#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 34偈

34 知識あり、勤めはげみ、身を慎しみ、心を安定統一させ、禅定を楽しみ、聡明なる人は、再び迷いの生存に生まれないために、心のこれらの思考作用を悉く捨てる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

人はなぜあれこれ考えるのでしょうか? わからないからです。

あれこれ考えると、エネルギーを失います。エネルギーを失うと疲れます。ゆとりがなくなります。安楽ではなくなります。

では、どうしたらよいのでしょうか?

わかればよいのです。わかってしまえばよいのです。わかってしまえば、あれこれ考えません。あれこれ考えなければ、エネルギーは失われません。ゆとりができます。心は安楽になります。

しかしながら、わからないことを、わかったことにはできません。
しかも、人には自分が自覚してないわからないこともあります。
自分の自覚できないわからないことあるので、自分で自覚しなくとも絶えず考えているのです。

自分でも自覚できないわからないことが何かわかれば、その答えもわかります。安心してください。

そうすれば、「心のこれらの思考作用を悉く捨てる。」ことができます。

「これらの思考作用」とは、33偈の「粗大な思考および微細な思考」を意味しています。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 33偈

33 心を揺れさせるために現われ出たこれらの粗大な思考および微細な思考を絶えまなく思いつつ、心の乱れた人はつねに走る。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「心の乱れた人はつねに走る。」とは、心の乱れた人はつねにあちらこちら走り回って、ゆとりのない疲れるだけの人生を送っているいるということです。

これは嫌ですね。ゆとりのある、疲れない、安楽な人生を送りたいものです。

心の乱れた人は、心が揺れ動いているのです。

この偈は心を揺れ動かすものは「粗大な思考および微細な思考」と説かれています。

中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫のこの偈の注には次のように書かれています。
「微細な思考___vitarkaに粗大なものと微細なものとを認めている。後代のアビダルマ教学ではvitarka(尋)は粗大な思考、vica’ra(伺)は微細な思考ということが定められるが、ここにはまだそこまで達しない段階の思想が述べられていると考えられる。」

vitarka(尋)は粗大な思考、vica’ra(伺)は微細な思考について、太鼓の音や鳥の飛び方に例えられます。

太鼓をばちで叩いた時の音が「尋」です。その後も太鼓のおとはします。その音が「伺」です。
また、鳥は羽を羽ばたいて飛びますが、羽ばたく時の飛びが「尋」で、羽を動かさなくとも飛んでいます。後者の飛びが「伺」です。

しかし、このように考えなくともよく、左脳的思考(論理的思考)と右脳的思考(イメージ的思考)と考えても良いでしょう。

いずれにせよ、絶えずあれこれ考えていることが、心を揺れさ、乱れさせるのです。

多くの人々は、このことに気づいていません。まず、そのことに気づいてください。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 32偈

32 起きつべき時に気力が無く、ことばでは力(りき)んだことを言うのに怠りなまけていて、希望もなく、つねに意欲が害われ、怠惰でものうい人は、知慧の道をつねに知らない。

(ダンマパダ280 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

起きるべき時に気力がなければ、起きれません。怠けているというよりは苦しいのです。自分でもそれがよいと思っていないはずです。それでよいと思えるならば、それは休養になって、気力がたまるでしょう。

希望がないとは、意欲がなくなるのです。そのために、怠惰になります。物憂い人は、外からみれば暗くみえます。暗い人は知慧の道が見えません。もちろん、知慧の道を発見できません。

このような人は、まず、気力(元気、エネルギー)を出すこと、貯めることが必要です。

心と体は連動していますから、心が元気でないときは、体を動かすことです。体を動かすと元気が出てきます。そうすると心も元気になります。心が元気になると楽しくなります。楽しくなれば明るくなります。明るくなれば希望があらわれます。希望があれば意欲がでます。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 31偈

31 汝はつとめておれ。なおざりになるな。___情欲の対象が汝の心を乱さないように。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。地獄では(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに泣き叫ぶが___ 

