#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 58偈

58 紐(ひも)と革帯と、超越し難い個人の連続を断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を投げすてて、めざめた人(ブッダ)、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。 

(ダンマパダ398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を滅ぼして、めざめた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

岩波文庫の58偈の注に「超越し難い個人の連続を断ち切り」の「連続」について次の記述があります。
(以下引用)
連続___saṃtāna. パーリ文『ダンマパダ』にはsaṃdāna (綱)とあるが、東部インド語の d 音は、サンスクリットに直すと t 音であると解して、サンスクリットに直す人が saṃtāna とした。だからこの詩では「紐」や「革帯」とはつながらぬ変な文章となっているのである。
(以上引用)

このような注がありますから、「超越し難い個人の連続を断ち切り」は「超越し難い個人の綱を断ち切り」と読んでおきましょう。

それにしても、紐(ひも)や革帯や連続(綱)や門をとざす閂は何を意味しているのでしょうか?

ダンマパダ398に関する私のブログ記事を参考にします。
https://76263383.at.webry.info/200812/article_6.html

(以下引用)
紐(怒り)と革紐(渇愛)と
綱(六十二邪見)を手綱(煩悩)と共に切断し
門の鍵(無明)を開け、悟った人
彼を私はバラモンと呼ぶ

○この詩から学ぶこと

 この詩が出来た因縁物語は次の通りです。二人の男が自分の牛の優劣を競うために、それぞれの頭の牛に重い荷車を引かせました。しかし、どちらの荷車も少しも動かず、荷車をつないでいる革紐が切れてしまいました。この様子を見ていた比丘たちは釈尊に報告しました。釈尊は革紐でも簡単に切れるが、怒りという紐や渇愛という革紐、六十二邪見という綱、煩悩という手綱はなかなか切れない。これらを切断して、無明という門の鍵を開け、四聖諦という真理を悟るように説法されたとのことです。

 上の詩のカッコ内はパーリ文注解によるものです。六十二邪見とは、長部経典第一「梵網経」に解説されています。釈尊の時代の「我」と「世界」に関する六十二の哲学的見解であります。これらは現代にも通じる人間が考えられるすべての見解を網羅されています。

 その邪見の概要の項目数だけを示します。
 過去に関する十八の邪見
1.常住論(四種)、2.部分的常住論(四種)、3.有限無限論(四種)、4.詭弁論(四種)、5.無因生起論(二種)
 未来に関する四十四の邪見
1.有想論(十六種)、2.無想論(八種)、3.非有想非無想論(八種)、4.断滅論(七種)、5.現世涅槃論(五種)
 以上六十二の邪見は、すべてが囚われた見解であることが上記のお経で指摘されています。

 今回の詩でもバラモンは、怒りと欲などの煩悩という私たちを拘束している紐、綱を断ち切るように述べられています。一人の人間が六十二の邪見を持っているわけではないのですが、いろいろな人間がいますから、いろいろな見解を持っています。それらを整理すると、六十二の邪見になったということです、自分が持っている見解がどの邪見にあてはまるかわかれば、すぐこの邪見を克服できるでしょう。そして無明という鍵を開けて、智慧の扉を開けるように教えています。

 無明とは真理が分かってないということです。より具体的に言えば、四聖諦が理解できないことです。あるいは、諸行無常、一切皆苦、諸法無我が理解できないということです。逆に言えばこれら一つだけでも悟れば、無明ではないということです。これらの一つだけでも悟って、無明の鍵を開き、バラモンのような人間でありたいものです。

(以上引用)


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 57偈

57 形が無く、堅牢でなく、見ることができない心をつねに制御して、はっきり知って、つねに念(おも)いをこめて歩み、束縛の絆を滅したブッダたち、___かれらは世間においてバラモンなのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

心について、この偈と同様の表現がされているダンマパダの偈を引用します。
(以下引用)

35 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

36 心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。

37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。

(以上引用)

このような心を、おさめ、守り、制止した人は、真のバラモンです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 56偈

56 一切の苦しみをのぞくために、めでたい聖なる八支の道を修した人々___かれらは世間においてバラモンなのである。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「めでたい聖なる八支の道」について、ダンマパダから関連する偈を引用します。
(以下引用)
190、192 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。___すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。

273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。
(以上引用)

中村訳(岩波文庫)のダンマパダ273の注に、<八つの部分よりなる正しい道>について、次のように記されています。
(以下引用)
漢訳では普通「八正道」という。正しい見解(正見)、正しいおもい(正思)、正しいことば(正語)、正しいおこない(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい注意(正念)、正しい精神統一(正定)の八つである。この八つが人を解脱(ニルヴァーナ)にみちびく正しい道であるという。
(以上引用)

