SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(1)

(以下引用)

【修行方法の例示】(1)

 繰り返しになるが、仏道修行においては実のところ固定的な修行法など何一つ存在していない。しかしながら、構成概念としての修行法ならば提示することができる。それについて述べたい。ただし、以下に提示することはそれぞれ修行の一例に過ぎない。これらを履修することが修行になるわけではないことには、留意されたい。

 ● やさしさについて考察することは修行となる。そもそもブッダとは、やさしさの究極を体現した人である。やさしさについて考察することは、ブッダとは何かを考察することと同じである。もちろん、それだけで覚りを生じるわけではないが、この考察は道の歩みの大きな糧となることは間違いないことである。

 ● 人を苦しめないことについて考察することは修行となる。ずっと前の章で述べたが、覚りにおいて重要なことは苦の覚知である。人を苦しめないことについて考察することは、これに通じるものとなるからである。

 ● 人を悲しませないことについて考察することは修行となる。人は、自分の苦を他の人には見せないものである。そこで、悲しみについて考察することが引いては苦の覚知に役立つことになる。修行者は、自分を含めて誰をも悲しませてはならない。これを心掛けるだけで、修行は大きく進むと考えて大過ない。

(以上引用)


*法津如来のコメント

具体的にどのように修行したらよいかわからない人のために、「修行方法の例示」の章では、11例が示されています。しかし、章のはじめに書かれているように、これらを実践すれば、修行になるわけではないと注意されています。実践の際の心構えが重要なのです。

今回は、はじめの3つを引用しました。

「やさしさについて考察することは修行となる。」・・・「やさしい人が覚る?」の章を参照して下さい。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_12.html

「人を苦しめないことについて考察することは修行となる。」・・・「苦諦がすべて」の章を参照して下さい。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_13.html


「人を悲しませないことについて考察することは修行となる。」・・・このことについては、上記の2つの章をよく読めば、理解が深まります。

その一つを引用すれば、「苦の真実とは別の言い方をすれば『この世のことがらはやさしさに欠けている』ということである。具体的に言えば、ある人にとって嬉しいことがらは他の誰かにとっては悲しいことかも知れないということである。ある人が快楽に浸っているとき、他の誰かは苦しんでいるかも知れないということである。」という指摘があります。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行は無駄にはならないのか】

(以下引用)

【修行は無駄にはならないのか】

 遍歴修行を為すということであるならば、もしも修行が完成しなかった場合にはどうなるのであろうか。つまり、それまでの修行は無駄になるのではないかという危惧を持つ人があるかも知れないということである。これについて述べたい。

 結論を言えば、修行が無駄になるかも知れないと予め不安に思うようでは修行者とは言えないということになる。何となれば、修行は基本的に楽しみと栄えとともに行われるべきものだからである。つまり、楽しい修行を重ね続けるわけであるから、それが無駄になるなどとは思いもよらないことになるわけである。

 それでも、ある者は次のように言うだろう。

 「現実問題としては、覚りに達しなかったならば修行はつまるところ無駄であったと言わざるを得ないではないか。」

 しかし、これは修行の根本を押さえていない者の屁理屈に過ぎない。何となれば、修行したことによって積まれた功徳は不滅のものだからである。その功徳は、たとえ自分の覚りという形では結実しなかったとしても世界に廻向されたことになるからである。つまり、現在および未来に亘る無量の衆生に廻向されたわけである。

 もちろん、修行は生きている間に自分自身の身において是非とも完成させるべきものである。そうでなければ、つまらない。

 ただし、ここで言っておきたいことがある。それは、人の尊厳に関わることがらである。修行の可否成否もまた、この尊厳に照らして考えなければならない筈のものである。たとえ、ある修行者の遍歴修行が完成を見なかったとしても、その為されたことは彼の尊厳を損なうものとはならない。むしろ、立派な人生を送ったのだと称賛されるべきことなのである。少なくとも、私は彼を称賛したい。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この問題は、人を愛する時のことを考えるとわかりやすいでしょう。

恋愛と言うと、結婚が目的であると考えられますので、結婚が成立しない恋愛は失敗であった、その恋愛が無駄であったと考えがちでありますが、本当にそうでしょうか?

いろいろな恋愛がありますが、私は真面目な恋愛の本質は、人を愛することだと考えています。その意味からは、そのような恋愛に失敗も無駄もありません。

真面目に修行することは、功徳を積むことです。そのような修行は無駄にはなりません。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(7)

(以下引用)

【遍歴修行】(7)

 しかし、具体的にはどうすればよいのであろうか。それは、縁に委ねてその時々に行いたくなった修行を行なうことである。ただし、種々雑多なことをしてはならない。それぞれの時期には一つのことがらに専念すべきである。そして、一定の期間が過ぎたならば、一つのことがらにこだわることなく他の修行に勤しむのも悪いことではない。

 これは、乗り物で言えば適宜に乗り繋ぐというほどの意味である。ある地点から東京に向かうためには、先ず徒歩で近くの停留所まで行き、そこでバスに乗る。次いで、終点の駅前でバスを降り、普通電車に乗り換える。さらに途中の大きな駅で新幹線に乗り変えるのもよいだろう。場合によっては、いきなり飛行機で一足飛びに東京に向かう手段も考えられよう。ここで、それぞれの時期に一つのことがらに専念せよとは、バスや電車に乗っているときにうっかり途中下車しないようにということである。時間の無駄であるし、道に迷ってしまう恐れもあるからである。


 さて、修行の態度としては、穏やかに、静けさを目指し、けしかけられず、自分を駆り立てず、決して道の途中の実りを求めてはならない。また、修行によって何か特定のものを得たなどとは思わないことである。

 これを一言で言えば、聖求にしたがい、明知によって為すべきことを識り分けて、ゆっくりと邁進せよということになる。そして、修行は継続しなければ遍歴修行とはならないのは当然のことである。これは、修行が長期間に及ぶという意味ではないが、幾つかのことがらを遍歴する以上は一定の修行期間が必要となるのは普通のことである。

 のんびり修行していても完成はおぼつかない。しかしながら、性急に覚りを求める者こそ何一つ修行を為し遂げることがない。修行者は、時間の無駄を気にせずに修行に勤しむべきである。しかし、時間は大切にせよ。人生は、思っているよりも短いからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回は、【遍歴修行】の章の終わりの引用になります。

そこで、いくつかの具体的なアドバイスが述べられます。

その第一は、「縁に委ねてその時々に行いたくなった修行を行なうことである。」



その第二は、「それぞれの時期には一つのことがらに専念すべきである。」これについては、途中下車はしない方がよいという譬えがあります。

その第三は、「穏やかに、静けさを目指し、けしかけられず、自分を駆り立てず、決して道の途中の実りを求めてはならない。」ということです。・・・これらの点については、時々自分の修行について、点検すべきです。