(ダンマパダ371 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「つとめておれ。」は、ダンマパダでは「瞑想せよ。」になっています。ウダーナヴァルガでは、修行は瞑想とは限らないので、このように修正されています。

「なおざりになるな。」とは、「放逸ではあってはならぬ。」という意味です。「気をつけておれ。」ということです。真理の言葉(法の句)はいつ誰から聞くかわからないからです。

さらに、詳しく「情欲の対象が汝の心を乱さないように。」と、放逸にならない方法が述べられているのです。

「なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。」・・・「気をつけることを怠り、解脱できるときに、解脱を逃したならば、悪業のゆえに地獄に堕ちるかのしれない。そうすれば、灼熱した鉄丸を飲まされることになると警告しているのです。

少し厳しい警告ですが、こういうことがあり得ると説かれているのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 30偈

30 人が快楽に耽り、官能にしたがい、心のままに動くならば、この世で名誉はいつもかれを捨て去る。___果実の落ちてしまった木を、鳥が立ち去るように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

この偈はブッダの方便でしょう。「この世で名誉はいつもかれを捨て去る。」と言われていますが、ブッダは名誉には関心がないのです。

八世間法というものがあります。1利得、2不利得、3名誉、4不名誉、5非難、6賞賛、7楽、8苦、です。ブッダはこれらに関心がありませんが、衆生が一番関心のあることがらなのです。ですから、これらの事柄を通じて説法することができます。

名誉そのものは、どうでもよいのですが、衆生が名誉を得るために必要なこと、快楽に耽らないこと、官能に従わないこと、心のままに動かないことは、解脱に至るために必要なことなのです。

「心のままに動く」については、第31章5偈で解説しました。
https://76263383.at.webry.info/202002/article_6.html




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 29偈

29 心を流し去る三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を貪欲に根ざした想(おも)いによってその人を漂わし去る。___ 

(ダンマパダ339 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂(ただよ)わし去る。___その波浪とは貪欲にねざした想(おも)いである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

ダンマパダ339については、過去に解説しています。その一部を引用します。
https://76263383.at.webry.info/200810/article_17.html

(以下引用)
渇愛には三種類あります。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触の五欲に対する渇愛(欲しい欲しいという思い)
2.有愛 : 生存に対する渇愛(生きたいという思い)
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)

 眼において上記の三種類の渇愛があります。同様に、鼻、耳、舌、身、意にそれぞれ三種類ありますから十八種類の渇愛があります。
 渇愛の対象として、色、声、香、味、触、法で渇愛が分類されますから、ここでも十八種類の渇愛があります。
 以上により、十八に十八を加えて三十六の渇愛があるというわけです。

 これらの多数の渇愛はすべて快楽を求めて流れ、執着になるのです。そして苦しみを作り、輪廻の原因になるのです。

(以上引用)
岩波文庫「ブッダの真理のことば・感興のことば」の「快いものに向って流れる三十六の激流」の注にもいろいろ書いてありますが、最後に「ともかく多数の情欲を意味する。」とありますから、そのように理解すればよいのです。

多数の情欲があれば、その想いの波動によって、その想いを肯定する人を、混乱させ、苦しめるということです。輪廻を信じる人にとっては、輪廻の原因になるということです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 28偈



28 心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、明らかな知慧は全からず。

(ダンマパダ38 心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、さとりの智慧は全からず。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

私が、ダンマパダ38をパーリ語から訳すと次のようになります。

心が確立せず、正法を知らず、信念が不安定ならば、般若は完成しない。

「心が確立せず」とは、自分の本心が明確でなくということです。・・・自分の本心は何か?

