SRKWブッダ著「仏道の真実++」衆生の本質

(以下引用)

【衆生の本質】

 本当に誰もが覚り得るのか?

 読者が心から知りたいことは、この一点に集約されるかも知れない。

 答えを言えば、

 「本当に誰もが覚り得る」

と言うことになる。

 そして、このことは読者が衆生であるということを基礎にしている。要するに、衆生は覚って仏になることができ得るということである。

 ところで、もろもろの如来は誰もが覚り得ると説くが、誰もが覚るとは説かない。これは、覚りが画一的なことがらではなく微妙なことがらであることに由来している。

 すなわち、誰が覚るかは仏にも予見できないということである。逆に、この人は現世では決して覚らないだろうなどと断言することもできない。したがって、この瞬間に誰が覚ってもおかしくないし、しばらくの間は、——たとえばこの後数百年間は——誰一人として覚らないかも知れない。要するに、覚りの可否成否を予め知ることはできないということである。ゆえに、もろもろの如来は「誰もが覚り得る」という言い回しをするわけである。

 なお、もろもろの如来が「誰もが覚り得る」と断言して説くのは、絶対に覚れない人など存在しないことを知っているからである。そして、これは覚りが解脱と同義であることによっている。すなわち、解脱とは、衆生が心に保有するこの名称と形態(nama-rupa)が脱落・終滅することに他ならないからである。つまり、解脱とは何かを身につけることではなく、心を覆う余計なものが脱落・消滅することなのである。したがって、人であれば誰もが、原理的には解脱し得ることになる。

 また、この事実があるゆえに、もろもろの如来は相手を選別することなく世に広く理法を説くのである。そして、このことは、覚りにおいて特別な素質や才能など存在していないことを意味するものでもある。

 例えば、蜂の社会では女王蜂がすべての生みの親であり、働き蜂はすべて女王蜂の娘である。時を経て、一族の総数が多くなり分家を考える時期が来ると、女王蜂は王台を作り分蜂するための新しい女王蜂を育てることになる。このとき、育てる女王蜂は働き蜂の中から無作為に選ばれるのである。その娘を王台に入れ、ローヤルゼリーを与えることで女王蜂に成長することを得る。要するに、女王蜂になるための特別な選別は行われず、適当に選んだ娘を王台に入れてローヤルゼリーさえ与えれば女王蜂に育つことが分かっているということである。

 同様に、人は誰もが覚ってブッダとなり得るのである。なぜならば、同じ人類だからである。ここで、ローヤルゼリーに当たるのが「法の句」である。これを耳にして、その真実を理解できれば誰であろうが解脱が起こる。これが覚りの全貌である。もちろん、読者もその一人になり得るということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章は不思議な文章です。

まず、「衆生の本質」について、誰が興味を持つだろうかという点にあります。

しかも、その書き出しは「本当に誰もが覚り得るのか?」です。

確かに、この問いならば、「仏道の真実++」の読者ならば、興味があるでしょう。

「衆生の本質」と「本当に誰もが覚り得るのか?」の関係が重要なのです。

「衆生の本質」がわかることによって「覚り(=解脱)の本質」がわかるのです。

なお、文中の「名称と形態(nama-rupa)が脱落・終滅」や「法の句」については、おいおい明らかになってくるでしょう。