見ると、世界は悪い方向に進んでいるように思えます。賢者は少なく、愚か者は多数です。いわゆる民主主義では愚か者の支持する世界になるのです。世界は良くなるはずはないのです。ブッダの禁止した無駄話、王国の話は政治の話です。しかし、これらに関心が向いてしまいます。

 このような時に私は、ダンマパダ124番から学びます。「傷ないと毒の中でも大丈夫 悪ない人に不幸は来ない 」http://76263383.at.webry.info/200903/article_27.html
(以上引用)

最近、ユーチューブで「れいわ新選組の山本太郎の街頭記者会見」というものをみて楽しんでいます。政治の話ですから、ゴータマ・ブッダの禁止した無駄話になるのですが、冷静にみれば、役に立つ話もあります。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 52偈

52 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか? 

(ダンマパダ179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人(なんびと)も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ179の解説のために、以前つぎのような「子供のためにダンマパダ」を書きました。
https://76263383.at.webry.info/201003/article_20.html

「孫悟空の話を知っていますか
あれは作り話しだけれども、あのように
お釈迦さまの智慧にかかれば
どんな知恵者もお釈迦さまの手の中だ」


だからと言って、ブッダは衆生を自分と対等にみています。ともに喜び、ともに悲しみます。けして怒ることはありません。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 51偈

51 妄想して考え出された現象界もなく、個人存在の連続もなく、障害もなくなって、はたらきのなくなった人、___愛執を離れて行じている聖者を、神々も世人も、それだと識(し)ることがない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ7・7 その人に妄想のとどまることはなく、彼は障碍(しようがい)をも超えている。渇欲なく行動するかの聖者を、天界をも含めたこの世界の誰も軽んじ、そしることがない、と。)

(桜部建訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)

*法津如来のコメント

ウダーナ7・7の偈は、世尊がみずからの妄想の念慮の断滅を知って、唱えられたものであると記されています。

「愛執を離れて行じている聖者を、神々も世人も、それだと識(し)ることがない。」とは、その通りですが、それでも世人のなかには、それだとほのかに識る人が現れます。

話は変わります。昨日はこのブログに時々コメントしてくれるノブさんに会いました。彼は東京の人ではありませんが、西荻窪に行ってみたい喫茶店があるということで、そこへ連れっていってくれました。

お互いに初対面でしたから、自己紹介をしながら、仏教以外の話もいろいろ楽しく話しました。私が印象に残った彼の言葉としては、彼は25歳くらいの時に、SRKWブッダをネットで知ったそうですが、SRKWブッダが「やさしさ」ということを強調していたことに興味を持ったということです。

また、彼のホームページで「覚りの境地」(http://srkw-buddha.main.jp)にある理法「恕(じょ)すこと」(http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm)を知って、彼は本物だろうと思ったと言うことでした。

ノブさんは、その中の次の言葉を覚えていました。

「人は自分よりもすぐれていると思う相手の言葉を恕(じょ)すのであり、また人は、相手と争うことを厭ってその相手の言葉を恕(じょ)すのである。
しかしながら、もし人が、自分よりも(明らかに)劣っていると思われる相手の言葉を恕(じょ)すならば、それは『最上の忍耐』と呼ばれる。」



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 50偈

50 地中の根に皮もなく、葉もなく、蔓草もまとっていないで、束縛から解き放たれたこのしっかりした人を、誰が非難し得るだろうか?

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ7・6 その人には地に張る根もなく、葉もない。どうしてからみつく蔓があろうか。束縛から放たれたかの賢者を誰がよくそしりえよう。天人らも彼を讃える。梵天(ブラフマー)にも彼は讃えられる、と。)

(桜部建訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)

*法津如来のコメント

ウダーナ7・6の偈は、世尊(ゴータマ・ブッダ)が渇愛の尽きた解脱の境地をみずから観察していた長老アンニャータコンダンニャ(はじめに覚った仏弟子)をご覧になって、述べた偈であると記されています。

「地中の根に皮もなく」をあえて解釈すれば、個人的無意識(名称)や集合的無意識(形態)をなくしてということになります。「蔓草もまとっていない」は、余計なしがらみがないということです。

そのような人は、あらゆる束縛から解放されているのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 49偈