「正法を知らず」・・・正法についてはSRKWブッダのホームページの「正法」を参照してください。
http://srkw-buddha.main.jp/syouhou.htm


「信念」とは、自分は仏(ブッダ)になれるという確信です。

「般若」とは、人が仏(ブッダ)になる時、現れる智慧です。「法の句」とも言います。28偈では「明らかな知慧」と表現され、中村元訳では「さとりの智慧」と訳されています。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 27偈

27 心が敵意でかたまり、怒り猛っていて、汚れているならば、よく説かれた教えを識(し)りわけることは容易ではない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

昨日、掲載した25偈と同様の趣旨が述べられています。

一昨日2月20日、SRKWブッダが次のようにツイートしてました。

「覚る前は、覚り後のことは分からない。ところで、覚った後は覚る前のことがよく思い出せない。そう言えば、世間にはそのようなことがあったなと何となく思い出す程度になる。要するに、覚りを挟んでまったく違う境地に住しているということである。」

その通りで、「心が敵意でかたまり、怒り猛っていて、汚れているならば、」という状況をよく思い出せないのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 25偈、26偈

25 心が不浄で汚れ、動揺していて、あるいは怒り猛(たけ)っているならば、道理をはっきりと知ることができない。

26 しかし、怒りと不浄を制し、害心を除いて、よく説かれた教えを明らかに知る人は、___

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

毎朝ラジオ体操をするために、近所の運動広場に行きます。始めにラジオ体操の歌を歌います。

新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空仰げ
・・・

とありますから、大空を見上げます。
東西南北さえぎるもののない大空です。

空を見ていると、「男(女)心は秋の空」と言われるように、空は心に喩えられることがよくわかります。空には雲があり、どの雲も同じではありません。しかも雲は絶えず変化しています。雲の動きで、大空の風の動きも感じられます。時には月が残っていることがあります。

空が曇っている日や風の強い日には、青空が見えないように、心が汚れて、動揺して、怒り猛っているならば、道理をはっきりと知ることができないのです。

26偈の「よく説かれた教えを明らかに知る人は、」以下の「____」は、「道理をはっきりと知ることができる。」と考えてよいでしょう。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 23偈、24偈

23 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心のように疾く動く。もしも汚れた心で話したり行動したりするならば、苦しみはその人につき従う。___車をひく牛の足跡に車輪がついて行くようなものである。 

24 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心のように疾く動く。もしも清らかな心で話したり行行動したりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだにつき従って離れないようなものである。)

(ダンマパダ1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。___車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。)

(ダンマパダ2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。___影がそのからだから離れないように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

23偈と24偈は、非常に大切なことが説かれています。

一つは、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心のように疾く動く。」ことです。ダンマパダでは「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」と説かれています。

もう一つは、それゆえに、人の苦しみあるいは福楽は、その人の心が汚れているか清らかであるかによるということです。すなわち心が汚れていれば苦しみ、心が清らかならば福徳を得るということです。

この章の8A 偈の解説の最後に、心は電子のようなものであると付け加えました。
https://76263383.at.webry.info/202002/article_9.html

とはいえ、汚れた電子や清らかな電子があるのか考えてください。陰電子、陽電子というものがあるそうですが。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 18偈〜22偈

18 屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、憎しみの侵入することが無い。

19 屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、迷妄の侵入することが無い。

20 屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、高慢の侵入することが無い。

21 屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、貪ぼりの侵入することが無い。

22 屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、愛執の侵入することが無い。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

今回の第31章18偈から22章の偈は、すでに解説した第31章12偈から16偈とそれぞれ対になっているものです。

昨日の11偈と合わせてみると、「心を修養していないならば、情欲、憎しみ、迷妄、高慢、貪り、愛執が心に侵入する。」に対して、「心をよく修養してあるならば、情欲、憎しみ、迷妄、高慢、貪り、愛執の侵入することが無い。」となります。

情欲、憎しみ、迷妄、高慢、貪り、愛執をまとめて考えると、大変だと思うでしょうが、心にこれらがすべて、一緒に現れるわけではありません。時々、それらが一つ一つ現れるのです。それらのどれかが現れた時、それらに対する考え方を変えるのです。

まずは、それらが現れたことに、気づくことが大切です。いろいろな気づき方があるでしょうが、わたしの場合はつぎのように考えました。

情欲・・・・それはそれほど必要なもの?
憎しみ・・・それは相手のせいなの?
迷妄・・・・どうしようかなと迷っている?
高慢・・・・自分は嫌な奴じゃない?
貪り・・・・満足してないの?
愛執・・・・それは自分のものと言える?