テーラワーダ仏教の教義では、これらの道を一つ一つ進むことで修行は完成すると教えます。もちろん初めから正しくできませんから、これらの道を、何度も繰り返し実践することで、修行は完成すると教えます。

SRKWブッダは、これらすべてを取り組む必要はなく、これらのうちから、自分の特性、性格にあった道を選び取り組めばよいと教えます。それよりも大切なことは正しい心構えだと教えます。

わたしの言葉でいえば、それは人間の真実を知り、本当にやさしい人間になろうとすることです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 55偈

55 つねにこだわりが無く、智をそなえ、疑惑を去り、ひとり歩み、遠くに行く人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「つねにこだわりが無く、智をそなえ、疑惑を去り、」は前回の54偈と同じです。

「ひとり歩み」については、SRKWの理法「孤独」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou335.htm

(以下引用)
修行者が孤独であるべき――孤独の境地に励むべき――であると言うのは、修行はすべて自分自身のことがらであり他者との関わりに よって修行が進むなどということがまったく無いというほどの意。したがって、修行者が孤独であるべきというのは世人が孤独であることとは意味合いが違う。 ところで、もちろん覚りの機縁は他者との縁によるものであるが、これは世間の人の関わりとは違うものとなる。すなわち、修行者は孤独であってはならず世間 の人々と一定の関わりを持つべきである。しかし、そのようでありながら修行者は孤独の境地に励むべきであると説かれるのである。

 また、ブッダの孤独と言うのは、ブッダが孤独であるという意味では無い。これは、「もし世界に自分一人だけしか存在していないとするならば、たとえ衆生であっても一切の苦悩は終滅する(苦悩がそもそも 生起しない)」ことと同義のことがらとしてのことである。この意味においてブッダは孤独であり、しかしそれゆえに一切の苦悩から解脱していると知られるのであ る。
(以上引用)

「遠くに行く人」とは、無上、最高の境地(ニルヴァーナ、涅槃)に向かい人という意味です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 54偈

54 つねにこだわりが無く、智をそなえ、疑惑を去り、不死に達した人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(ダンマパダ411、スッタニパータ635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

覚った人の第一の特徴は、こだわりがないことです。何かにこだわっているとすれば、その人は覚っていないのです。

それは何故かというと、真実を見る智慧を備えているからです。真実が見えると、すべてが善きことであり、美しいからです。

「疑惑を去り」の疑惑とは、真実に対する疑惑です。真実がありのままに感じられるから、真実に対する疑惑はないのです。

「不死に達した人」とは、不死の境地に達した人です。

人はつねに死を恐れています。それは何故かと言うと、真実を知らないまま人生を終わることになるからです。しかし、真実を知った人は人生最大の恐怖がなくなったので、すべての恐れがなくなります。その境地を不死の境地というのです。安楽の境地(ニルヴァーナ)とも言います。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 53偈

53 糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、諸の欲望を省みることなく、樹の根にあって瞑想する人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

糞掃衣(ふんぞうえ)とは、捨てられたぼろ布を縫い合わせ、草の根で染めた布で作った衣(ころも)のことです。この意味は、貧しい衣類でも満足することです。すなわち衣類に頓著しないことです。

「諸の欲望を省みることなく」とは、衣類のみならず、食べ物や住まいに関しても、贅沢なものは求めず、あるもので満足し、それらに執著しないことです。

「樹の根にあって瞑想する」、瞑想するというと、特にここでは、「樹の根にあって」とありますから、樹の下に座って、眼を閉じて心を落ち着かせるという意味に取れますが、「瞑想」と訳された言葉は古代インド語では、心を育てる、修行するという意味です。

ただ瞑想すれば、覚ることができると考えるのは間違いです。覚りは、因縁によって、功徳を積むことによって起こる現象ですから、「糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、諸の欲望を省みることなく、樹の根にあって瞑想する人」を、ただちに真のバラモンと呼ぶことはできないでしょう。

今日からは東京からの発信です。昨日北海道から東京に帰ってきました。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 52偈

52 欲求がなくなり、しゃべることが無く、悪い心を除き、瞑想して、塵垢(ちりけがれ)を離れた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「欲求がなくなり」とは不思議な感覚です。解脱して、自分の最大の欲求が達成し終わったので、もう求めるものがないのです。すべて満足しているのです。別に、特に死にたいとも思いませんが、もういつ死んでもいいという感覚です。

「しゃべることが無く」、欲求がなくなっていますから、しゃべりたいとも思わないのです。

「悪い心を除き」について、悪い心は何かに敵意を感じるとき現れますが、解脱した人は何ものにも敵意を感じないのです。凡夫には悪しきことと感じることも、善きことと感じるのです。悪い心は除き終わっているのです。