その第四は、「修行者は、時間の無駄を気にせずに修行に勤しむべきである。」です。




石法如来の特別寄稿「会えない人には会えない・・・が。」

 今から5年ほど前、ある1冊の本に出会いました。著者は曹洞宗で坐禅を長いこと修行し、後にミャンマーのテーラワーダにおいて出家し、そこにおいて瞑想のメソッドを最終段階までやり遂げたというRY氏のことです。
私は、彼の著書を読み内容に興味を持ったので主宰している「座禅会」への参加を申し込みました。と言っても、私自身は「長時間の坐禅修行」そのものにはずっと疑問を持っていました。私の場合は、坐ると言ってもせいぜい数時間、それ以上は必要無いし時間の無駄であるという考えです。
 
著書を読むと、確かに良いことを書いていて「そうかな?」と思わせる部分もあるのですが、法話をpodcastで聞くとズシンとこころに響くものを感じられません。・・・私の場合は、過去に桐山靖雄という天才的宗教者?に出会い彼の法話を沢山聞いていたので、それに比べ相当な力不足感を感じます。
 
それでも自分自身、他の人の話を聞きたいという心境になっていたので「座禅会」参加を申し込んだという次第です。・・・ところが、初回の申し込みも都合が悪くなり、2回目も参加できない事情が出来、いよいよ3回目「絶対今度は参加するぞ」とばかり段取りも全て整えていたのですが、何と「脳梗塞」という病気になり急遽入院となって、結局座禅会に参加出来なくなったのです。
 
幸い「脳梗塞」の病状は極めて軽く、何の後遺症も無く10日ほどで退院することが出来ました。そこで、「どうして、ここまで準備しても参加出来ないのだろう?」と自分なりに自問してみました。
その答えは、直ぐには出なかったのですが、その後ワンギーサ先生(法津如来)に出会うことになり、「そこに行く必要無し」、「行っても何の成果も無し」と言う直感を得、行けないように「ある力」が働いたとしか考えられません。
 
会いたくても会えない話を書きましたが、次に「99.9%行くのが難しい状況」なのに行けたという話を書きます。
それは、2018年10月1日私がSRKWブッダにお会いするため熊本旅行した時のことです。
その旅行の計画は、3ヶ月以上前に旅行会社に行きチケットも取り準備万端でした。旅行を10月にしたのは、その年の8月にはスウェーデン在住の娘家族が日本に一時帰国することが決まっていたことと、台風を避けたいという思惑からでした。
 
ところが、いざ熊本旅行が近づくと台風24号が発生したのです。それまでの間、旅行に影響するような台風の発生も無く安心していたのですが、台風24号の発生により旅行に暗雲が漂い始めました。それでも、早々に日本列島を縦断してくれたら熊本旅行に何の影響も無いはずでした。
 
事態は、全く思惑と外れた展開となりました。台風進路予想図を見ると、私が熊本に出発する10月1日早朝台風の位置は東北付近にあり釧路を目指す進路です。
どう考えても、台風がまともに当たるとしか考えられません。よりによって、3ヶ月以上余裕をもって設定した日に台風襲来とは、自分自身の徳のなさを反省しました。
 
旅行日程は近づき、段々と出発日の10月1日は近づきますが「台風は、10月1日に釧路に上陸するよう設定」されているかのように進んで来ます。絶体絶命のピンチです。
ずっと、インターネットで台風情報を収集していても事態が良い方向に進展する気配は全くありません。99.9%熊本に行くことは出来ない、そう覚悟しました。
 
既にご存じの方もおられるので、その結果はどうなったかと申しますと「私は、10月1日午後航空機の到着時間に確かに熊本空港の土を踏んで」いたのです。
何故?どうして?・・・自分でも、半分狐につままれた感じになりましたが、間違いなく熊本空港到着は現実に起こったことです。
 
問題は、なぜ釧路空港から航空機が飛べたか?と言うことになりますが、前日羽田から釧路に飛んだ飛行機が羽田には戻らず釧路空港駐機(釧路空港に泊まる)となったと言うのがその理由です。
ローカル空港である釧路空港に普通は駐機せず羽田に帰り、羽田から朝一番で釧路に来るというのが通常の運行なのですが台風の影響かどうか分かりませんが、9月30日に到着した便は羽田には帰らず釧路駐機になったと言うことで、それは珍しい出来事だったようです。
 
その辺の詳しいことはインターネットで調べても分からず、ただ「10月1日釧路発東京行き欠航」が決定したとも出ていません。これはどういうことなのか?全く状況が理解出来ず、とにかく当日朝早く釧路空港に行くだけは行こうと準備を整えました。
釧路空港に到着し、出発する場所を見ましたたら「たしかに航空機が一機止まって」います。台風の進路は、やや釧路から右方向に逸れ風の勢いも弱まっている感じです。
 
搭乗手続きをし、私は羽田行きの航空機に乗り定刻に出発することが出来ました。羽田空港に到着した後、熊本行きの搭乗口まで案内を依頼していたのですが、案内してくれた女性によると「本日の午前中、東北・北海道方面で飛び立てたのは私の乗った1機だけ」と話してくれました。
 
世の中に、「こんな不可思議なことがあるのか」と自分自身が信じられませんでした。人間の頭で考えても理解不能ですが、私自身は「見せられた」と思っています。
「何を?」・・・「法(ダルマ)の威力をまざまざと・・・」、それは自然現象すら超越する力で人間の思考範囲を遙かに超えています。
そう考えたら、「聖求を持ち」正しく仏道修行に励む修行者は「何の心配も要らない」と言うことになります。



*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(6)

(以下引用)

【遍歴修行】(6)

 修行には、終わりがある。先の譬えで言えば、周到に東京に到着した人は旅の終わりをはっきりと知るであろう。東京では、見るもの聞くものすべてが田舎のそれとはまるで違っているからである。その一方で、富士山の山頂に立った人は、旅の終わりを知るどころかこれからどうしようかと途方に暮れているだろう。あるいは、騙されたと思うかも知れない。それぞれの違いの根底にあったのが、心構えの違いであることは明らかであろう。

 仏道は、広くて平らかな道である。危険もない。このことを正しく知り、理解している人は、間違っても富士山に登ろうなどとは考えないであろう。途中でそのような道にうっかり嵌まり込むことがあっても、これは違うと知ってともかく引き返すであろう。何となれば、登山の道は狭くて険しく、危険な道だからである。賢者は、思い違いがあったとしても、早い段階でその間違いに気づき、山道を突き進んだりしないということである。賢者は、「上り」という言葉をそのまま道標とする。「上り」を「登り」などと誤認したりはしない。日本のどの場所にいても、どの場所に迷い込んでも、「上り」に従えば必ず最終的には東京に辿り着くと知っているからである。そして、実際にも、日本のすべての地点から移動するための道、バス、鉄道、空路、船の航路・・・が、上りと下りに分けられ、整備されており、上りを繋いでさえ行けば必ず東京に至るように作られている。

