#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 76偈

76 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、苦しみが因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

この偈における「瞑想」と訳された言葉は、瞑想と訳すよりは修行と理解したほうがよいのです。

今回はこのことのみをコメントします。それ以外の言葉については明日以降で説明します。

瞑想について、SRKWブッダは最近出された著書「仏道の真実++」の「具体的な覚りの機縁(広義)」において次のように説かれております。

(以下引用)
● 瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。これに限らず神 秘的な現象はすべてその対象となる。これらは一種興味深いものではあるが、覚りとは 無関係である。したがって、どこまで掘り下げて体得しても時間の無駄である。これは食 物に譬えれば、瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とは ならず、加水分解されて終わる。大量に飲めば、身体に大きな負担を掛ける。もちろん、 酒を飲むと日常を離れた独特の精神状態となるのは確かである。この状態にある者どうしは親しくなるが、それは酔っている間のことに過ぎない。酔いが覚めれば親しさも元 の木阿弥である。また、これによって暴力的な事件が起きることもある。実例を挙げる までもなく、酒の席での失態は多くの人が経験していることであろう。そして、酒の本 当の恐ろしさは、止めることが極めて難しいということである。どんな嫌な目に遭って も、人々は次の酒宴を楽しみにしてしまうのである。同様に、瞑想は人に何ももたらさ ない。ただ興味深い神秘的な現象を味わうだけのことである。瞑想を解けば、素晴らし い境地も元の木阿弥である。瞑想によって修行が進むことは何一つない。そもそも、瞑 想に耽るものは功徳を積むことがない。そして、当然のことながら覚ることがない。
(以上引用)

この文章は、瞑想を熱心に行っている修行者には、ショックなことではあろうと思われますが、この際、この文章を正しく理解してください。