というわけで、心は落ち着いていて、心の汚れ煩悩は無くなっているのです。

さて、今日も釧路からの発信です。昨日は一日、石法如来に車で釧路湿原と釧路市内を案内して頂きました。釧路湿原は日本最大ということで、天気にも恵まれ、その広大な景色を満喫しました。釧路港近くには石川啄木のある公園があり、彼の短歌の書かれた石碑がありました。釧路市の高台には仏舎利塔ありました。思いだすことは熊本駅近くの高台の仏舎利塔です。仏舎利塔には仏を出現させる力があるのかもしれません。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 51偈

51 一切に打ち勝ち、迷いの生存を超え、激流を渡り、煩悩の汚れがなく、彼岸に達して、とらわれないの無い人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「一切に打ち勝ち」と「迷いの生存を超え」と「激流を渡り」と「煩悩の汚れがなく」と「彼岸に達して」と「とらわれないの無い」とは、同じことを述べているのです。

昨日は、勝利者について「他者に勝つということではなく、自分自身に勝つた人です。」と述べました。今日は「一切に打ち勝ち」について述べましょう。この意味は心の汚れである一切の煩悩に打ち勝ちとということです。

煩悩は百八あると言われていますが、細かく分類するとそれ以上になります。それらに一つずつ勝つのは大変です。しかし、すべて煩悩の大元に勝てばよいのです。そうすれば一切の煩悩に打ち勝ったということになるのです。

すべて煩悩の大元とは無明です。無明とは真実がわからないこと、真実を知らないことです。真実がわかってしまえばよいのです。

将棋で言えば、相手の王将を取ればいいのです。その他のコマをすべて取らなくとも勝ちになります。しかし、実際には王将をすぐに取ることはできません。はじめは歩を取るところから始まります。将棋に「一歩千金」という格言があります。一枚の歩にも大きな価値があるという意味です。一番価値がなさそうに見える歩の活用が勝負を決めるのです。

自分自身を顧みて、小さなことでも、自分の問題点だと思うことを一つずつ克服してください。それが「一切に打ち勝ち」に繋がります。

今日は、石法如来の住まわれておられる釧路からの発信です。昨日の午前は、知床五湖の辺りを散策しました。この辺りはヒグマの生息地であるため、ガイドの付き添いが必須となっていました。ヒグマに遭遇すると、散策は中止になるので、ヒグマに会いたいようような会いたくないような気持ちでした。天気はよく、羅臼岳など知床連峰がよく見えました。また天然保護種になっている頭が赤いクマゲラのオスをガイドさんが見つけてくれて、見ることができました。ヒグマには会えなかったと思っていながらの帰路でしたが、道路の遠方にクマがいました。すぐに林に入って行きましたが、彼(彼女)は別れの挨拶をしてくれたのだと思います。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 50偈

50 牡牛のごとく雄々しく、気高く、竜・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

過去には、覚った人(ブッダ)を「牡牛のごとく雄々しく」と形容することが多かったのですが、これは誤解を生むことがあります。修行者がブッダに対するイメージを作ると、そのイメージに拘束されて覚れなくなるのです。修行者は固定したイメージから離れなければなりません。

例えば、やさしい弱々しい女性が、ブッダは「牡牛のごとく雄々しく」とイメージすると、自分は違うと思うことがあるかもしれません。彼女は覚れなくおそれがあります。今では、「雌牛のごとくやさしく」と表現も加える必要があります。

「竜」は、古代インド語ではブッダや修行者を意味しています。竜をイメージする言葉は世界のどの地方にもあります。これは古代人が見えないが偉大だ存在をイメージ化したものです。それが雲の形などに現れるのです。「大切なものは見えない」と言った人がいましたが、見えない大切なものを意識することは覚るために必要です。

「勝利者」とは、他者に勝つということではなく、自分自身に勝つた人です。

「欲望の無い人」とは、不必要な欲は無い人です。

ここでいう「沐浴者」は、心身の汚れを洗い流した人です。水で洗えば心の汚れは落ちませんので、注意する必要があります。

このような人は、覚った人(ブッダ)であり、真のバラモンなのです。

今日は、北海道の東にあるウトロからの発信です。昨日は利尻島から稚内、宗谷岬、網走、ウトロとオホーツク海を臨みながらの移動の旅でした。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 49偈

49 一切の束縛の絆(きずな)を超え、驚ろき怖れることが無く、執著なく、よく行きし人、覚った人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「一切の束縛の絆(きずな)を超え」とは、真実を見る心の眼を曇らせる障害物を無くしてという意味です。ここにいると、山の頂上を隠している雲のようなものと思えます。