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 17偈

17 屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。

(ダンマパダ14 屋根をよく葺(ふ)いてある家には雨の洩れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

今回の偈は、第31章11偈と対になるものです。

11 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。

すなわち、「心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。」のでありますが、「心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。」のです。

11偈の解説で、心を修養することは、考え方を変えることと述べました。
https://76263383.at.webry.info/202002/article_13.html

考え方を変えることは難しいことです。

特に、根本的に考え方をかえることは、コペルニクッス的転回などといわれ、発想が108度変わることですが、単に努力しただけではできないのです。

そもそも、多くの人々は自分の考え方を変えたいと思っていません。むしろ自分の考え方は変えたくないと思っています。ですから、もちろん自分の考え方を変えることはできません。

本当に困った時、苦しい時などに、何とかしたいと思った時が、考え方を変えるチャンスなのです。
困った時、苦しい時は、今までの考え方を変えてください。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 16偈

16 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、愛執が心に侵入する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

すべての苦しみは、執著から生じます。すべての執著がなくなることを解脱と言います。ですから、解脱すれば、すべての苦しみがなくなるのです。

執著には、愛執と我執があります。愛執は私のものという思い・考えです。我執は私が一番大切という思い・考えです。

この世に生命が生まれた時、何も持たずに生まれました。本来どんな生命も自分のものなどないのです。

自分の肉体といえども、母の卵子と父の精子の合体ででき、母の乳と自然界からの食べ物を食べて、成長したのですから、自分のものではないのです。ですが、いつのまにか自分のものという思い・考えをもつようになります。

そして、いつのまにか、自分のものをもっと欲しい、失いたくないと思うようになります。しかし、欲しいものが自由に得られるとは限らず、持っているものも壊れたり、変化するのです。これは苦しみなのです。

他の生命も自分と同様に思い、自分が一番大切だと思っていますから、欲しいものを取り合って、争いが起こることもあります。これも苦しみです。

心を修養して、愛執(私のものという思い・考え)と我執(私が一番大切という思い・考え)をなくすならば、苦しみがなくなります。

最後に、「私が一番大切という思い・考え」は、他の人も、自分と同様にそのように考えていることをよく知って、他の人の思い・考えるを尊重することが大切であることを申し添えます。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 15偈

15 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、貪ぼりが心に侵入する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「貪る」とは、「満足することなく、欲しがる」ことですが、これも心を修養すなければ、すなわち考え方を変えなければ、貪りが現れます。

例えば、多くの人々は甘いものが好きですが、これは砂糖が好きだということです。しかし、砂糖は毒である(ネットなどで調べてください。)と知ったら、どうするでしょうか?

ちなみに、砂糖にはアルコールや覚醒剤などと同様に依存性があります。

今までは、砂糖は甘くて美味しいと考えていた人が、砂糖は美味しいけれでも、取りすぎを控えるでしょう。砂糖を貪ることをやめるでしょう。(依存性がありますから、やめようと思ってもやめられないという危険性もあります。)

しかし、しっかりと心を修養して、しっかり考え方を変えるならば、砂糖を含む食物を貪ることをやめるでしょう。

同様に諸々の貪りの対象は、心をそれに依存させ、束縛するのです。しかし、それが毒(危険)であるという考え方に変えるならば、心は貪りの対象から解放されるでしょう。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 14偈

14 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、高慢が心に侵入する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

高慢の慢は、他人と自分を比較するという意味です。比較には、相手より自分を上に見る、相手と自分を同等に見る、相手より自分を下に見る、ということがあります。高慢は他人より自分を上にみることです。

高慢の人は、他人から嫌われます。また、高慢の人にも、世間は広いですから、必ず自分より上の人がいて、その人に対して卑屈になり、悩みや苦しみが現れるのです。

心を修養して、考え方を変えるならば、そもそも自分と他人と比較することができないことがわかるのです。

以前にも引用しましたが、金子みすゞの詩「わたしと小鳥と鈴と」を引用します。

(以下引用)

わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 13偈

13 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、迷妄が心に侵入する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

迷妄の意味は、「物事の道理がわからず、事実でないものを事実だと思い込むこと」と、辞書に書いてありますが、実はこの状態は苦しいのです。

ちょうど、昨夜ある方から「疑惑という苦しみも多分に含まれている」というメールがきました。迷妄は苦しみなのです。

「心を修養していないならば、」は、「考え方を変えなければ、」です。

どのように考え方を変えるかですが、世の中のものは無常なのです。無情でもあります。変わって欲しくないと思っても、変わります。生きているものは必ず死にます。ですから、そのように考え方を変えるのです。

楽なもの、楽しいものは、苦しみの元になることを知らなければなりません。楽なもの、楽しいものは執著の元になるからです。楽しいことは楽しめばよいのですが、それに執著すると苦しみなるのです。執著がいけません。そのように考え方を変えるのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 12偈

12 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、憎しみが心に侵入する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

今回の偈は、昨日掲載した11偈「屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。」の「情欲」が「憎しみ」に変わったものです。

昨日、「心を修養していないならば、」は「考え方を変えないならば、」の意味であると説明しました。では「憎しみ」は、どのような考え方の時、心に侵入してくるのか思い出してみましょう。

私は、以前はかなり怒りぽい性格はありましたが、その怒りは持続せず、あまり憎くむという記憶はありません。妻や娘は「一生憎んでやる」などと言っていた記憶があります。その時、わたしは、「それだけはやめなさい。」と言ったと覚えています。

自分に危害を加えられたり、利益を損なわれたりした場合に、憎むということがありますが、それより自分の非難されたり、名誉が傷つけられた時に憎むという現象が多く現れるようです。

また、自分が不利益を被った場合も、相手が自然現象である場合は憎しみは起らず、相手が特定の個人の場合に憎しみが強く現れます。

結論を急ぎます。自分の不利益は、特定の個人のせいではなく、自然現象だと思えばよいのです。また、自分が非難されても、自分の尊厳は何も変化はしないのです。非難に反応する必要はありません。

さらに言えば、本来自分と言えるものは何もないのですから、自分の名誉などはなく、ですから傷つけられることもないのです。憎む必要はないのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 11偈

11 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。

(ダンマパダ13 屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「心を修養していないならば」とは、何でしょうか?

端的に言えば、「考え方を変えなければ」ということです。

例えば、生活が苦しいと思っている人がいます。その人は生活が苦しいのは、お金がないからだと思います。そこで、お金が欲しいという情欲があらわれます。

生活が苦しいのは、お金がないからではありません。また、それは自分が悪いわけでも、他人が悪いのでもありません。その時は、お金を欲しがるのではなく、その時に必要なことをすればよいのです。実際問題では、いろいろあります。それを探して、それをすることは楽しいのです。それが生きているということです。必要ならば、生活保護を申請するということもあります。

考え方を変えれば、心に情欲が侵入しないのです。

*最後の文章は、午前中の文章では、「考え方を変えなければ、心に情欲が侵入しないのです。」となっていましたが、ある読者のご指摘に上のように訂正いたしました。ご指摘くださいましてありがとうございました。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 10偈

10 母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてくれない。 

(ダンマパダ43 母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優(すぐ)れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

10偈は、昨日掲載した9偈の逆で、母や父など自分のためになることをしてくれる人々より、正しく向けられた心が、自分のためによいことをしてくれると述べています。

昨日の例で言えば、彼らはこの世で幸せにしてくれますが、神々の世界に行かせてはくれません、ましてや解脱させることまではできません。

しかし、正しく向けられた心は、死後に神々の世界に行かせてくれますし、解脱まで導いてくれるのです。それが「正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてくれない。」ということです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 9偈

9 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪(よこしま)なことをめざしている自分の心が自分に対して自分でなすほどには、それほどひどいことをしない。

(ダンマパダ42 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

この偈を言い換えてみると、「邪なことをめざしている自分の心ほど、自分に対してひどいことをするものはない。」ということです。

憎む人や怨む人は、どんなにひどいことをしても、例えば、殺すということをしても、その人を地獄に落とすことはできません。しかし、邪なことをめざしている自分の心は自分を地獄に落とすのです。

死後に地獄があるとは信じられない人は、邪なことをめざしている時の自分の心を想像してください。心は緊張して、呼吸が浅くなって、幸せな状態ではないでしょう。そんな状態で生きていたいと思いますか?