 さて、遍歴修行も、実際にこのように行われることになるのである。最初は右も左も分からない境涯にあっても、最終的にはニルヴァーナに到着することを得る。このような意味において、途中の紆余曲折は問題とはならないということである。聖求を抱き、正しくニルヴァーナを目指している修行者は、必ずや正しい目的地に到達するからである。

 このように、仏道修行とはニルヴァーナに向かってまっすぐに道を歩むことを指している。そして、聖求ある人がそれを為し遂げると説かれるわけである。ただし、実際の道の歩みは、カリキュラムを消化するような定規で引いたような道を一直線に進むものではなく紆余曲折のある遍歴修行となる。ここで、遍歴修行がまっすぐに歩むことであると説かれるのは、それが大道に沿って迷わずに進むべしというほどの意味だからである。

 実際、見知らぬ土地で道を尋ねたとき、「この国道に沿ってまっすぐに行けば良い」などとアドバイスされるであろう。もちろん、これは左右に1mmも逸れずに幾何学的な直線で進めという意味ではない。横道や脇道は多数あれどそれらに惑わされることなく、この国道に沿って進むことがまっすぐに進むことになるという意味であるのは当然である。仏道をまっすぐに歩むことも同じである。紆余曲折があろうとも、理法に適った道を進むことがまっすぐにニルヴァーナに向かうことになるのである。そして、彼にとってその道が最短である。

 繰り返しになるが、遍歴修行は途中の紆余曲折を認めるということである。とすれば、読者が気になるのはどの程度の逸脱が許容されるのかということであろう。これは、逆に言えばどの程度の逸脱を要するのかと言うことでもある。

 真実を言えば、修行者はこの世で修行と称するありとあらゆるものに興味を持つことが許される。ただし、誤った修行法に抜き差しならないほど嵌まり込んでしまうならば、もちろん修行は完成しない。修行生活は、途中でくずおれてしまうだろう。なお、ここで誤った修行法というのは、安らぎに役立たないという意味である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の引用は、面白いし、わかりやすいので、特別なコメントはありません。それよりもこの引用に相呼応するような石法如来の特別寄稿を昨日頂きましたので、次のブログ記事で掲載いたします。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(5)

(以下引用)

【遍歴修行】(5)

 ここで、心構え正しき人は「上り」という言葉を素直に信じ、正しく用いるであろう。その一方で、心構え正しからざる者は、これを「登り」であると誤認するかも知れない。そして、後者は、気がつけば富士山の頂上に立つことになるかも知れぬ。もちろん、それでは本来の目的地に到達したことにはならない。

 読者は、そんな愚かなと思うかも知れないが、実際それに類する誤解は仏教についても散見されるのである。具体的に言えば、覚りを「悟り」や「さとり」と誤解したり、善知識を法の句のことではなく師や先導者(案内人)のことだと誤解するなどということである。また、解脱や智慧についても噴飯物の解説が世に溢れている。

 世間には、このような笑えない現実があるので、聖求ということが説かれるわけである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文だけでは、意味がわからないでしょう。

昨日の引用文の終わりの部分を繰り返します。

「これを何かに譬えるとすれば、例えば日本の任意の地点から東京に向かって進むようなものである。ここで、知っているべきことは二つで良い筈である。一つは、東京が存在していること。もう一つは、「上り」という言葉である。これで、どの地点からでも東京に向かうことができるであろう。たとえ、途中で道に迷うようなことがあっても、「上り」という言葉に従って進めば間違いなく東京に近づき、至るであろうからである。」

「これを何かに譬えるとすれば、」とは「聖求」を譬えるとと言う意味です。

つまり、「上り」と「登り」と間違えるということです。

そのようなことが、仏教においても起きているということです。

具体的には、覚りを「悟り」や「さとり」と誤解する。

善知識を法の句のことではなく、師や先導者(案内人)のことだと誤解する。

解脱や智慧についても、頓珍漢な理解をしているなどがあるのです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(4)

(以下引用)

【遍歴修行】(4)

 ここで、心構え正しき人とはその根底の求めが正しいことと同義である。逆に、根底の求めが邪だと心構えは正しくならない。この根底の正しい求めを「聖求」と呼ぶ。すなわち、聖求ある人は、そのまま道を歩めば必ず覚りに達すると断言できることとなる。

 聖求については、ずいぶん前の章で説明した。ここでは、聖求について違う角度で説明したい。

 さて、聖求というのは、要するに仏道の最終的な目的地であるニルヴァーナの実在を信じ、かつ他ならぬ自分自身がそこに到達できることを確信しているということである。

これを何かに譬えるとすれば、例えば日本の任意の地点から東京に向かって進むようなものである。ここで、知っているべきことは二つで良い筈である。一つは、東京が存在していること。もう一つは、「上り」という言葉である。これで、どの地点からでも東京に向かうことができるであろう。たとえ、途中で道に迷うようなことがあっても、「上り」という言葉に従って進めば間違いなく東京に近づき、至るであろうからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

心構え正しき人とはその根底の求めが正しいこと。

根底の求めが邪だと心構えは正しくない。

この根底の正しい求めを「聖求」と呼ぶ。

聖求については、8月13日、14日のこのブログ記事で引用しました。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_14.html
https://76263383.at.webry.info/202008/article_15.html


ここでは、聖求を別の言葉で説明しています。

それは、要するに仏道の最終的な目的地であるニルヴァーナの実在を信じ、かつ他ならぬ自分自身がそこに到達できることを確信しているということであるということです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(3)

(以下引用)

【遍歴修行】(3)

 さて、この心構えについて説明するには、字が上手くなろうとして練習することが譬えになるであろう。このとき、学生の心構えが正しければ、練習を重ねて達筆となり目的を達成することができよう。しかし、心構えに問題があると、練習しても達筆とはならず癖字になってしまうだろう。そして、困ったことに彼は練習すればするほど癖字がひどくなってしまうかも知れない。一旦癖字になってしまった人が達筆になるのは極めて難しい。何となれば、彼はまず癖字を直さなければならない。そして、その上で字の勉強を一からやり直さなければならない。しかも、再挑戦が正しい学びになるかどうかさえ分からない。心得違いが正されない限り、癖字と再挑戦を繰り返すことになるだろう。

