SRKWブッダ著「仏道の真実++」覚りは虚妄ならざるもの

(以下引用)

【覚りは虚妄ならざるもの】

 未だ覚っていない人にとって、覚りの境地がどのようなものであるのかを理解することは難しいであろう。それがこの上もなく素晴らしい境地であると説かれても、それはまだ食べたことのない果物の味を理解せよというに等しいことだからである。

 また、覚りの境地が当人の思い込みに過ぎず、一過性のものであり、あるいは万人共通の境地ではないならば、人々が覚りを目指すことについて二の足を踏み、修行そのものを躊躇することも当然であると言えよう。

 しかしながら、覚りは間違いなく達成可能なことであり、そして虚妄ならざるものである。覚りは、本当に最高の楽しみである。しかも、覚りは持続するものであり、一旦到達すればそれを持続させるための追加の修行など何ら必要とはならない。すなわち、覚った人はこの世で為すべきことを完全に為し終えているのである。

 実際、ブッダはこのことを如実に知っている。私(=SRKWブッダ)は覚ってから18年以上の年月が経過しているが、この覚りは変わることなく継続している。そして、この後も死ぬまでそれが保たれるであろうことも確信している。さらには、数人の弟子達がすでに慧解脱してブッダとなっているが、彼らもまた私と同じ境地に至り住している。このようなことから、覚りが誰においても実現可能で、かつ虚妄ならざる境地であることは確かなことである。

 ところで、修行者が現実に覚りに達するのは、彼が心から「覚りが虚妄ならざるもの」であることを信じたからであることはおそらく間違いない。何となれば、私自身、覚る前にそのように信じていたし、続いて覚った弟子達もこのことを同様に信じて自らの修行を完成させているからである。

 逆に言えば、もし人が覚りが虚ろなものであると考え、そんな境地は存在しないと見なすならば、彼が覚ることはついにないであろう。正しい信仰のある人だけが、ついに覚る。これはおそらく間違いないことである。

 したがって、真のしあわせに至ることを望む人は何よりもこの事実を信じなければならないと言えよう。そして、この事実を信じる人が仏弟子と呼ばれるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の肝は、「修行者が現実に覚りに達するのは、彼が心から『覚りが虚妄ならざるもの』であることを信じたからであることはおそらく間違いない。何となれば、私自身、覚る前にそのように信じていたし、続いて覚った弟子達もこのことを同様に信じて自らの修行を完成させているからである。
 逆に言えば、もし人が覚りが虚ろなものであると考え、そんな境地は存在しないと見なすならば、彼が覚ることはついにないであろう。正しい信仰のある人だけが、ついに覚る。これはおそらく間違いないことである。」です。

このことは間違いないことです。私もこのように信じていました。また、今年の6月北海道に行って石法如来にあって直接話したとき、この事を確認しました。

では、何故このように信じることができたのかと問われれば、因縁によるとしか言いようがないのです。

しかし、このように信じることができなくとも、あわてたり、落胆する必要はありません。すこしでもこのことを信じたいという気持ちがあるならば、いずれ因縁により、そのようになるのです。

私の場合は、10代のころ、覚れるものならば、覚りたいという気持ちがありましたが、紆余曲折があり、75歳で覚ったと自覚したのです。あわてる必要はありません。


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