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 8A偈

8A 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制するであろう人々は、大きな恐怖からのがれるであろう。)

(ダンマパダ37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。)


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「大きな恐怖からのがれるであろう。」・・・とは死の恐怖から逃れるということです。

8A偈は、ダンマパダ37と同じですから、過去のブロブの解説を読んでみました。
https://76263383.at.webry.info/200901/article_23.html

(以下引用)
今日は先ず、昨日の問題の回答を書かなければならないでしょう。昨日の問題(心は五感では知れないのに)「私たちはなぜ心の存在を知っているのでしょうか?」

 コメントに書かれた皆さんの答えはほぼ正解です。なぜならば、心を知るものはそのようなものだからです。一言で答えた人はその言葉の本当の意味を知らないおそれがあります。

 相応部経典に「一切」というお経があります。(南伝大蔵経15巻25,26ページ)この中で、釈尊は「何をか一切となす。眼と色なり。耳と声なり。鼻と香なり。舌と味なり。身と触なり。意と法なり。これを名づけて一切となす。」 これ以外に何かあると思う人は混乱すると述べています。そのようなものはないからです。ここから判断すると心は法に含まれます。法を知るものは意なのです。意とは心の感覚器官です。アビダルマ的には意門と言います。意は心と言ってもいいのです。この言葉で答えなかった人は悲観しないでください、心を知るものを言葉で知る人よりよく分かっているかもしれませんから。

 瞑想をするのは、言葉ではなく実感を把握するためです。たとえば、座る瞑想で、お腹の膨らみ、縮みを実況中継をしていると、頭にかゆみが現れる、かゆみ、かゆみと実況中継していると、外で音が聞こえました。音、音と実況中継します。この時は身の感覚、耳の感覚があり、五感が働いています。また、お腹の膨らみ縮みに戻ります。だんだんお腹の動きに集中していくと、お腹の動きとそれを知っているだけになることがあります。それを知っているのは心なのです。心の本質は知る機能ですが、心の感じる機能を「意」といいます。

 心の感覚(意)は身体の感覚(五感)に妨害されて、なかなか自覚されないのです。しかも、瞑想で心を落ち着かせても、五感の刺激があると、心は思考、妄想を初めます。そのため心を感じるということが難しいのです。実況中継で思考、妄想が起きないようにして、心(意)が心を感じられるようにするのです。そうすると心の無常、苦、無我が発見できる筈です。

 このような瞑想実践を通じて、今回の詩の心が「遠くに飛び、一人で動く 身体はないが、身体にいる」ことが分かると思います。「身体はないが」は心は身体を持たないと言うことです。「身体にいる」はその心が身体の中にいるという意味です。また、心を感じ、心を知ると、心を制御できるのです。悪魔の支配とは、五感よって起きる欲望の支配なのです。この支配を克服できれば、煩悩を克服できるのです。煩悩を克服することは解脱、涅槃への道なのです。

(以上引用)
読者のコメント(解答)は、次のアドレスにあります。
https://76263383.at.webry.info/200901/article_22.html


以上の話とは別に、近年の量子論の話を比喩的に用いると、心は電子なようなものだと言えます。
つまり、電子は通常は特定の場所になく、雲のように、波のように存在していますが、そこに注目すると、電子は粒子として、場所を確保するものということです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 8偈

8 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英智ある人はこれを直くする。____弓作(ゆみつくり)が力強く矢の弦を直くするようなものである。  

(ダンマパダ33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なお)くする。____弓矢職人が矢柄を直くするように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