 仏道を歩むことも同様である。心構え正しからざる者が心を矯めるのは、極めて難しい。しかし、それが為されない限りいかなる修行も覚りには結びつかない。また、心構え正しからざる者ほど、自分では正しい心構えを持っていると誤認しているものである。その根底の心得違いを本人が認めない限り、これを正すことはとてもできない。

 そこで、いかにして心構え正しくあるかが探究されるべきであろう。一体、何をどう点検すれば心構え正しきことが確証されるのであろうか。また、心構えに問題あることが分かったとき、それをどのようにして矯めればよいのであろうか。それは道の歩みの早い段階に行うべきものなのであるが・・・。

 これらについて述べたい。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏道修行における「正しい心構え」とは、習字における「素直さ」のようなものです。

習字においては、お手本を素直に見て、下手でもよいので素直に書けばよいのです。

しかし、お手本をよく見ないで自分勝手に書いていれば、自分勝手な癖字になります。

一旦癖字になってしまった人はどんなに練習しても、達筆になることはありません。

習字であれば、書いた文字は見えますから、本人がその気があればなんとかなるかもしれません。

しかし、仏道修行の心構えの誤りについては、本人がその誤りに気づくのは極めてむづかしいのです。

心構えが正しくなければ、どんなに修行しても、覚り(ニルヴァーナ)に到達することがありません。

それは残念なことではありますが、最悪の場合には地獄に落ちるということもあり得るのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(2)

(以下引用)

【遍歴修行】(2)

 このため、修行の本質は「あれもダメこれもダメ」というようなものではなく、むしろいろいろなやり方が認められ得るものとなる。ただし、その根本は法(ダルマ)に適ったものでなければならない。つまり、その修行がニルヴァーナに至るということに結びつかなければ意味はないということになる。

 また、固定的な修行法が存在していないということは、複数の修行者が同じように修行したとしても同じ結果を得るとは限らないことを意味している。すなわち、それぞれの修行者の心構え一つで正しい修行にもなれば、逆に地獄に落ちるような悪行にもなってしまうからである。このため、修行に先立って心構えの正しさが問われることになる。

 修行者の心構えが正しければ、彼が日々に何を為そうともそれらはすべて覚りに向けた修行となるであろう。心構えが正しからざれば、本人が修行と称するものは修行とはならず彼自身思いもよらない結末を見ることになる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文の出だしの「このため」とは、固定的な修行法が存在していないためということです。

ですから、いろいろなやり方が認められ得るものとなるということになるのです。

ここからが少し微妙なことになりますが、

複数の修行者が同じように修行したとしても同じ結果を得るとは限らないことがあるのです。

ここが問題です。

では何が違うのか?

それぞれの修行者の心構えが違うのです。

SRKWブッダは「修行者の心構えが正しければ、彼が日々に何を為そうともそれらはすべて覚りに向けた修行となるであろう。」と説かれています。

では、心構えが正しいとはどう言うことか?

明日以降、このブログの引用文で述べられることになります。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(1)

(以下引用)

【遍歴修行】(1)

 修行について整理すると、次のようになる。

 ○ そもそも固定的な修行法など存在していない。
 ○ 具体的な修行法は自分自身で見出さなければならない。
 ○ ニルヴァーナに至ったとき、自分の修行が何であったのかが分かる。
 ○ 一般に、功徳を積むことが修行そのものとなる。
 ○ 実際には修行を為していても、その形が見えない——修行しているようには見えない——こともある。
 ○ 修行には終わり(=完成)がある。

 このような修行のありさまを、総じて遍歴修行と呼ぶのである。繰り返しになるが、この世には固定的な修行法——履修すべき修行のカリキュラムのようなもの——など存在していない。仏道修行とは、仏教について修行者自身がいろいろと考え、さまざまな行為を為すことがそれに当たる。それが巡り巡って功徳を積むことに繋がり、功徳が充分に積まれたときに解脱が起こるということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

私もくりかえします。

この世には固定的な修行法——履修すべき修行のカリキュラムのようなもの——など存在していない。

仏道修行とは、仏教について修行者自身がいろいろと考え、さまざまな行為を為すことがそれに当たる。

それが巡り巡って功徳を積むことに繋がり、功徳が充分に積まれたときに解脱が起こるということである。

ということで、明日から数回に分けて、【遍歴修行】の章を引用します。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行の終わり】

(以下引用)

【修行の終わり】

 誤解している人も少なくないと思うが、覚りに向けた修行は生きている間ずっと続けなければならないものではなく、終わりがあるということである。すなわち、覚った時点で修行は完成し、その後の修行は不要となるからである。

 たとえば、すでに大人になった人にさらに大人になれなどとは言わないであろう。大人は、もはや子供ではない。大人は、大人としての行動と生活を営めば良いわけである。同様に、覚った人はもはや修行者ではない。覚った人は、覚者としての行動と生活を営むことになるからである。それで、覚った人は、人としては数えられないというわけである。

 ところで、慧解脱してブッダになった場合はともかく、身解脱(形態(rupa)の解脱)や心解脱の場合にもその後の修行は必要無いのであろうか。これについて述べたい。

 事実を言えば、身解脱や心解脱の場合においても、基本的にはそこで修行は完成したことになると考えられる。したがって、その後に追加の修行などは必要無いと言って大過ない。

 ただし、最初の解脱が起きたとき、その覚りの階梯でとまってしまわずにその後さらに高い階梯に達する修行者が見られる。しかし、このような場合でも、それは追加の修行の結果というわけではなく本人の因縁によって言わば自動的に起こる模様である。もちろん、覚りのさらなる階梯に進むためには功徳が積まれることが必要になる。ただし、それは通常の生活を営む中において自然と積まれることになるということである。

 そもそも、人が覚って解脱が起こると、解脱したという解脱知見を生じる。同時に、自分はすでに為すべきことを為し終えたという理解も生じる。これは、最初の解脱のときに覚知されるものである。彼は、こころがすっかり解きほごされた自分自身を発見する。それで、修行者は自分の修行が完成したことを知るのである。したがって、修行生活としてはそれで終わりとなるわけである。

 このように、仏道修行には終わり(=完成)がある。だからこそ、修行は楽しんで勤しむことができるものだと言えよう。修行者は、修行しつつその終わりを楽しんで待てば良いのである。この意味において、死ぬまで修行だなどという言い方は存在しない。それを言うなら、

 「死ぬよりも以前に修行を完成させよ」

ということになるであろう。

(以上引用)


*法津如来のコメント

解脱するということは、完全な満足に達するということです。

それはそれ以上、求めるものがないのです。

ですから、もう修行が必要ではないのです。

それが修行の終わりです。

「悟後の修行」という言葉がありますが、それはまだ悟っていなかったということです。

解脱した後に、わかってくることがありますが、それは表現です。

うまく表現できなかったことが、うまく表現できるようになったということはあります。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(7)