49 あたかも一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。

(ダンマパダ81 一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「達観している人の特徴14選!諦めや悟りとは違うの?」という記事をネットで見つけました。
https://cherish-media.jp/posts/6527

その目次を引用します。
1達観ってどんな意味?
2達観の類語は?
3達観の対義語は?
4達観は英語で言うと?
5達観の使い方の例文を3つ紹介!
6達観と「諦め」「悟り」との違いは?
7達観している人の特徴8選!
8男女で達観している人の特徴は異なる?
9達観している男性の特徴3選!
10達観している女性の特徴3選!
11恋愛で達観すると出てくる考え方3選!
12あなたはどう?達観度チェック10選!
13達観するための方法は?2つ紹介!
14達観している人って実際どんな人?2人紹介!
15達観を知って、達観している人に近づこう!

結構おもしろい。だいたいのところはまちがってません。
しかし、さすがに達観した人が書いたものではないので、達観するための核心は書かれていません。

その核心を知りたい人は、「覚りの境地」をお読みください。
http://srkw-buddha.main.jp

先日も紹介しましたが、12月2日に「覚りの境地(2019改訂版)」の紙の本も出版されました。アマゾンで購入できます。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 47偈、48偈

47 もしも心ある人々が善と悪とを一つ一つ考察して或る人を称讃するならば、その称讃は正しく説かれたものである。しかし無智なる人々はかれを称讃しない。

48 聡明であり、徳行あり、知慧をそなえ、諸の戒しめをまもって身を慎しんでいるその人を、誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。

(ダンマパダ229、230 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

或る人が賞賛される場合には、その人が本当に賞賛されるべき人かどうかは、どのような人々が賞賛しているのか知る必要があります。

無智なる人々によって賞賛されているのならば、その賞賛は本物ではありません。心ある人々によって賞賛されているなばら、それは本物です。

48偈の「ジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨」とは、インドのジャンブーナダという河で取られた砂金でできたもので、金の含有の多い価値のある金貨ということです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 46偈

46 ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、また現在にもいない。

(ダンマパダ228 ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「ただ誹(そし)られるだけの人」はいるだろうか?

そのように思っている人はいるでしょう。しかし、そのように思わなくてもよいのです。少なくとも自分がそのように思わないことはできます。あなたは無限と言ってもよい多くの生命のなかで、人間として生まれたのだから。人間だから、覚ることができるのです。

褒められ続けてきた人は、注意してください。

そのような人でも、誹(そし)られることがあります。その時、落ち込まないでください。この世には人を非難する人はたくさんいるのですから、あなたは褒められ続けたように多くの長所を持っているのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 45偈

45 沈黙せる者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。  

(ダンマパダ227 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この言葉は、非難されて落ち込んでいる人が覚えておきたい言葉です。

黙っていても非難する人はいます。多く語っても非難する人はいます。少し語っても非難する人はいます。人の非難を気にする必要はありません。

気にする必要はありませんが、その非難を何かの縁だと考えることはできます。世の中には偶然はありませんから、その非難を縁にして、自分の人生を好転させることができるのです。

そうすれば、あの非難がありがたかったと思えるのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 44偈

44 真理を説き、輝やかすべし。仙人の幡(はた)をかかげよ。諸の仙人は、真理を重んじ、つねに善く語ることをはたじるしとしている。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

2019年12月2日、SRKWブッダ著「覚りの境地(2019改訂版)私はこうしてブッダになった」が紙の本として出版されました。アマゾンで購入できます。

2019改訂版ですから、2019年に出現した四人の仏(ブッダ)についても追記されています。

法津如来の記述の最後に、「法津如来は、SRKWブッダに続いて現代の世に出現した仏である。彼は、偉大なる法輪を回すであろう。」と記されています。

法津如来も、つねに善く語るでしょう。彼と語りたい方は、連絡してください。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 43偈

43 愚者のあいだに混(まじ)っている賢者は、物を言わなければその存在が知られない。しかし物を言って、汚れのない境地を説くならば、その存在が知られる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

愚者のあいだに混じっている本物の賢者は少ない。物を言う自称賢者は多いので、賢者を求める人は注意が必要です。

人気のある賢者は、偽物の場合が多い。人気があるとということは多くの愚者に気にいることを言のです。本物の賢者はあまり人気がない。愚者に気にいるようなことを言わないからです。

