石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その2

望月海慧(もちづきかいえ)氏の「ブッダは輪廻思想を認めたのか」には、色々興味深いことが書いています。輪廻思想に関連する、解脱の問題を考えてみると「解脱というものは、輪廻からの解脱である以上、論理的に常に輪廻思想に縛られたものとなる」と言います。

釈尊の教えが、経典で説かれているように生死に代表される人間の苦しみからの解放を求めるものである限り、「輪廻思想を受容している」と認めざるを得ないとも言います。
それらの考えに基づくならば、当然輪廻から解放された存在形態(いわゆる仏(ブッダ))を目指すこと以外救いは無いことになります。

ここで望月氏は、面白い説を述べます。釈尊(ブッダ)が意図していたのは「むしろ輪廻することからの解脱ではなく、輪廻という存在形態からの解脱、すなわち輪廻という誤った存在形態にとらわれていることからの解放」なのではないかと。
そして、それこそが「輪廻の原因としての無明が明に転換」されることになるのではないかと説くのですが、なかなか面白い説です。

輪廻に関する問題はすべて、解釈する者の主観に従っており、いずれを選ぶかはすべて恣意的(主観的で自分勝手なさまを意味する表現)な問題であると語ります。
望月氏は、釈尊そのものはカルマの理論が支配的な後代の仏教思想に説かれるような輪廻思想に感心を持っていなかったとし、彼にとって最大の関心事は「現在の存在においていかに覚るか」がテーマとなっていたからであると結論づけています。

ここで江戸時代の町人学者、富永仲基の言葉が思い起こされます。彼は、主著(しゅちょ)『出定後語』第八章「神通」の中で、「俗」(ぞく)という文化特性や民族や習俗の傾向のことを語ります。
仲基は、「国に俗あり」と「インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)」と評しています。インド人の習俗は幻術であり、そうしないと民衆は教えを信用しないのだと述べています。

仏典にしばしば登場する神通も、神通を説くことでインドの人々に受け入れられていった。神通を説かなければなかなか受け入れられない。それが仏典に説かれる正体だと言います。
他にも、経典には幻術の話がとても多いのです。それはインド人が好むからであり、また弟子達も釈尊の言葉であると称して次々自説を立て、加上を重ねていくのも幻術であり、六道輪廻も、過去七仏も梵天勧請もすべて幻術であると述べています。

これも、なかなか面白い説です。その様な視点で経典を読むと、経典には随所に幻術がちりばめられていることがわかります。

釈尊はリアリストであると評され、この世を現実的に観て理法に基づき教えを説かれました。その代表的な教えは、「一切」(いっさい)と題されるお経に表れています。
ここで言う一切とは、「すべて」という意味ですが釈尊は「何を一切となすか?」と、課題を出されそれに自ら解答を与えていくという構成になっています。

その解答とは、「眼(げん)と色(しき)となり。耳(じ)と声(しょう)となり。鼻と香となり。舌と味となり。身と触となり。意と法となり。比丘たちよ、これを名付けて一切となす」とし、詮ずるところ眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(ろっこん)と、色・声・香・味・触・法の六境(ろくきょう)とを、それぞれに組み合わせたものにほかならないと説きます。

つまり、六根をもって表示されたる主観と、六処(ろくしょ・六つの感覚器官・眼耳鼻舌身意の六感官)として語られる客観と、その関わりにおいて成立するところの認識を語って、「これを名付けて一切となす」と結論しているのです。その結論の意味するところは、「その他には何ものも存在しない」ということです。(この項、『原初経典 阿含経』増谷文雄著・筑摩書房181頁引用・参考)

世の中には、一切とはその様なものではなく、あれもこれもあると色々説くものがあるようですが、それはただ言葉の上のことのみで実体は無いのだと説きます。
その教えを聞いただけで、釈尊とは有りもしないことを語る人では無く、極めて現実的なことを語る人であったということが理解出来るのです。


*法津のコメント

本日2回目のブログ更新です。

輪廻に関して、面白い考察が展開されています。

次回の寄稿が待ち望まれます。


「こだわり」について

こだわりには自覚しているものと無自覚なものがあります。

自覚しているこだわりは自分の価値観と結びついています。

多くの場合、そのこだわりを肯定しています。

ですから、そのこだわりを捨てようとは思っていません。

話は変わりますが、以前はこだわりは良くないものと思われていましたが、

いつ頃か、こだわりを肯定的な意味に使うようになっています。

コマーシャルにも、「味にこだわった」などという言葉がでています。

しかし、こだわりは人の自由を束縛しているのです。

こだわりのせいで、苦しんでいることに気づいていません。

こだわらなくてもいいのです。

意見の違いによる葛藤も、こだわらなければ問題になりません。

一人ひとり違うのですから、意見は違っていいのです。

こだわらなければ、対立は生まれません。

対立がなければ、平和です。

一人ひとりは自由です。

しかし、はじめに書いたように無自覚はこだわりもありますから、

自分が何かにこだわっているかも知らないために、こだわってしまうのです。

まず、自分のこだわりを知ることが大切です。

昨日も書きましたが、自分のこだわりは他人との関係においてわかるものです。

他人との人間関係を大切にしてください。