(以下引用)

【功徳のよすが】(7)

 さて、すべての修行は功徳を積むために行ぜられるものである。逆に言えば、功徳を積むことを得るならば、別に修行という形にこだわる必要はないということである。

 こんなことを言うのは、修行などあからさまに行った形跡がないのに覚る人が見られるからである。実際、私の細君(=法風如来)はそのようにして覚ったのである。彼女は、観(=止観)に取り組むこともなければ、仏教の知識を系統立てて学ぶこともなかった。それにも関わらず阿羅漢果を果たし、さらに数年後には慧解脱してブッダとなったのである。この事実を見れば、これ見よがしな修行よりもしっかりと功徳を積むことの方が本質的であることは明らかである。

 もちろん、法風如来の事例は、古典的に正攻法とされている修行によって覚りを目指している修行者を少なからず混乱させるかも知れない。しかしながら、この事例に限らず仏道にはそもそも固定的な修行など存在していないのは本当のことである。したがって、外目には修行していないように見えて、実は知らずに修行を為し遂げていることがあり得る。日々の生活を、図らずも修行そのものとしてしまう人もあるからである。

 この意味において、すべては結果論である。見事に解脱を果たせば、それまでの生活遍歴が修行遍歴そのものだということになるわけである。

 人はいつ、どのようにして、どれほどの功徳を積んでいるか分からない。それゆえに、たった今、目の前で意外な人が解脱するのを目撃しても怪しむには当たらない。極端なことを言えば、全人類が、この一瞬に皆解脱を果たしてもおかしくはないのである。もちろん、そんなことは現実には起きないかも知れない。しかし、功徳を積むとか積まないとか言うことは衆生たる修行者には知りがたく、量りがたいことであるのは確かである。

 見方を変えれば、功徳を積んでいればあからさまな修行など必要ないという事実は修行者にとって朗報になるに違いない。型にはまった堅苦しい修行ではない、より現実的な修行がこの世では成立し、在家でも充分に解脱が起こることを保証する事例となるからである。しかも、これは例外というよりはしばしば見られることなのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

解脱というものは、名称(ナーマ)および形態(ルーパ)が滅びたときに起こるものです。
(スターニパータ1037やダンマパダ221などに示されています。)

SRKWブッダは、名称(ナーマ)の消滅を心解脱、形態(ルーパ)の消滅を身解脱、名称(ナーマ)および形態(ルーパ)両者の消滅を慧解脱と述べています。

ですから、途中の経過がどうであれ結果として、これらが消滅していれば不思議ではあるが、解脱しているのです。

法風如来の場合は、身解脱を経て、慧解脱されました。

しかしながら、あとから省察すると解脱された方は一なる道を歩まれたことは間違いないことです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(6)

(以下引用)

【功徳のよすが】(6)

 ● 功徳は、重荷を下ろすために積むものである。重荷が却って増えたならば、それでは功徳を積んだことにはならない。ここで言う重荷とは、しがらみという意味である。功徳を積んだ人は、生活が簡素になり静けさが増す。日々を軽々と送るようになる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、重荷を下ろすために積むものである。」とありますが、この「重荷」とは、自分でもあまり重荷と気づいていないものなのです。重荷がなくなった時わかります。

例えば、停電で電気冷蔵庫の振動音が消えて、静かになった時、振動音があったのだと気づきます。

また、休日朝起きたとき、今日は会社に行かなくといいのだと気づいた時の気持ちです。この最大のものは、定年になった翌日朝目覚めたときでした。今日から会社に行かなくてよいのだと思ったときの不思議な気持ちでした。会社に行くことは重荷だったのです。

別の例では、職場で私が「肩が凝った」と言うと、ある同僚は「私は肩が凝ったことがない」と言いました。彼の肩をそっと触ると、彼の肩はがちがちに硬かったのです。多くの場合、重荷は自分では気づいてなく、その重荷を下ろしたとき、それが重荷であったとわかるものなのです。

さて、ここで言う重荷、しがらみはそれをなくしたとき、初めてそれが重かったとわかり、楽になったとわかります。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(5)

(以下引用)

【功徳のよすが】(5)

 ● サンガ(僧伽)の存在が前提であるが、功徳を積むには出家がすぐれている。

しかしながら、それは家出であってはならない。ここで言う家とは、こだわりの総体を指す。

出家とは、自分の趣味の世界から出て浄らかな集いに住み処を移すということである。

また、家出とはこだわりを心に残した上で家を出ることをいう。

趣味の世界を離れていないので、功徳を積むために行うべきことがらが苦に帰着してしまう。

要するに、気持ちは出家でもそれが家出であるならば本末転倒ということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

50歳の頃、千葉県市川市にある道元サンガという曹洞宗系の禅道場に毎週一回通っていました。しかし、道元禅は修行こそが悟りであり、あえて悟りを求めないという立場でした。悟りを求めることはむしろ邪道である考え方でした。私は悟れるものならば悟りたいと考えていましたから、その立場に不満を感じて、3年ほどでそこを止めました。

当時出版された「『悟り』の意味」といういう本を読み、また著者の島田明徳という方の道場が近所にあったという縁もあり、その道場に通い始めました。そこで8年ほど修行したのですが、修行がマンネリになり、あらたな境地を求めていました。

そのころは岩波文庫で「ブッダのことば」を読んでいましたが、その中につぎのような言葉がありました。

「譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。(スッタニーパータ221)」

つまり、在家での修行は出家の修行に及ばないという意味です。すなわち、「功徳を積むには出家がすぐれている。」ということです。

そこで、2004年60歳の時に、日本の大乗仏教の僧侶よりは厳格に戒律を守っていると思われていたテーラワーダ仏教の比丘(僧侶)として出家しました。

その後2016年12月15日に比丘をやめて、いわゆる出家をやめることになることになるのですが、その頃の事情は当時のこのブログ記事に書いてあります。

この私の文章がコメントになるのかといえば、出家して修行するも、在家で修行するも、各自の心構え次第ということです。




石法如来の特別寄稿「こころの平安を求めて 」

私は以前の記事(「少年時代の思い出・・・そして音楽に救われる.(2020.9.1)」)に,幼少期に「両親の離婚」という出来事がなかったなら、私は仏教とは無縁の人生を歩んでいた可能性が高いと書きました。
仏の教えと無縁でいられる理由は、幼少期の衝撃的な体験が無ければ自分自身の心底に不安感として根付いた「ある種の精神的外傷」と向き合う必要が無かったと思えるからです。