真実が見えれば、驚き恐ることは何もないのです。もちろん、執著すべきものは何もないことがわかります。

般若心経にはこのことを、「心無罣礙無罣礙故無有恐怖(しんむけいげいむけいげいこむうくふ)」と書かれています。意味は「心に障害がない、障害がないので、恐怖がない」ということです。

心の障害とは、心の名称作用と形態作用です。心には名称作用によって観念という障害があります。また形態作用によって経験という障害があるのです。

これらが無くなれば、真実が見えるのです。真実が見えれば、恐怖が無くなれば、恐怖がなくなります。執著もなくなります。

ということで、一切の束縛の絆(きずな)を超えた人は、真のバラモンなのです。

以上、今日も利尻島からの発信です。空は晴れてきました。良い天気になりそうです。昨日は利尻山を登りました。私たち(私76才、妻70才)は老人ですから、無理をせず登れるとところまで登ることにしていました。ゆっくりと途中の高山植物を愛でながら、小鳥の声を聞きながら登りました。

途中までは私たちだけの登山でしたが、七合目付近で、山を降ってくる一人の若者に出会いました。「こんにちは」と挨拶して別れましが、彼は早朝に登山し、頂上まで行って、降りてきたのでしょう。私たちは、そこから少し歩き、12時に、向きを変えて下山しました。

下山の途中で、大きな笹の葉に字が書かれているのを見つけました。よく見ると「大スキ」と書かれているのです。隠花植物の枯れた花で書かれた文字です。利尻山のメッセージと受け取りました。私も心の中で「ありがとう、私も大スキ」と言いました。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 48偈

48 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「生きとし生ける者の生死をすべて知り」とは、生命の始めと終わりをすべてを知りということですから、人生のすべてを知るということです。すなわち、人生の真実を知るということです。

人生の真実とは、何か? それはいろいろ表現できるのですが、ここでは、人はみなやさしいことだと言います。

このことが、本当にわかってしまえば、何も執著することがないのです。修行が完成した人であり、覚った人なのです。

かれは真のバラモンです。

本日は利尻島からの発信です。昨日の利尻島は曇りでした。午前中は島の中央の利尻山は見えませんでした。そこで昼過ぎに、利尻山が見えますようにと念じました。午後には晴れ間もあり、3時間ほどして念いが通じ、利尻山の頂上が姿を現しました。めでたし、めでたし。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 47偈

47 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、苦しみの終末を明らかに知った人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

現在の自分の意識を観察すると、自分ではなぜそうなるのかわからない感情などがあります。しかし、それらを何度も観察して、また他の出来事、人との出会い、夢などをきっかけにして、わかってくることがあるのです。また現在では、それらは学問的にも研究されています。それらを潜在意識といいます。現在の意識は、外部刺激によって起こりますが、潜在意識に支配されているのです。

「前世の生涯を知り」とは、自分の潜在意識を知りということです。

「天上と地獄とを見」とは、自分の潜在意識における天界と地獄を知ってということです。

「生存を滅ぼしつくすに至って」とは、自分の生存への執著を支配している潜在意識の名称作用や形態作用を知って、それが真実を知る障害になっていることを知るのです。そうすると、自動的に潜在意識の名称作用と形態作用はなくなるということです。

「直観智を確立した」とは、真実がわかったということです。

「苦しみの終末を明らかに知った」とは、苦をもたらす潜在意識の名称作用や形態作用なくなった結果を知ったということです。

そのような人は、真のバラモンなのです。


・・・・・
お知らせ:昨日は書き忘れましたが、昨日東京から北海道に向かいました。新しい出会いが楽しみです。6月23日は、釧路の石法如来にお会いする予定になっています。今日は、稚内からの発信です。


































#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 46偈

46 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)も人間どももその行方を知り得ない人、無限の智をもっている人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

仏教では生命の存在形態を、神々、人間、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄の住人などを考えています。これらは人間の意識の象徴なのです。

神々は、苦しみがほとんどなく、ほぼ楽しくに生きています。そのような人はいます。一人の個人にとってもこのような心の状態のときがあります。

人間は、苦しみもありますが、楽しみもあります。

阿修羅は、いつも怒っているのです。そのような人もいます。一人の個人にとっても、阿修羅のように怒っているときがあるのです。

餓鬼は、いつも求めるものが得られず、いつも苦しんでいるのです。かわいそうですが、このような人もいます。一人の個人にとっても、求めるものが得られず、苦しんでいるときがあります。