それでも、心ある人は本物の賢者を探し出すものです。自慢しているようで書きにくいのですが、このような目立たない、このブログを読んでくださる若者がいて、私に会いに来てくれました。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 42偈

42 善いことはするほうがよい。なして、後に悔いがない。善いことをしたならば(のちに)喜ぶ。善いところ(天上)に行って喜ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

善いことはするほうがよい。なして、後に悔いがない。昨日の偈は「悪いことをすれば、後で悔いる。」でした。

善いことか、悪いことかは、あとで悔いが有るか無いかでわかります。

ダンマパダ15、16でも次のように述べられています。
「悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。
彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。」
「善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。
彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。」

ここで、問題になることは、ある行いが善い行いであったか、悪い行いであったかは後でわかると言うことです。行いをする前にわからなければ、悪い行いをする可能性があります。

昨日の偈では、それがわからなければ、何もしないほうがよいと提案されていました。

何かをするとすれば、まず落ち着いて、自分が穏やかな気持ちで、やさしい気持ちで、それをすれば、自分が幸せになれるか、相手が幸せになれるか、他の人々を悲しませないか考えて行動すべきです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 41偈



41 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。悪いことをしたならば、(のちに)憂える。悪いところ(=地獄)に行って憂える。

(ダンマパダ314 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

悪いことをするよりは、何もしないほうがよいのです。

人を悲しめるようなことはするなということです。どうなるかわからないときは、何もしないほうがよいのです。

なぜならば、あとで後悔することになるからです。

人を悲しませるようなことをしたならば、あとで苦しみます。死んでも、苦しむところに行くのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 40偈

40 束縛から迷いの生存が生じ、束縛から離れることから迷いの生存が滅びる。聡明な人は生存の生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、諸の束縛を超えるようなその境地を学べ。

(ダンマパダ282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前回の39偈で、衆生は束縛によって迷っていると述べられましたが、今回の40偈では、そもそも迷いの生存(衆生)は束縛から生じたのだと説かれています。

しかし、束縛から離れることで、迷いの生存(衆生)が滅びると説かれています。これは、衆生が解脱して仏(ブッダ)になれるということですが、これができると言っているのです。

参考のために引用したダンマパダ282とは、後半の「生じることとほろびることとのこの二種の道を知って」という言葉が同じです。二種の道を知ることは解脱にとって重要な意味をもつことですが、それはスッタニパータ第4章大いなる章12、二種の観察 という経で詳しく述べられています。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 39偈

39 愚人は束縛によって迷っているが、賢者は束縛を断ち切る。聡明な人は束縛を取りのぞいて___ここに神々と人間とのすべての束縛を断ち切って、あらゆる苦しみから解脱する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今日は、束縛について解説します。ダンマパダ345、346を引用します。

「 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)を、思慮ある人々は堅固な縛(いましめ)とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、___それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩(ゆる)く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。」

つまり、鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)も縛ではあるけれども、堅固な束縛ではないと述べています。一方、宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれることは堅固な縛だと言っています。

それは、なぜか? 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)は、外部の縛なのです。自分でもそれが縛であるとわかるのです。しかし、宝石や耳環・腕輪や妻子は内部の縛なのです。自分ではそれが縛であるとわからないのです。ですから、自分でその縛を外そうとしないのです。それで、それが堅固な縛であるというのです。それから解放できず、それから自由になれないのです。

内部の束縛には、宝石や耳環・腕輪や妻子など形のあるものもありますが、形のない概念(思い込み)があります。衆生はこの概念に束縛されています。善悪も概念です。衆生は善悪の概念に束縛されています。

また、衆生はお金によって苦しめられていますが、お金の本質は概念です。この概念から解放されて、自由になったらよいでしょう。それはできることです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 38偈

38 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかける<道の人>は存在しない。愚人どもは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者たちは汚れのあらわれをはなれている。 

(ダンマパダ254 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚(汚が)れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

仏教用語に親しまれている方のために、今回の偈を仏教用語に戻してみると次のようになります。

虚空・・・・・・・空(くう)
足跡・・・・・・・相(そう)
<道の人>・・・・菩薩
汚れのあらわれ・・戯論(=妄想)
愚人・・・・・・・衆生
修行完成者・・・仏(如来)

