輪廻について

先ほど掲載した「『輪廻』という幻(イメージ)その6」をもって、石法如来の「輪廻」は幻でありこころで描くイメージにしか過ぎないという見解の解説はおわりました。

そこで、私もこの見解を踏まえて、少し私の見解も述べておきます。

その前に、SRKWブッダはその著書「ブッダの世界観」の中で、「古典的輪廻説」「輪廻説の取り下げ」「寂滅論の提起」についておられることをお知らせします。それについては、後日このブログでも紹介しましよう。

さて、ほとんどの宗教は死後の世界について述べております。

そのために、世界の多くの人々は何らかの形で死後の世界があると集団無意識に刷り込まれているでしょう。

たとえ、強固な唯物論者といえども、彼らが死後の世界はないと言えば言うほど、彼らの潜在意識にその存在が刷り込まれていくでしょう。

輪廻は幻(イメージ)と考えると、輪廻はあることになります。

イメージの世界はなんでもありですから。

そうすると、輪廻は本当に幻(イメージ)なのでしょうか?

それが問題になります。

そこで私も、輪廻は幻(イメージ)だという見解です。

今日はここまでにしておきます。

石法如来の特別寄稿:「輪廻」という幻(イメージ)その6

私は、今回の記事(その1)で次のように書きました。
                                   
「因縁とは、ある意味曖昧さのある難しい言葉ですが、そこでは先祖から受け継いだものと前世から受け継いだもの、の二方向を想定して阿含宗では教えを説いていました。
普通に考えたら、今生きている自分という存在は先祖から影響を受けているという事実は疑いようもありません。しかし桐山氏は、先祖から受け継いだ影響を縦軸の線と考え、更にもう一方横軸の線を想定し説いたのです。
 
その横軸の線こそ、過去世から現世・未来世へと永遠に続くいわゆる「輪廻」であるとし、この縦線(先祖からの影響力)と横線(輪廻による影響力)の交点に「自分」というものが存在すると説いたのですが、なかなか面白い説です。」と・・・。                                              
 
そして、私が注目したのはウィルスの働きです。それは、「親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。」という部分です。
 
そこで、ウィルスとは何か?という問題になりますが・・・。(以下、福岡氏のネット記事引用)
「ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。
 
しかし生命をもうひとつ別の視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方・・・つまり、動的平衡の生命観に立てば・・・、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。」(以上、福岡氏の記事引用終わり。)
 
私は、生物学は全くの素人なので何とも言えませんが、「輪廻」に繋がる面白い文章だと感じたのです。インド発の「輪廻」という思想も、生物学的要素が絡んでいても何ら不思議はありませんが、生命活動に関しては「神秘」(しんぴ)としか言いようがありません。
 
丁度、昨今のパンデミック騒ぎでウィルスの働きが着目されていますが、大阪市立大学名誉教授の井上正康氏は「身体の遺伝子の3割以上はウィルス」であり、「ウィルスと大腸菌なくしては人間は存在しない」とまで申しております。
未来において、生命の神秘が解き明かされる日が来たなら、「輪廻とは何か?」という問題も解明される可能性があります。                                 
 
輪廻があると仮定して、その最終到達点は何か?という問題もあります。
私は、今回の記事の(その3)で一つの経典の言葉を引用しました。『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉です。
 
その経典には続きがあります。                     
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』(『スッタニパータ』七五三偈)という言葉です。そして・・・。
「物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの生存に戻ってくる。しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。」(『スッタニパータ』七五四・七五五偈)と。
 
仏教で「無我」(あるいは非我)の思想を説く以上、「常見(じょうけん・アートマン(自我:霊魂)は永遠に続くもので不滅であるとする見解)」はあり得ません。
仮に、「断見(だんけん・人が一度死ねば断滅して二度と生まれることはないという見解)」であるとしても、生存?の繋がりを証明することは不可能です。
 
「断見」の説における「生存?に繋がる連鎖」の表現法は、古来から伝わる「同じものでもなく、かつ異なったものでもない」となり、現実的には何を言っているのか理解出来ないことになります。
 
「輪廻」に対する私自身の見解は、今回記事に書いた通りですが、本来「覚り」に直接関係がなく特段感心がないというのが正直なところです。
この世を去ったのち解脱者(覚者)の行方は、すでに「涅槃(ねはん・ニルヴァーナ)」に入っているわけですから、古来から説かれる「滅(めつ・寂滅・寂静・(消滅))」という表現は適当といえます。
 
今回の連載記事は、(その6)で終了です。


*法津如来のコメント

今回の連載記事は、(その6)で終了ということですから、私も輪廻についての見解を本日の次のブログ記事で書いてみます。