畜生とは、人間以外の動物です。動物のような心なのです。

地獄の住民の意識とは、地獄の苦しみというような、想像を絶する苦しみです。

神々にもいろいろ種類があって、天の伎楽神(ガンダルヴァ)は、音楽が好きな神です。音楽で楽しんでいるのでしょう。

さて、「神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)も人間どももその行方を知り得ない人」とは、上で述べた意識を超越した意識、究極の安楽の意識(ニルヴァーナ)を持った人という意味です。

「無限の智をもっている人」とは、無限の知識があるということではありません。物事の本質がわかった人、本当のことがわかった人という意味です。

そのような人は、真のバラモンなのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 45偈

45 人間の欲望を捨て、天界の欲望を越え、すべて世間の絆をはなれた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「人間の欲望」は、五欲(目耳鼻舌身の感覚の快を求める欲望)です。

「天界の欲望」は、神々の世界で生きたいという欲望です。神々の世界とは衣食住を心配せず、楽しく生きることができるという世界です。

「すべて世間の絆をはなれた人」について。ここで言う人間の絆とは、しがらみというべきものです。これら無くてもよいというよりは、無い方がよいものです。

このしがらみは、人間を拘束し、人間を不自由にさせるものです。

このことを知って、すべての世間の絆をはなれた人は真のバラモンなのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 44偈

44 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った賢者、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

<快楽>によって、欲望が起こります。<不快>によって、怒りがおこります。<快楽>と<不快>とを捨てると、欲望と怒りがなくなるのです。

欲望と怒りがなくなった人は、満足しているので、何事もありがたく感じられるのです。それは少し俗な表現ですが、清らかに涼しくのほうが近いのかもしれません。

そのような人は、もちろん、何ものにもとらわれることがありません。

全世界とは、欲望が支配する世界でありますが、このような人は欲望には支配されませんから、全世界に打ち勝っているのです。

このような人は真のバラモンなのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 43偈

43 現世を望まず、来世をも望まず、欲求なくして、とらわれのない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「現世を望まず」とは文字通りに読むと、この世では何も期待しないという意味になり、この世の人生に絶望した人ように思われますが、これは真のバラモンについて述べていることですから、その意味ではないのです。人生の本当の意味がわかったので、もう他に望むものがないということです。

ですから、「来世をも望まず」は、もし生まれ変わることがあったとしても、そこでの人生に期待することがないのです。

人生の本当の意味がわかったら、すべてに満足できていますから、もう欲求はないのです。

また、何かにとらわれることがないのです。すべてに意味があることがわかっているからです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 42偈

42 現世に対しても、来世に対しても、妄執が存在せず、妄執の生存が滅びてしまった人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

妄執とは、心の名称作用や形態作用により、真実と異なる思いを持ち、それに執著することです。

名称作用とは、物事の名称で、そのもの理解した思う作用です。例えば、花を見て、花の名前を知ったらその花を理解したと思うことです。

形態作用とは、物事のいろいろな特徴を知って、その物事を知ったと思うことです。

物事には、心の名称作用や形態作用では、知られない真実があるのです。それを知られない真実はないと言ってもよいのですが。

心の名称作用や形態作用がなくなった人は、妄執が存在せず、妄執の生存が滅びてしまった人なのです。そのような人は、真のバラモンなのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 41偈

41 この障害・険道・輪廻(さまよい)の激流を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、心の動揺することがなく、疑惑がなく、執著することなくして、心安らかな人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「この障害・険道・輪廻(さまよい)の激流」・・・これが人生です。しかし、人生をこのように思うかどうかは人それぞれです。

「超えて、渡りおわって彼岸に達し」・・・どのような人生であろうとも、これでよい、これがよかったと本当に思えることが彼岸に達するということです。

そのような人は、「瞑想し」とは、心を落ち着ければというほどの意味ですが、そうすれば、心は動揺することがなく、何も心配することがなく、こだわることもなく、心はおだやかで、安らいでいることがわかるのです。

そのような人は真のバラモンなのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 40偈

40 愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落し、諸の過(とが)に汚されない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「愛著と憎悪と高ぶりと隠し立て」などは、事実に基づかない感情なのです。

では、なぜ事実に基づかない感情が起こるのかと言えば、心に名称作用と形態作用があるからです。

すなわち、心は、いろいろな事柄を名前や形で判断して、その真実、あるいは本質を理解しようとしないからです。

例えば、野に咲く花を見て、この花は自分の知っている何という花だ、綺麗だなと愛著が起こります。そこでその花を切って家に持って帰る。これはその花の真実を理解していないのです。

憎悪は、自分に無関係な人に対しては起こりません。自分の近い人や愛していた人に対して起こります。本当は、彼らは自分の親しい人なのです。それなのにその真実を忘れているのです。