私の言う「ある種の精神的外傷」とは、心理学で言う「心的外傷(トラウマ)」より数段軽いものであるにしても、成人以降も時として不安感に襲われることがあり何とかそれを克服しなければ、将来自分自身の精神作用に悪影響が拡大してくることを真面目に心配しました。
仏教以前にも、ライフル射撃や空手というものに興味を持ちそれらの競技に励んだのは、何とか自分自身の精神的弱点を克服したいという思いがあったからである、と言うことが出来ます。

私が本格的に、自分なりの修行を開始出来たのは阿含宗退会後のことです。すでに仏教を学び6年の歳月が経過し、自分なりに法(ダルマ)の何たるかを把握しておりました。
基本的に、「たった独りの修行」ですから難しい事は出来ません。経典は、その都度興味に任せて読んでおりましたが、精神面における弱点強化に役立ったのは所謂坐禅では無かったかと振り返ります。

私の言う坐禅は全くの独学で、「1日坐れば1日の仏」を自分自身を鼓舞する合い言葉とし、当時出版されていた『釈尊の呼吸法―大安般守意経に学ぶ』(村木弘昌著)を参考に、入出息(呼吸)を意識する(あるいは、呼吸を数える)ことで、意識を鎮静・集中させることを目的に行じておりました。

自分としては、意識を鎮静させながらも多方面に意識を集中させる・・・例えば、仕事のこと、家庭のこと、仏教のこと、趣味のこと、社会一般のことなどに色々意識を向け思いを巡らしていく、すると問題解決のヒントやそれまで気が付かなかった考え方などが次々と浮かんできて、物事が順調に進むようになり毎日の生活が少しずつ楽(らく)にかつ楽しくなって来ます。

坐る場所も時間も決まっていて、毎朝5時半から6時までの約30分間で、釈迦初転法輪像の写真の前でこつこつ坐禅を続けます。意識を向けるメニューはその都度変わり、慣れるに従い自分自身への問いかけや自分自身との対話などを行います。
自分自身への問いかけや対話は、様々なテーマがありよく覚えていませんが、自分自身の中にあった幼少期の抑圧された意識も徐々に解消に向かい自然消滅して行きました。

61歳から時間的余裕の出来た私は、それまで坐禅だと称していたものを瞑想と名前を変更し坐り続けました。私のいう坐禅と瞑想の違いは、時間が30分程度から数時間程度に伸びたこと。行の内容が、色々なことに思いを巡らし自分自身に問いかけていたものを、何も考えないことに自然と変化していったことが挙げられます。
全て独学の行なので、深い意味や行為の代償を求めることも一切せず「ただただ坐ることだけを目標」にしました。

自衛官時代、演習に行き大自然の中で坐ったことが思い出されます。・・・天候に関係なく宿舎を抜け出て30分ほど坐るのです。昼間もあれば夜間もあり、大きな木を背にしたり大きな岩の上に坐ったり、大自然の中呼吸に意識を集中すると「生かされている・生きている」ことが実感出来ます。
また、昔の修行者はこんな風に修行に励んでいたのだなと考えながら、自分自身が同じように行じていることそのものが嬉しく楽しく感じられました。

振り返れば、相当長い期間坐り続けることが出来た理由は、「坐ることそのものが好きだった」ということに尽きます。また、家の中では自分自身定めた仏前が「とても安心出来る場所であった」というのも大きいです。・・・私は、ずっと「こころの平安」を求めていたのです。

今回、経典のことについてはあまり書きませんでしたが、経典を読むことと「坐る」ことは車の両輪の関係にありどちらも重要な修行です。素直な気持ちで経典を読んでいると、いつでも「新たな発見」があります。そういう意味で、経典は「法宝(ほうぼう)」であり「宝蔵(ほうぞう)」と言えます。

坐(すわる場所)はブッダの法(ダルマ)で満たされ、その雰囲気の中ただただ坐り続ける。無論、自分自身の思い込みの産物そのものであるにしても、今となれば「仏に近づく(長い時間の)行為の集積により自らが仏になる。」・・・。私は、ブッダの教えを成し遂げたのです。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(4)

(以下引用)

【功徳のよすが】(4)

 ● 功徳は、大事なものが残っている間は積み終わることがない。

これは、覚ったとき、それまで自分が大事だと思っていたものが実はそうではないことを知ることになるという意味である。

世人は、世間のことがらを後生大事にしているものである。

ところが、それが実は自分を縛る縄なのである。

もちろん、大事に思っているものを無造作に無慈悲に闇雲に捨てよと言っているのではない。

それらから自然と離れ、そのことについて心が左右されなくなったとき、すでに大きな功徳が積まれているということである。

具体的に言えば、例えば勝敗を捨てて楽しみを獲得せよということである。

見掛けの勝敗にこだわるべきではなく、そのことを楽しむことができたならば勝利者なのである。

このとき、互いに楽しめれば、もちろん互いに勝利者となる。人は、このようにして真実に近づくのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「大事に思っているものを無造作に無慈悲に闇雲に捨てよと言っているのではない。」とは、自己を省察して、それらが自分を縛っている縄だと理解することが必要だということです。これを理解すれば、自然にそれから離れることになるということです。

「勝敗を捨てて楽しみを獲得せよ」とは、「勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。(ダンマパダ201)」を理解せよということです。








SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(3)

(以下引用)

【功徳のよすが】(3)

 ● 功徳は、余計なものを捨て去ることによって積まれる。ただし、本当に大切なものは捨て去ってはならない。その本当に大切なものとは自分自身である。ここで、初学の修行者はその余計なものが何であるのかを明確に知ることは難しいであろう。そこで、省察を為すことが勧められる。省察によって、本当の自分自身とそうでないものとを区別できるようになるからである。省察すると、このような自分でありたいとか、逆にこのような自分であっては嫌だなどという思いを生じるであろう。そうして、あり得べき自分自身の姿が次第にハッキリとしてくる筈である。そこで、余計なものを捨てよ。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の文章は、余計なコメントをするよりは、この文章を深く読むことをおすすめします。

そこで、次のように引用します。


功徳は、余計なものを捨て去ることによって積まれる。

ただし、本当に大切なものは捨て去ってはならない。

その本当に大切なものとは自分自身である。

ここで、初学の修行者はその余計なものが何であるのかを明確に知ることは難しいであろう。

そこで、省察を為すことが勧められる。

省察によって、本当の自分自身とそうでないものとを区別できるようになるからである。

省察すると、このような自分でありたいとか、逆にこのような自分であっては嫌だなどという思いを生じるであろう。

そうして、あり得べき自分自身の姿が次第にハッキリとしてくる筈である。

そこで、余計なものを捨てよ。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(2)

