#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 25偈

25 明らかな知慧の無い人には、禅定が無い。禅定を修行しない人には、明らかな知慧が無い。禅定と知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
 

(ダンマパダ372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

智慧と禅定の関係について、六祖慧能の「六祖壇経」に次のように述べられています。
(中川孝著「六祖壇経」タチバナ教養文庫)より引用します。

(以下引用)

「師がいわれた___諸君、私の説く教えは、禅定と智慧とを根本とする。諸君、思い違いをして禅定と智慧とは違うと考えてはならない。禅定と智慧とは一体であって二つのものではない。禅定はまさに智慧の本体であり、智慧は禅定の作用である。智慧そのものをとりあげると、禅定は智慧の中に含まれ、禅定そのものをとりあげると、智慧は禅定の中に収められる。もしこの意味がわかるならば、そのまま禅定と智慧とは平等に学ばれることになる。


修行者諸君、先に禅定を修めてそこから智慧が出て来るとか、先に智慧があってそれから禅定の境地が出てくるなどと考えて、禅定と智慧とはそれぞれ違うものだといってはならぬ。このような考え方をする者は、真理に二つの姿があるということになる。

口先でよいことを述べても、胸中がよくなっていないために、ただ禅定と智慧という項目があるだけで、この二つが一つになっていない。もし心もいうことも同時によくて、内と外が同じであるとき、禅定と智慧とはそのまま等しい。自分で目ざめて身につけて行なうべきで、いい争うことではない。もし禅定と智慧との前後関係などをいい争うならば、それこそどちらもものの正体を見失った人である。勝ち負けの意識が断ち切れないで、かえって一切の法に実体があるとする執(とら)われを増長させ、かの四種の執着から解放されていないのである。」

(以上引用)

尚、「かの四種の執着」とは、金剛般若経の「我・人・衆生・寿者への執著」ですが、これは、自我という思い・生存するものという思い・個体という思い・個人という思いへの執着の意味です。



この記事へのコメント