高ぶりとは、高慢です。人間の価値は平等です。それなのに他人を見下す感情は、真実が見えていないのです。

隠し立ては、真実をごまかす感情ですから、明らかに真実に反しているのです。

これらの過(とが)に汚されない人は、心から名称作用と形態作用がなくなっている人なのです。
このような人は、真のバラモンなのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 39偈

39 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあってやすらいでいて、生ける者どものために同情する人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

人間は、本来やさしい存在ではあるのですが、心にある名称作用と形態作用という汚れのために、悪意を持つ人も少なくなく、またそのために暴力をふるう人もいます。

そのために、それに反発して、怒り、悪意を持つようになりがちですが、そうではなく、本来のやさしさを信じて、悪意を持たないことはできます。

悪意をもつ人は、かわいそうな人が多いのです。小さいときから可愛がられることなく、いじめられて生きてきた人が多いのです。そのことを知って、彼らを信じて、同情すれば、やすらいでいられます。

それができる人は、真のバラモンなのです。

「心にある名称作用と形態作用という汚れ」とは、物事を名前や形態で判断することです。

物事の名前はその物事の本質とはことなります。また物事の形もその物事の本質とは異なります。ですから、物事は名前や形から判断できないのです。しかし人々は物事を名前や形で判断するのです。

例えば、人間を判断するとき、その人を名前や職業や地位などで判断しますが、それではその人を理解できないのです。あるいは、その人の姿や形で判断します。判断を間違います。ですから悪意が現れるのです。

心にある名称作用と形態作用という汚れのなくなった人は、人間を本来はやさしいことを正しく知って、どのような人々の間にあってもやすらいでいるのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 37偈、38偈、38A偈

37 虚空が泥に汚されることが無く、また月が塵に汚されることが無いように、諸の欲望に汚されることの無い人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

38 虚空が泥に汚されることが無く、また月が塵に汚されることが無いように、諸の悪に汚されることの無い人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

38A 虚空が泥に汚されることが無く、また月が塵に汚されることが無いように、歓楽の生存のなくなった人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「虚空」というと、難しいそうにみえますが、空(そら)です。これらの偈では、心を空や月でたとえています。

空も風が吹けばチリやホコリで汚れます。しかし、風も吹かない上空では、すべての汚れはないのでしょう。

月もチリやホコリで汚されないと考えられています。月は雲で汚されていつように見えるときがありますが、月は汚されていないのです。

上空の空のように、また月のように、心が諸々の欲望、悪、歓楽の生存で汚れてない人を、真のバラモンと言っているのです。

「歓楽の生存」とは、狂気のような喜びとか、我を忘れて喜ぶことがないということです。喜びことは問題ありません。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 36偈

36 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、生きものを殺さない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「強くあるいは弱い生きもの」とは、すべての生きものということです。

すべての生きものに対して、暴力を加えることなく、殺さないことが一番大切なことです。

それは、すべての生きものが暴力におびえ、死をおそれているからです。

そして、すべての生きものは幸せを求めているからです。暴力と死によってその望みが破壊されるからです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 35偈

35 この世の欲望をすべて断ち切り、出家して遍歴し、欲望に汚されることの無い人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「この世の欲望をすべて断ち切り」というと、そんなの嫌だと思う方は多いかもしれません。

しかし、ここでよく考えてください。世間でいう欲望というものは、見たり聞いたりしたものと別なものを望んでいるのです。見たり聞いたりしたもの、そのものを味わえば、いつもそのものを得ているのです。

「欲望をすべて断ち切り」などという必要もないことなのです。そのまま得ているのですから。

すなわち、野に咲く美しい花を見たり、小鳥のさえずりを聞いたりしたときは、それをそのまま味わえばよいのです。それをどうこうする必要はないのです。

「お腹がすいたら、食べ物を欲しいと思うでしょう。」と言うかもしれません。その時は、食べればよいでしょう。「食べ物がなければどうするか?」その時は、食べものを手に入れることを考えればいいのです。なんとかなります。

それが、世間でいう欲望に汚されないということです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 34偈

34 人間のあいだにあって托鉢行によって生き、つねに「わがもの」という観念が無く、生きものを害することなく、堅固で、清らかな行ないを修し、道理をはっきりと知って説く人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「人間のあいだにあって托鉢行によって生き」という生き方は、人間はどんなときでも、正しく生きていけるから、大丈夫だということを示しています。心配しなくても大丈夫だということです。

なぜならば、托鉢行というのは、他人から余った食べ物の一部を分けてもらうことですから。現在の日本では、東南アジアの国々とは違って、托鉢や布施という行為になれていないので、難しいでしょが、それでもできないことではないでしょう。

