石法如来の特別寄稿「富永仲基について。(その7)」

『出定語後』の第八章で、仲基は「文化人類学的視点」を提示しています。すなわち、「俗」(ぞく)と仲基が名付けたものがそれです。「俗」は、文化特性や民俗や習俗の傾向を指し、「国に俗あり」と語り、「インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)」、「中国は文を好む(レトリック(美辞麗句・巧言)を重視する傾向が強い)」、「日本は秘を好む(隠蔽する傾向が強い)」と鋭い視点で評しています。
 
また、「インド人の習俗は幻術であり、漢人の文辞と同じである。そうしないと、民衆は信用しないのだ」と述べています。なかなか、面白い分析法です。
釈尊以前の宗教者達も、幻術を使って教えを広めたと彼(仲基)は語ります。だから、釈尊が加上によって自説を立てた際も神通(じんつう)をかりて広めるほかなかった・・・と。
 
面白い文章が載っています。(以下、引用)
「大衆部には『陀羅尼経』(だらにきょう)があり、『菩薩地持経』(ぼさつじじきょう)には四陀羅尼が説かれている。他にも経典には幻術の話が多い。それは、インド人が好むからである。また、弟子たちが釈迦の言葉と称して自説を立てて、加上していくのも幻術であり、六道輪廻も幻術であり、過去七仏も梵天勧請(ぼんてんかんじょう)も、すべて幻術である。」(以上、『天才 富永仲基』83頁から引用)
 
幻術とは、「人の目をくらますあやしく不思議な術」(「コトバンク」から引用)とありますから、幻の如く実体のないものを語り、さも実体があるかのように信じ込ませる。それが、布教伝道のための方便(目的のために用いられる便宜的手段など)だったのでしょう。
 
滑稽無糖な話を、単に馬鹿にするのではなく「それは性情(人間の性質と心情)であり、文化である」と捉え、自分の考えのみで批判するのは間違いであると指摘します。
確かに人間は、物事を判断するときに「自己の環境・思想など」を中心に思考を巡らしやすい生き物ですが、そうではなく広く民族的な嗜好にも着意しなければ間違えると言っているのです。
 
第十章には、興味深い文章があります。(以下、引用)
「釈迦が修行の末に、菩提樹の下で悟りを得たのは真実である。しかし、それ以前に三阿僧祇劫の修行があったというのは幻なのである。さらに無量劫とするのは、これぞ幻の中の幻である。」(『天才 富永仲基』89頁から引用)・・・経典には、目くらまし(幻術)が多いようです。
 
第十一章では、この様なことも言っています。「言葉というものは語る人によって変化し、バイアス(傾向や偏向)や制約を受ける」と・・・これを仲基は、「言に人あるなり」と表現しています。
更に、言葉は時代の制約を受ける(「言に世あるなり」)、すなわち時代の推移によって発音も変わるし、仏典翻訳者の用語も変わると述べています。時代の経過・変化とともに、仏典の内容も目にする風景と同じように変化することを教えているのです。
 
第十二章では、仏教思想で何かと問題になる「識」(しき)について語られます。「仏教の初期では、六根と六識が説かれていたが、次第に異部加上がなされていった」と。・・・異部加上とは、「各派がそれぞれ加上する」行為を言います。
 
さらに、(識と同様の意味に使われてきた)心(こころ)や意(い)は中国語であり、阿頼耶識(あらやしき・個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識のこと)や、阿陀那識(あだなしき・深層の根源的な識である阿頼耶識の別名)は梵語であるため、その趣は異なるとします。
だから「うまく結びつかないので、書く言語の本意を知った上で理解すべきである」といった主張を述べています。
 
言葉は、本当に難しいです。同じ日本語でも、正しく伝えられるのは難しいのに、異なった言語の伝達は間違いが生じやすいです。仲基は、その辺のところ(言語と翻訳のずれ)について、きちんと意識していたようです。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

経典を理解する上で、インド人、中国人、日本人などの習俗を理解する必要があると言う指摘は確かに、面白い主張ですね。


「無分別智(その27)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その27。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[自力でも他力でもない]

無分別智は、自分ひとりで得られるものではありません。 

かといって、他力本願で得られるものでも無いのです。 

無分別智は、正しい熱望をもって人と関わる中で生じるものであると(知る人は)知るからです。


*法津如来のコメント

昨日の「法津如来のコメント」でも書きましたが、法の句(無分別智の現れ)は人から聞くものですから、自分ひとりで得られるものではありません。

また、無分別智は自分ひとりで完結するものではありません。他人との関係において現れるものです。

しかし、法の句を聞くのは自分です。また、無分別智にしたがって行うのは自分です。

というわけで、自力でも他力でもないのですが、自力も他力も必要です。