(以下引用)

【功徳のよすが】(2)

 ● 予め功徳を積んでいることは、功徳のよすがである。「さあ功徳を積もう」などと言って何も無いところから一気に功徳を積むことはできない。たとえば、大きな結晶を綺麗に作るためには種になる小さな結晶を用意し、それを少しずつ成長させて形成していくであろう。それと同様である。では、最初の功徳はどうやって積まれるのであるか。それは、すべての人が生まれながらに積んでいるということである。このことを、法華経=方便品第二では、「舎利弗よ、正に知れ。私は昔、誓願を立て一切の生ける者達を私と等しく異なるところがない様にしようとした。私の昔の願いは今既に満足し、一切の生ける者達を教化して、皆、仏の道に入らしめた。」と表現している。したがって、誰もが功徳をしっかりと積むことができることが保証されているのである。したがって、自分は功徳を積めない生まれなのではないか、などと心配するには及ばない。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「では、最初の功徳はどうやって積まれるのであるか。それは、すべての人が生まれながらに積んでいるということである。」

これについて、SRKWブッダは「法華経=方便品第二」を引用されておられますが、私(法津如来)は、ダンマパダ181偈を引用しましょう。

「人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。」

この「人間の身を受けることは難しい。」という言葉は、そもそも人間として生まれているということは、功徳を積んでいるということなのです。

そうでなければ、数え切れないほどの無数の生命がいるなかで、人間として生まれくることができなかったのです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(1)

(以下引用)

【功徳のよすが】(1)

 功徳は、どのようなときに積まれるのであろうか。そのよすがについて述べたい。

 ● 功徳は、咄嗟のときに一瞬に積まれる。これは、功徳を積むという表現から連想されがちな段階の説を否定する事実である。なぜ功徳が一瞬に積まれるのかと言えば、仏道が基本的には頓悟の道だからである。要するに、功徳は段階的に積まれるわけではないということである。そこで、功徳は次第次第に積まれるという言い方が為されることになる。このとき、次第次第にということは水面下で培われることであり表からは窺い知れない。このため、修行者が実際に功徳を積んだとき、それまでとはまるで人が違ったような境涯に一挙に達することになるわけである。このことを原始仏典では、「かれらの足跡は辿り難い。空飛ぶ鳥の迹〈あと〉の辿り難いようなものである。(ウダーナヴァルガ・中村元訳)」などと表現している。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章を読んで、なぜか森田公一の「青春時代」を思い出しました。

・・・・・
青春時代の夢なんて
あとからほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は
道に迷っているばかり

「功徳は、咄嗟のときに一瞬に積まれる。」・・・これは、あとからわかることです。

功徳とは積むとは、心に積まれるのです。心が変わるときは一瞬なのです。その時はわかりません。無心でなければ功徳は積まれないものだからです。あとからあの時変わったのだとわかります。

その時の事情を「功徳は段階的に積まれるわけではないということである。そこで、功徳は次第次第に積まれるという言い方が為されることになる。このとき、次第次第にということは水面下で培われることであり表からは窺い知れない。」と説明されています。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(9)

(以下引用)

【功徳を積むには】(9)

 ● 積んだ功徳は、決して損なわれることがない。もし、このことを信じることができないならば、その者はすでに道を踏み外しているのだと考えなければならない。これは、損得勘定では修行はままならないということである。覚りは、功徳の対価ではない。功徳のみ求めても、覚りに達することはできない。例えば、愛情を相手に求めるだけでは、それでは却って愛情豊かな人生を送ることはできないようなものである。愛情は、深め合うものである。同様に、功徳は無心に積まなければならない。すなわち、このように正しく積まれた功徳はそもそも損なわれることがないということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

功徳を愛情に例えることで功徳がよくわかります。ついでに、覚りを幸福に例えてみましょう。

与えた愛情は、決して損なわれることがない。

幸福は、愛情の対価ではない。愛情のみを求めても、幸福に達することはできない。

愛情を相手に求めるだけでは、それでは却って愛情豊かな(幸福な)人生を送ることはできない。

愛情は無心に与えるものである。

このように正しく与えた愛情はそもそも損なわれることがない。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(8)

(以下引用)

【功徳を積むには】(8)

 ● 修行者は、つつしむのが良い。つつしみこそが、功徳の最大の利得(Gain)だからである。これは物事の味わいに関することがらである。風味を知る人は、さらにつつしむであろう。つつしみあってこそ、微妙なる風味が活きてくるからである。智慧は、美味よりも風味に近い。この意味において、風味を知る人は智慧を見出すに難くない。微かなものにこそ、大きなことが込められている。無相を知る人は、智慧の出自を知る所以である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「つつしむ」について述べているダンマパダの偈をいくつか引用しましょう。(岩波文庫「真理のことば・感興のことば」より)

360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361 身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。

362 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、___その人を<修行僧>と呼ぶ。

「慎む」ということがどういうことかわかるでしょう。

さらに、慎みがあると、美味より深い風味を知ることができるのです。

「智慧は、美味よりも風味に近い。」と説かれていますから、慎みにより智慧に近づけるのです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(7)

(以下引用)

【功徳を積むには】(7)

 ● 修行者は、何もするな。しかしながら、何かをするときには、労を惜しんではならない。このそれぞれが転じる刹那に、功徳は積まれるのである。誰にとっても、具体的に行動を起こすことは大変なことである。些細なことがらでも行為を全うすることは難しい。その難しいことを為し遂げよ。この世には、簡単にできることなど何一つない。小さなことでも、完成させるには大変な努力を要する。これは、自分だけでなく他の人にとってもそうであるのだと知らなければならない。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今朝、東京新聞を読んでいたら、偶然(実は偶然ではないのですが)「オランダの『何もしない』日常を本に 山本直子(やまもとなおこ)(50)さん」という記事が掲載されていました。

少し、内容を紹介すると、(以下引用)
オランダ語で何もしないことを意味する「Niksen(ニクセン)」。「ゆとりある生活を日本人も学んでみては」と、現地での日常の風景を紹介した「週末は、Niksen。」を発行した。(以上引用)

この文末には「ニクセンは自分らしく生きる第一歩。心穏やかになれれば、人にも優しくなれると思います」と書かれていました。

「修行者は、何もするな。」とは、そいうことです。

何かをしようとすれば、自我が働きます。そうではなくて、縁にしたがって、何かをすればよいのです。しかし、「何かをするときには、労を惜しんではならない。」ということです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(6)

(以下引用)

【功徳を積むには】(6)

