別のある読者からのメール

今日は少し話題を変えて、またある読者からのメールを引用します。
数日前に、ある方から電話を頂きました。彼は私のブログのことで聞きたいことがあるということでした。そのことはともかくとして、話がはずんで2時間ほど話しました。彼は大阪に住まわれているということですが、今は新型コロナの影響で出身地の北海道帯広に居られるということです。66歳だそうです。

いろいろ話しましたが、現在の境地をまとめてメールをしてくださいとお願いしたところ、次のようにメールしてくれました。それを掲載します。もちろん彼の了承済みです。

(以下引用)
あれから閃くままに記しました。此れをキリスト教徒は神の造物、仏教徒は御縁と言うのではないでしょうか。

なんにもないという事を理性で論理的に理解する。これは万人に可能である。辻褄合わせだからである。そして、何にもないという事実を体で体感する。この体感が理性に於ける論理的理解の証拠になる。また、無の体感の完全なる証拠は苦行放棄である。放棄を滅却、止滅の語彙に置き換えても何ら差し障りがない。

信心とは信用、信じる等の響きを利用して仏陀の自内証を知的位相の低い人々のために考案された方便である。すなわち、近づけるためである。仏陀の内証は仏陀自信も解らないからである。忘我だからである。

仏教理解に頭入らない。あるとないが解ればいい。

此れは鬱、苦のの暴流である。此れが涅槃の暴流である。
亦、彼も亦、常楽我浄の暴流である。彼とは眼界である。

涅槃寂静とは一点に於ける集中の先に起こる忘却である。忘却だから、その時はその一点の意識は意識されない。忘却だから。が、忘却が去ると一点が意識される。これが涅槃寂静の周辺である。しかしながら、確実な事が的確に言える事実証拠がある。この時、微塵の苦悩も認められない。菩提薩埵は此れを究竟とする。亦、三世諸仏は涅槃寂静の周辺に住する。だから、得阿耨多羅三藐三菩提無上正等覚となり上が無い正しい等、すなわちなどの覚といわれる。などとは一点の意識と一点の忘却である。

他人の幸せが身悶えするほど妬ましい。亦。他人の姿は身悶えするほど苦しい。だから、苦滅を実行し他人になる。他人とは勝利、富、乞食、等等、数多く存する。

道元が言う自己習うと言うは境界相、能見相、無明業相、根本煩悩等を四心不乱に思惟観想する事を言う。が、道元はこの一部分の習うである。
道元の習う自己はは自燈明法燈明である。前記に従えば根本煩悩境界相の二心不乱の観想である。不乱だから一心の一でもよい。

唯識と大乗起信論、前者は輪廻の主体として、阿頼耶識にその特色としての性格をあたえた。論師のある意図がある。唯識は迷いから悟りである。菩薩の命がけの瑜伽行の心の支えである。奥深い猛獣の存する山林にて瑜伽行が行じられるからである。空腹の虎への釈迦の供養が釈迦前世の成仏の必須条件としての善業が菩薩の取捨身命の一大決心を余儀なくするからである。だから、阿頼耶識は輪廻の主体として信受されるのである。ここに命懸けの、否、命を捨てた瑜伽行の姿がある。

 亦、起信論に於いては輪廻の主体は無い。その代わり西方極楽浄土が落ちこぼれの受け皿になっている。このための起信である。華厳に仏凡夫衆生無差別とある。だから、起信でもいいし不起信でもいい。依言真如に如実空如実不空があるのと同義である。が、凡夫はそうはいかん。だから起信なのだ。どちらでもいい。何ら問題は無い。大乗でも良いし阿弥陀仏への起信による西方極楽浄土往生でもいいのだ。起信の姿勢が最重要眼目なのである。この姿勢があれば落ちこぼれは全く関係ない。仏教が実践の行為のと言われる所以である。大乗仏教にはあらゆる仏様が救済の目を光らせている。死してさえその受け皿が用意されているではないか。何を狼狽えているのだ。大船に乗った気分でおれば良い。当に大乗である。死して仏になるも、生きながら成仏するも何ら変わりはない。生きて仏になれば此処が西方極楽浄土である。

 法津如来に幸あれ

(以上引用)

メールの最後に可愛い絵文字が記されていたのですが、残念ながらこのブログでは表示されませんでした。