ダンマパダ33について、2009年11月22日に次のように解説しました。
(以下引用)
心を育てるには、心について知らなければなりません。しかし、心は姿、形がありません。色や香りもなく、音もしません。触ることもできないのです。ですから、心はなんとなくあるように思っていても、理解しにくいのです。ですが、心についての理解が深まると、心は非常な大きなエネルギーを持ち、個人を幸福にするのも心であり、不幸にするのも心であり、世界を平和にするのも、戦争にするのも心であることが分かります。そのような重大な心について、仏陀の心に関する教えを学び実践することが必要です。

 「子供のためのダンマパダ」に関して言えば、以前子供と、「心で思ったこと当てゲーム」をやったことがあります。先ず、子供に何か心に思ってもらうのです。それを私が何を思ったか当てるのです。子供は素直で、正直ですから、何かを思うとそれを、いっしょうけんめいに見ているのです。ですから、私は子供の見ているものを言えば当たりです。子供はなぜ分かったのか不思議がりますが、そんなことは簡単です。

 しかし、だんだん大人になると、素直でなくなり、心で思うことと態度を変えてきます。「心で泣いて顔で笑う」とうようなことを始めます。その内、だんだん大人は自分でも自分の本当の心が分からなくなって、自分では幸せを願いながら、不幸になる行動を始めます。ですから、大人も子供も、自分が本当に幸せになるように、心を学び、「心を育てる」必要があるのです。

(以上引用)

実は、2009年1月19日にも解説しています。それには、もう少し細かく心について解説しています。興味のある方は参照してください。
https://76263383.at.webry.info/200901/article_19.html



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 6偈、7偈

6 汝は、幾多の生涯にわたって、生死の流れを無益に経めぐって来た、___家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

7 家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、汝はこの世で滅びてしまった。 

(ダンマパダ153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経(へ)めぐって来た、___家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて___。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。)

(ダンマパダ154 家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。)


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

これらの偈は、ゴータマ・ブッダが無上なる覚りを得た時、最初に述べられた歓喜の言葉だと言われています。

これらの偈は、比喩で述べられていますから、何の比喩であるか書いておきます。

「家」とは身体のことです。
「家の作者」とは、身体を再生させる原因です。
「汝の梁(はり)」とは、煩悩のことです。
「家の屋根」とは、無明(無知、愚かさ)です。

ダンマパダ153、154の訳から離れて、6偈を7偈を読んでみると、「汝」とは、心を意味してることがよくわかるように整理されていることがわかります。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 5偈

5 この心は以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、___あたかも象使いが鉤(かぎ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

(ダンマパダ326 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、___象使いが鉤(かぎ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

2010年6月24日に、ダンマパダ326を次のように解説をしました。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_24.html

「この詩の解釈は、「昔は心(感情)のままに生きてきたが、今からは私は心を制御する、象使いが象を制御するように」という意思の表明です。この意思がなければ仏道修行は成り立たないのです。前々回に、一遍上人は法句経(ダンマパダ)でこの詩を読んでいたか問題にしましたが、仏道修行者はこの意思は当然あるのです。」


また、私のブログの読者の一人であったあすかさんの次の詩を引用しました。

「心は赤ちゃんみたいに
何もわかってないみたいだから
ほしいよぉ、やだよぉ、とか言ったら
そんなのだめだよ、ちがうでしょ、
って、ちゃんと善いこと
教えてあげようね。(あすかさん作)」



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 4偈

4 この心は胎児の状態にあり、牢固としていないし、見ることもできない。わたしはつねに教えさとす、___わがためにならぬように外へ出歩くことなかれ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

この心とは、衆生の心です。衆生の心は胎児のようなものだというのです。赤子であっても、弱々しく、壊れそうなのですが、胎児であればすぐに壊れてしまいそうです。もちろん、見ることはできません。

だから、牢固(ろうこ)ものになるまでは、「外へ出歩くな。」とわたしは教えるのです。

衆生の心は、どこに向かうべきかわからないのです。また、眼が見えない状態ですから、すぐに何かにぶつかって、傷ついてしまうのです。

しかし、心が育ち、道を歩けるようになれば、気をつけて遍歴修行をするのがよいのです。それはゴータブッダもSRKWブッダも推奨することです。








#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 3偈

3 心は別々の方向に走る。___太陽の光線のゆに。それ故に賢者は心を制する。___鉤(かぎ)で象を制するように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「心は別々の方向に走る。」・・・とは何でしょうか?