現在の日本で難しいのは、まず修行者の見栄や外聞やプライドなどが邪魔してできないのです。托鉢行はそれらを捨てる修行です。始めは断られるかもしれませんが、10人あるいは100人に頼めば、きっとその頼みに応じてくれる方がおられます。信じてよいのです。
頼みに応じてくれた方には、大きな功徳をくんだことになります。これは托鉢行をする修行者の大きな功徳です。

修行者にとって、人々から離れて農業などで自給自足の生活を営むのは、生きてはいけるでしょうが、修行になりません。人と交わることによって、自分と他人を知って、人間を理解するのです。

また、人生の最高の目的である「一生をしあわせに過ごすこと」ができるためには、解脱することが必要ですが、それは善友と遭遇して、法の句(覚りの智慧)を聞くことことによって、実現できるからです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 33偈

33 知慧が深く、聡明な英智に富み、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「最高の目的」について、SRKWブッダは、新著「仏道の真実++」の中で次のように述べておられます。

(以下引用)

真のしあわせ

人生の最高の目的とは、「一生をしあわせに過ごすこと」であると言ってよいであろう。
そして、それは実際に為し得ると断言できることである。

ここで、真のしあわせについて述べておきたい。それは、

「過去のことを後悔して思い煩うことが無い」
「現在について一切の愁悲憂悩を滅している」
「未来について不吉なことがない」

境地を指している。

なお、この境地が間違いなく真のしあわせであることは実際に覚ったときにわかることでる。同時にこれ以外には真のしあわせは存在しないことも知ることになる。また、このしあわせの境地がその後もずっと続くであろうことも確信される。そこで先のように断言し得るというわけである。」

(以上引用)


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 32偈

32 静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、為すべきことをなしとげ、汚れ無く、煩悩を去り、とらわれのない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「為すべきことをなしとげ」とは、本当のことがわかったということです。本当のことがわかったので、それに従っていきているのです。

その人は、汚れはなく、煩悩はなく、とらわれはないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 31A偈、31B偈、31C偈

31A 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、諸の情欲に汚れていない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

31B 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、諸の悪に汚れていない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

31C 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「曇りのない月のように」と言えば、ダンマパダ172、173を思い出します。

172 また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。___あたかも雲を離れた月のように。

173 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。___雲を離れた月のように。

特に173偈は、このブログを2008年6月に始めた時の偈で、何人も人を殺したアングリマーラという人がお釈迦様に会って、出家し、修行して、最高の悟りである阿羅漢果を得たことにちなんで述べられたものです。
https://76263383.at.webry.info/200806/article_1.html




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 30偈、31偈

30 蓮葉(はちすば)の上の露のように、錐の尖(さき)の芥子のように、諸の情欲に汚されない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(ダンマパダ401、スッタニパータ625 蓮葉(はちすば)の上の露のように、錐の尖(さき)の芥子のように、諸々の情欲に汚されない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。) 

31 蓮葉(はちすば)の上の露のように、錐の尖(さき)の芥子のように、諸の悪に汚されない人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

岩波文庫の注には、「蓮葉(はちすば)の上の露」について、「下の汚水に交わらないから清らかである。」、「錐の尖の芥子」については、「粘着してとどまることが無いから、執著の無いことにたとえている。」と記されています。

ダンマパダ401の解説は、2008年12月にしましたが、「蓮葉(はちすば)の上の露」については、異なる説明をしていましたので、引用します。
https://76263383.at.webry.info/200812/article_9.html

(以下引用)

ハスの葉に水を少し落とすと、その水でその葉は濡れないで、水は小さな水滴になります。また先の尖った錐の先に、小さな芥子の種を乗せると、そこに留まらないですぐ落ちてしまいます。そのように、世間では欲望の対象になるものが目の前にあっても、それを欲しいというような欲望が心に少しも現われない人を、釈尊はそのような人をバラモンだと仰います。

 言葉も内容も美しい詩ですね。なんともいえぬ穏やかなバラモンの姿が目に浮かびます。もう解説は要らないですね。でも一つ付け加えれば次のことです。

 なぜ、バラモンには心に欲しいという欲望が少しも現われないのでしょうか?

 簡単な答えは、このバラモンの心からすべての煩悩がなくなっているからです。この答えでは物足りない人のために付け加えれば、阿羅漢になっていなくても、ダンマパダ360、361番、このブログでは10月29日に記載した詩のような修行が出来ていれば、欲望の対象によって心に欲望が表れないでしょう。

眼において制御することは善いことです
耳において制御することは善いことです
鼻において制御することは善いことです
舌において制御することは善いことです

身において制御することは善いことです
語において制御することは善いことです
意において制御することは善いことです
一切処において制御することは善いことです
一切処において制御する比丘は
一切の苦から解放される

