石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その2)

それは釈尊が、輪廻と業の思想の中で「生死は何に従い何を縁として有るや」という、人間苦の存在に対する大いなる疑問への解答であり、その原因と条件とを思惟した時、「智が生じ、眼が生じ、明が生じ、通が生じ、慧が生じ、證(あかり)が生じた。」(『長阿含経』巻第一(一))ものなのです。
 
すなわち、「所謂(いわゆる)、無明を縁じて行あり、行を縁じて識あり、(以下名色、六入處、觸、受、愛、取、有とつづく)、有を縁じて生あり、生を縁じて老死憂悲悩苦あり。」(『雑阿含経』巻第十二(二九三))と。
その苦悩の生起を辿り人間の存在とは、「純粋にして大いなる苦のあつまりの集積(純大苦聚集)」であることを知るのです。
 
このように、無明から老死に至るまで、苦の生起を辿ることを「順観」(じゅんかん)の縁起といいます。「此有故彼有。此起故彼起。(これが有るが故にかれ有り。これ起こるが故にかれ起こる。)」という、前段のフレーズは順観の縁起を指し、簡単な図式を以て表示するならば、「無知(無明)~執着~苦しみ」【順観】ということであり、これを論理的に分析すると、
 
(1)人間存在の根底には、無明(根本的な無知)が潜在する。
(2)それに基づいて、渇愛(かつあい・妄執)が起こる。
(3)渇愛という誤ったはげしい欲求により、取著(しゅじゃく)という実際行動が起こる。
(4)それ故に有(生存)が終息せず、生老病死の苦しみが生起する。
ということになります。
 
このように、人間苦の生起に対する大いなる疑問の解答を得た釈尊は、次に「何等無きが故に老死無く、何等滅す故老死滅す。」と、その思索を人間苦の滅尽に向けるのです。
 
そして、「生無きが故に老死無し、生滅するが故に老死滅す、有無きが故に生無し、有滅するが故に生滅す。(以下、取、愛、受、觸、六入、名色、識、行とつづく)、癡(ち・無明)無きが故に行無し、癡滅するが故に行滅す。」と、純粋にして大いなる苦の集まりは滅する(純大苦聚滅)性質のものであることを知るのです。それに基づき、「此無故彼無、此滅故彼滅。(これ無きが故にかれ無し。これ滅するが故にかれ滅す。)」(『長阿含経』巻第一(一))という後段のフレーズが生まれます。
 
このように、老死・生・有と逆に観を修することを「逆観」といいますが、これも簡単な図式を以てすれば、「無知なし(無明なし)~執着なし~苦しみなし」【逆観】ということになります。
釈尊は、この順逆の縁起の中に苦の成立と集と滅と滅道跡を見て、「我れ此の法に於いて、自ら知り自ら覚り、等正覚を成じた。」(『雑阿含経』巻第十二(三八七))と、自らの「さとり」の成就を声高らかに宣言されたのです。
                                     
特に、この逆観の縁起思想の中から、「無始の生死に於いて無明に覆われ愛結に繋せられ、長夜に輪廻して苦の本際を知らず。」と、無限に輪廻する存在である衆生が、現世における修行の実践において、「純大苦聚滅」(苦の滅尽、すなわち輪廻からの解脱)が可能であるということと、
 
釈尊が自ら解脱を成就し、「なすべきことをなし終え、再び後の生存を受けない。」(『雑阿含経』巻第十(二七二))という自覚を得たとする、仏教史上極めて重要な二つの論理的根拠を読み取ることができ、それらから輪廻と業の超越を目指す仏教の理論と実践は、全てこの「十二支縁起の覚りが出発点になっている。」と考える事が出来るのです。
 
 
第2節 十二支縁起と法(ダルマ)
 
前述したように、釈尊のさとりし縁起とは全ての存在は因と縁との結合によって成立していると考えることです。
因とは、「原因になっているもの。結果をつくるもの。もとになるもの。」であり、縁とは、「すべてのものに因果の法則が支配しているのであるが、その果を生ずる因を助成する事情、条件、すなわち間接的原因を縁という。」ことです。
 
この縁における因果とは、「原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因があるというのが因果の理、あらゆるものは因果の法則によって生滅変化する。」ということであり、ここに仏教の説く「法」(ダルマ)の何たるかが理解されるのです。


*法津如来のコメント

今回のこのコメントは、石法如来の特別寄稿とは関係なにのですが、次のようなコメントを頂きましたのでここに、記載いたします。

「庵治歳
2021/06/21 21:49

ワンギーサ様、輪廻と細菌の関係について・・・たのしく読ませていただきました。 紫陽花の花の色づき始めたこのごろ、年のせいか徒然にほとけを想います。 仏陀の説かれた悟りとは、二度と母体に戻らないこと(輪廻しないこと) とお聞きした覚えがありますが もしも、もしもですよ 無菌室のようなところで余生を過ごすことができれば 二度と輪廻せずに済むのではありませんか? 形式ばった、カリキュラムじみた修行より 科学が効果があるということでしょうか。 残り少ない人生、寄り道なく悟れればこんな幸せはありません。 ほとけの腕の中で幼子のように眠れれれば 凡夫の私など百点満点ではないかとも思うのですが。」

以上です。
庵治歳様、コメントありがとうございます。