 ● 修行者は、世俗的にも幸せであれ。幸せであればあるほど、生じる功徳が大きくなるからである。これは、征服した国を捨てた王のように振る舞えという意味である。また、これは慈悲喜捨の「捨」に関することがらである。ここで「捨」とは、余計なものを捨てて相手に幸福を与え、同時に自分はそれ以上の大きなしあわせに達することを言う。世俗的に幸せであることは、その根拠となり得るものである。そもそも自分が幸せでないならば、「捨」を為すことはとてもできない。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「修行者は、世俗的にも幸せであれ。」の「幸せ」の意味を「征服した国を捨てた王のように振る舞えという意味である。」としてあることの意味を考えてみましょう。

王国を支配する王は、世間では幸せあろうと考えます。素晴らしい洋服を着て、美味しい食べ物を食べ、豪華なお城に住んでいるのですから。しかし、心はどうでしょうか? いかに国民を支配し、多くの税を取り立てるか苦労しています。反乱を起こされないように警戒していなければいけません。また、いつ外国から侵略されるかわかりません。心はいつも不安と恐怖でいっぱいなのです。安心・安らぎはないのです。

一方、征服した国を捨てた王はそのような不安や恐怖はないのです。心はいつでも、安心と安らぎを楽しむことができます。

どちらが幸せと言えるでしょうか。

実は、人はその人なりの王国を持っているのです。征服した王国を捨てたの王のように、自分の王国を捨てるならば、多くの功徳があるのです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(5)

(以下引用)

【功徳を積むには】(5)

 ● 修行者は、楽しみと栄えを知る人であれ。道の歩みにおいては、それが功徳そのものになるからである。この意味において、楽しみは悪ではない。楽しめない人は、自分自身を見失っているのである。修行者は、楽しみの中に冷静に、真の自分自身を見出せ。

(以上引用)


*法津如来のコメント

修行というと、苦しいことと思う人が多いのですが、この考え方は間違っているのです。

修行をして、苦しいと感じる場合は二通りあります。一つはその修行が正しくないのです。もう一つはその修行に楽しみを見出せないのです。そのことを考えて下さい。

修行は栄え(ニルヴァーナ)につながるものなのです。そのことを忘れてはいけないのです。

修行は、はじめ苦しいと感じる場合もありますが、楽しみを見出して、栄えにつながると確信できなければ、続けられません。



石法如来の特別寄稿「境涯と因縁(その1:因縁)」

因縁(いんねん)という言葉だけ聞いても、普通の人は「漠然としたイメージ」しか抱けないでしょう。・・・普通に考えて、この世の事象が結果として眼前に現れるときと言うのは「結果=その結果を生み出す原因(因)と、それを助ける条件(縁)」が必要で有り、何の原因も条件も存在せず結果という事象が現れ出ることは無い・・・すなわち、「眼前の事象が偶然に出現することはあり得ない」と言う事になります。

私は、昔阿含宗という宗教団体に所属していたとき、この因縁という言葉を数多く聞いて多くのことを学びました。・・・昔の資料を見てみますと、因縁を分かりやすく区分しています。
例えば、「横変死の因縁、刑獄の因縁、肉親血縁相克の因縁、ガンの因縁、家運衰退の因縁、中途挫折の因縁等々」・・・文字にするだけでも怖い因縁が沢山並んでいます。
確かに、因縁というものを学ぶためには、それぞれ因縁を区分分けして「こんな因縁もある・あんな因縁もある」と教え込めば、因縁という概念を学ぶことは出来ますが、他者に脅迫観念を与えかねないので用いる場合には注意が必要です。

危険な要素を含む因縁という言葉ですが、全く意味が無い言葉かというと決してそうではありません。仏教思想を考える上で重要な概念であり、それを学ぶことは「物事の成立(なりたち)」を学ぶことであり修行者にとって必須の学問です。ここで言う「物事の成立」とは、あらゆる事象は表面だけ見てもその本質が掴めないということです。物事の本質を理解・把握するためには、眼前の事象を見つめながらも因縁という概念を交え深く掘り下げて考えていく必要があるのです。

先程も書いたように、ありとあらゆる事象の出現には因縁(原因と条件)が関わっており、偶然に物事が起こることは考えられません。
その人の人生において、どの様な事象が現れどの様な人生を歩むかはその人の「境涯と因縁」次第だと言うことが出来ます。

しかし、ことさら因縁を怖れる必要もありません。何より大切な事は、自分自身の人生を「諦めてはいけない」と言うのはある意味当然のことです。因縁は結果論で有って、後になってみないと「あの因縁があった」、あるいは「あの因縁は無かった」などとは言えないものだからです。
そう考えたら、人間死ぬまで諦めてはいけないのです。そして何より、自分の人生を「より良いもの」にするためには、自分自身の行動を「気をつける」ことこそが大切です。

因縁という言葉を使うと、何か別世界の出来事のように感じますが日常生活の人間関係の反映と見ることが出来ます。身近な日常の家庭生活・職場生活は、その対応如何によって直接自分自身の因縁に関わってくることは間違いありません。
ほんの少し日々の生活の中で、「他者を気遣う・思いやる」=「気をつける」という意識・習慣を持つ。それだけで、因縁を良い方向に転換出来るのです。

・・・境涯と因縁について2回に分けて書きましたが、それらは決して別々のものではありません。理解しやすいように分けただけであり、それはある意味「人間の存在」そのものを表す言葉です。
この世において、その人の人生を決めていくのは、「その人の境涯と因縁による」と言いたかったのですが、それらはとても微妙であり「それは、こういう姿・形だよ」と差し示すことは出来ません。・・・出来ませんが、それらは間違いなくこの世に存在し私達の人生を形成しているのです。

文中で強調したように、この世は「無常」であるが故に「こうだ!という決めつけ」はいけないし、同様に人生そのものを諦めてもいけません。
私自身、現在の師(SRKWブッダ)に巡り会ったのは66歳の時です。人間、未来において何が起こるかは誰にも分からないことなのですから・・・。



*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(4)

(以下引用)

【功徳を積むには】(4)

 ● 修行者は、真実から目を逸らしてはならない。そこに、功徳を積む動機を生じるからである。ある種の真実は直視するに恐ろしいものである。それでも、立派な修行者はその真実を見つめるであろう。功徳を積んだ人は、そこに凜とした決心を生じるのである。その決心は、解脱の根拠となるものである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

修行者は、自分が真実から目を逸らせていることを知らなければならないのです。

実際に、嫌なもの、汚いものなどからは目を逸らして、直視することはないでしょう。

また、本能的に危険なものや怖いものを見ると、瞬時に目を閉じるものです。

その他、悲しみについては、その中に落ち込むか、他のもので紛らわすなどかして、悲しみを直視することはしません。

それがなぜなのか知る必要があります。真実を目を逸らす修行者は功徳を積むことができないからです。