 各感覚器官からの情報から妄想しないように注意することです。阿羅漢になるまではそれは必要なことです。

(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 29A偈

29A 前にも、後にも、中間にも、何物も存在せず、塵のような汚れを離れ、諸の束縛の絆(きずな)から脱れた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(ダンマパダ348 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

(ダンマパダ421 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この29A偈によく似たダンマパダ348とダンマパダ421について以前解説しましたので、それを参考にしてください。

ダンマパダ348 https://76263383.at.webry.info/200810/article_22.html
(以下引用)
外国語を日本に訳すとい作業にはいろいろ難しい問題があります。特に詩の場合はその問題点は増えます。ダンマパダの詩は、釈尊あるいは他の阿羅漢が説法の中で生まれたものなので、その説法が背景にあります。ですからその説法を知っていなければ理解できないというものがありますし、知っていればより深く理解できるということもあります。

 しかし、その詩が2500年以上経た現在も、その一つ一つの詩が独立して、真理を宣言して大きな輝きを示しています。その詩を翻訳する場合、理解を助けるために、どこまで言葉を補うか大問題なのです。初めてその詩を読んでもその詩の意味を理解出来るようにするためには、言葉を多く補わなければなりません。しかし、繰り返し読んで、その意味を理解するほうが、深く受け止めるためには必要なことかも知れません、訳者の浅知恵で余計な言葉を補わないほうがよいとも言えます。今回の詩の場合、それを感じたのです。

 「前を捨てよ、後を捨てよ、中間を捨てよ」 
 「前、後ろ、中間」とは何を意味するでしょうか。仏教をよく知っている人には明らかなことです。過去、未来、現在を意味しているのです。ですから、前、後ろ、中間をわざわざこのように訳さずに、直接「過去を捨てよ、未来を捨てよ、現在を捨てよ」とも訳すことも可能です。

 過去は過ぎ去ったことであり、そのことについて、後悔したり、悩んだりするのは無意味であると学んでいます。また未来はまだ起きてないことですから、予想したことが本当に起こるかどうかわからないのだから、未来について希望したり、心配するのも無意味であると学んでいます。

 しかし、現在こそが現実であるから、現在起きている事柄に真剣に取り組むべきであると学んでいるのです。現在だけは捨てるわけにはいかないのだと思っています。ですから、簡単に「現在を捨てよ」とは訳せないのです。

 では、この詩の意味することはどういうことなのでしょうか? 「前、後、中間」は「過去の執着、未来の執着、現在の執着」なのです。では「前、後ろ、中間」の変わりに「過去の執着、未来の執着、現在の執着」と言葉を補って訳したほうがいいのでしょうか。現在の私は、初めて読んだ人が何だろうと考えるくらいのほうがいいのかなと思っています。私が詩を訳す上での悩みを通じてこの詩の解説をしてみました。まだ終わりません。

 過去の執着を捨てることは、後悔しないことです。反省しないということではありません。反省は過去の問題点を整理して、過ちを繰り返さないようにすることです。悩むことではありません。

 未来の執着を捨てるとは、夢や希望を捨てること、これは抵抗のある言葉ですね。私たちは未来に執着がありますから、これも素直に受け止められません。まあ、あわてることはありません。あわててもできないものはできないのですから。理解がすすめばできるようになります。

 未来に執着しないことは、計画しないことではありません。必要な仕事を実行すためには計画は必要です。計画は未来の執着ではありません。もちろん計画に執着すれば未来の執着です。

 現在の執着を捨てることは、自分が現在執着していることの発見から初めて下さい。あらゆることに執着しているはずです。しかし、それが当たり前になったいるので気がつきません。自分の執着している事柄を発見することは結構面白いものです。自分自身の発見なのです。

 過去の執着、未来の執着、現在の執着を捨てることができれば、心は自由になります。老死の恐怖もなくなります。生きていることにも執着しなくなれば、当然輪廻することもないのです。現在では信じられないことかもしれませが、それは究極の幸福なのです。

(以下引用)

ダンマパダ421 https://76263383.at.webry.info/200911/article_1.html
文章の引用は省略します。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 29偈

29 福徳をも禍いをも超え、両者の執著をも超え、執著を超越してとらわれることの無い人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日の「法津如来のコメント」で、「世間の人々はこれとは逆で、良いことがあれば喜びすぎて、悪いことがあれば悲しみすぎるのです。 なぜでしょうか? 考えてみて下さい。」と書きました。

正解があるわけではありません。その人なりに、その時の答えでよいのです。いろいろ考えて、答えも変わってくるかもしれません。

しかし、ある時、絶対にこれが正解だと思う時が来ます。その時は、それを信じてください。

参考までに、私の答えを書いてみましょう。

世間の人々は、最高の喜び、最高の楽しみを知らないからです。