両方の言葉から、今まで持っていた言葉のイメージから離れて、理解するようにして下さい。

ちなみに、「外面的なこと」とは、相(そう)です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 37偈

37 情欲にひとしい激流は存在しない。(不利な骰の目を投げたとしても、)怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。 

(251 情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、情欲と怒りと迷妄、そして妄執(渇愛)について述べたものです。

これらの言葉の意味を理解するために、参考になるように次のようにまとめてみました。

情欲・・・・・・・名称に基づく欲
怒り・・・・・・・名称と形態に基づくものがあります。
迷妄・・・・・・・名称に基づく混乱
妄執(渇愛)・・・形態に基づく混乱

さて、昨日紹介した動画の続編がありましたので、それのアドレスもお知らせします。

リセット医療と糖尿病:リセット医療から自立した健康生活へ
https://www.youtube.com/watch?v=SlfsWaodhNo&frags=pl%2Cwn






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 36偈

36 恐ろしい道を渡り終わった。深淵は避けられた。軛や束縛からは解放された。情欲の毒はすべて根だやしにされた。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「情欲の毒はすべて根だやしにされた。」について、少し唐突かもしれませんが、参考になる動画を見つけましたので、紹介します。

リセット医療と糖尿病: 糖尿病は心の病気
https://www.youtube.com/watch?v=WRvpQ8KsxpY&frags=pl%2Cwn

実は妻が糖尿病なので、その改善に参考になる情報はないかと思っていましたので、見つけたものです。

この動画では人間をコップにたとえて、コップのなかには色々なものが入っていると考えます。コップのなかには、いろいろな臓器や血液の他にも感情や緊張が入っています。そして、感情や緊張は常に変化している。感情や緊張が増えて、コップから溢れ出てた時に、病気の症状として現れるのだと教えています。

別のたとえでは、手のひらに、豆腐や卵を始めはそってに握って、次に力をいれて握ると、指の間から豆腐や卵が出てきます。その指の間から出てきたものが病気の症状だというのです。

このように考えると、感情や緊張が病気の原因で、感情や緊張を取り除けば病気は改善されるというのです。糖尿病も同じであるというのです。

この偈に戻ると、情欲の毒とは、人間が生きていくために必要な欲以上の欲です。コップから溢れ出る欲がなくなるということです。

多くの感情や緊張は、過剰な情欲であらわれますので、それがなくなれば、病気はなくなり、人間は安定するのです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 35偈

35 すでに旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆる束縛をのがれ、解脱した気高い人には、悩みは存在しない。

(ダンマパダ90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆(きずな)をのがれた人には、悩みは存在しない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「すでに旅路を終え」とは、人生の旅路とも考えられますが、輪廻の旅路とも考えられます。遍歴修行の旅を終えたのです。

これは、世界と人生の根本がわかったということです。これ以上は知る必要がないという境地です。しかし、世界と人生の具体的な現れはいろいろで、面白く、楽しいのです。

人々が憂うことがらも、だからどうなの、なんとかなると思え、実際になんとかなるのです。

それは、あらゆる束縛をのがれているからです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 34偈

34 真理が正しく説かれたときに、真理を見とおす人々は、全く死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。

(ダンマパダ86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)にいたるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「真理が正しく説かれたときに」は、ブッダが真理を説く時ではありますが、このブッダは化身の時もあります。

化身とは、自分がその時ブッダであるという自覚もなしに、法界からの情報を伝える人です。化身は年齢、性別、職業などに関係ないので、子供の場合も老人の場合も女性の場合も男性の場合も、貧乏な人の場合も金持ちの場合もあります。誰が化身であるか見た目ではわかりません。しかし、その時のその人の心にはやさしさがあります。

その言葉を聞いて、その言葉が真理であると理解することは、自分の力で行わなければなりません。ブッダとわかっている方の言葉を聞いて、それは真理だろうと思うのは、自分の力で真理を理解したことになりません。

その意味では、善知識(化身)の言葉を聞いて、それは真理であると理解した時が本物なのです。その時、人は解脱するのです。