SRKWブッダ著「仏道の真実++」苦諦がすべて

(以下引用)

【苦諦がすべて】

 繰り返しになるが、仏道を歩む目的はしあわせの境地たるニルヴァーナに至ることである。そして、それはこの世の一切の苦悩から脱れることと同じである。すなわち、一切の苦悩が終滅した境地がニルヴァーナに他ならないということである。

 したがって、この根本の苦悩から脱れることを得る方法があれば、それはニルヴァーナへと向かう道であると言えることになる。ただし、実際にはその道は一つしか無いことが分かっている。それを仏道と呼ぶわけである。

 ところで、仏道を歩む上で最も重要なポイントは苦の覚知である。これがあるゆえに、人はしっかりと仏道を歩むことを得るし、これがあるゆえについに智慧を見出すからである。すなわち、

 「苦の真実を見る人は、同時に苦の解決をも見る」

ということである。このことを維摩経では、

 「衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる」

と説いている。

 もちろん、伝統的な仏教においては四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を説くが、この中の苦諦が教えの根本部分であるという意味である。何となれば、苦諦を知った人は他の諦についてほぼ自動的に知ることになるからである。

 これは例えば、「困ったことは発明の母」などと言われることに似ている。実際、解決すべき問題点が明らかになったならば、その解決の方法はいろいろと思いつくものだからである。そして、そのようにして得られた究極の対策が発明に繋がるわけである。同様に、苦の真実を知った人はその苦の解決方法として智慧を見出す。その瞬間に解脱が起こり、ブッダとなるということである。

 ここで読者は、次のように思うかも知れない。

 「苦を知るのは簡単だ。この世は苦に満ちているではないか。」

 なるほど、衆生は苦を味わっているであろう。しかしながら、それは味わっているだけに過ぎず、苦の真実は未だ知らずにいるということである。

 知るべきは苦の真実であって、苦の現れ方ではない。苦を感受すると、苦に喘いでしまうことになる。そして、そのような状態では苦の真実を明らめることは却って難しい。そのようになる前に、苦の真実を知らなければならないのである。

 では、どうすれば苦の真実を知ることができるのであろうか。それは、次のように為されなければならない。

 「真実を知ろうと熱望せよ」

 すなわち、この世の分かり易いことがらを吟味して、さらにこの世の本当のありさまを見極めなければならないということである。その先に、この世の実相たる苦の真実が明らかとなるのである。

 この世は、苦もあれば楽もある世界ではない。楽という観念の対偶として苦が存在しているわけでもない。現実には、この世はすべて苦に満ちている。人々が楽しみだと思っていることも、実は苦なのである。仏道を歩む人は、その真実を自分自身で見極めなければならない。

 なお、苦の真実とは別の言い方をすれば「この世のことがらはやさしさに欠けている」ということである。具体的に言えば、ある人にとって嬉しいことがらは他の誰かにとっては悲しいことかも知れないということである。ある人が快楽に浸っているとき、他の誰かは苦しんでいるかも知れないということである。

 このように物事を深く考究し、この世の極限の苦を理解したとき、苦の真実を明らめることができるであろう。同時に、その解決法を見出すことになる。ここで、因縁があれば解脱が起こる。ある人は心解脱し、ある人は慧解脱を果たしてニルヴァーナへと至るのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の前半のポイントは次の部分です。

「伝統的な仏教においては四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を説くが、この中の苦諦が教えの根本部分であるという意味である。何となれば、苦諦を知った人は他の諦についてほぼ自動的に知ることになるからである。」

後半のポイントは次の部分です。

「衆生は苦を味わっているであろう。しかしながら、それは味わっているだけに過ぎず、苦の真実は未だ知らずにいるということである。」

このことに関しては、SRKWブッダの理法「苦の覚知」を参考にして下さい。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou158.htm


もう一つ面白いポイントがあります。それは「苦の真実とは別の言い方をすれば『この世のことがらはやさしさに欠けている』ということです。




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