静かに座って、眼を閉じてください。そして、あなたの行ったことのある場所に想いをはせて下さい。熊本でも、北海道でも、東京でも、富士山の頂上でもイメージしてください。すぐできるでしょう。行ったことのない場所でも、外国でも、その場所の情報があれば、イメージできるでしょう。

それは心がその場所に行ったということです。体はそこに移動はできませんが、心はそこに行けるのです。そのように、心は別々の方向に走ることができるのです。

実は、心は意識してイメージしなくとも、勝手に心は別々の方向に走っているのです。さらに、言えば、心の飛び回っている場所や想いは、自覚できるものもありますが、無自覚のものも多いのです。自分の癖などは無自覚に行っています。それらが総合して、その人の人格を作っています。

ですから、勝手に動き回る心を制する必要があるのです。

「心が変われば行動(言葉)が変わる。 行動(言葉)が変われば習慣が変わる。 習慣が変われば人格が変わる。 人格が変われば運命が変わる。」などとも言われます。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 2偈

2 水の中の住処(すみか)から引き出されて陸(おか)の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとして、もがきまわる。 

(ダンマパダ34 水の中の住処(すみか)から引き出されて陸(おか)の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

ブッダがこの世の衆生の姿を見て、それは陸に投げ捨てられた魚のように見えたのです。陸とは悪魔の支配している世界です。悪魔の支配している世界とは、欲が支配している世界なのです。

では、なぜブッダは衆生を見て、「この心は」と表現したのでしょうか?

衆生が感じ、衆生を動かしているものは、衆生の心だからです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 1偈

1 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。 

(ダンマパダ35 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

今日から、心の章が始まります。

改めて、心について考えてみましょう。

心について、なんとなく知っているような気がしているでしょうが、よく考えると心についてはよくわかっていません。

そこで、心について、わかるところから、理解していきましょう。

今回の偈にそって行くと、心は捉えにくいと言っています。たしかに捉えにくいです。捉えたと思っても、すぐに変わります。

「軽々(かろがろ)とざわめき」・・・かるがるとざわめきますが、音はないのです。

「欲するがままにおもむく。」・・・自分の意思に反して、怒ったり、悲しんだりするのです。心は自分ではないのでしょうか?

心はかってにおもむくので、混乱するのです。混乱すると、よいことはありません。悪いことをするかもしれません。安心できません。

いずれにせよ。心を修めて、落ち着かせ、正しい判断ができるようにすることはよいことなのです。
安心して、安楽を感じることができるのです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 52偈

52 立派な人々は、いかなるところにあっても、快楽のゆえにしゃべることが無い。楽しいことに遭(あ)っても、苦しいことに遭っても、立派な人々は動ずる色がない。    

(ダンマパダ83 高尚な人々は、どこにいても、執著することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭(あ)っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。)

                        以上第30章 楽しみ

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「快楽のゆえにしゃべること」とは、無駄話をすることです。無駄話は、自分と相手の心を汚します。自分と相手の心を傷つけることもあります。

また、無駄話は自分と相手の時間をなくすことです。時間を無駄にすることは、命をなくすことになるのです。

衆生は、楽しいことがあれば、喜びます。これは普通ですが、舞い上がってしまうのです。そして我を忘れてしまいます。それは危険なことです。楽しいこともいつまでも続くものではありません。その時は、悲しくなります。

逆に、苦しいことがあれば、悲しくなり、落ち込んでしまうのです。悩んで、病気になる人もいます。
苦しいこともいつまでも続くわけではありません。元気を出せば、なんとかなります。心配することはないのです。

立派な人々(高尚な人々、賢者)はそのことを知っているのです。ですから、楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、動ずることがないのです。