石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その10)

仏教でいう智慧とは「般若」ともいい、「個々の現象を分析して判断する識から出発して、これを越え存在の全てを全体的に把握するようになる」ことであり最初期の経典には、「明らかな智慧によって四つの尊い真理を見るときに、この人は迷える生存の妄執を破り摧(さい・砕く)く道を明らかに知る。」(『ウダ-ナ・ヴァルガ』(第十二(一))
 
「「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」(『ウダ-ナ・ヴァルガ』(第十二(五))

と、四つの真理(四聖諦)や法印(三法印)などの、法(ダルマ)に対する深い考察が智慧の源であると教えています。
最初期の仏教徒が智慧を重んじたのは、われわれの存在の奥に潜む盲目的な渇きにたとえられる妄執(渇愛)も、知る働きによって滅ぼされると考えたからであり、その過程は明知が無明を破り、それによって解脱が起こるのであると説かれたのです。
 
つぎに、行(実践)の面から考察すると、中道における具体的な実践行とは前述した四つの尊い真理(四聖諦)の道諦で示されている八聖道(八正道)を指すのです。
八聖道は、正しくは聖八支道といわれ「八つの構成要素(すなわち支分)よりなる聖道」という意味であり、正見と正思と正語と正業と正命と正精進と正念と正定とを総括して示す語です。
 
この八聖道において肝心なことは、何が正しい見解(正見)なのかということであり、経典では誤った見解について説いています。
「無明とは無知なり。善、不善法において実の如く知らず、有罪無罪、下法上法、染汚不染汚、分別不分別、縁起非縁起に実の如く知らざる成り。実の如く知らざるが故に邪見を起こす。」(『雑阿含経』巻第二八(七五0))
 
すなわち、十二支縁起の無明や縁起そのものを如実に知らないことを、経典では誤った見解(邪見)であると述べ、それゆえ邪志(邪な思い)乃至邪定(邪な精神統一)が起こると説くのです。
経典は続いて、八聖道の要ともいえる正見についても説いています。
 
「明とは善、不善法において実の如く知り、有罪無罪、親近不親近、卑法勝法、穢汚白浄、有分別無分別、縁起非縁起にことごとく実の如く知るなり。実の如く知らば是れすなわち正見なり。」と。 (『雑阿含経』巻第二八(七五0))
 
すなわち正見とは、善法を生ずるための明(智慧)であり、「正見が成立すれば正志(思)、正語、正業、正命、正方便(精進)、正念、正定が成立し、正しく貪恚癡(とんじんち・三毒)より解脱することが出来る。」と説くのです。
 
このように、十二支縁起の理論面では「苦の生起と滅尽」という道理を示すに止まっていましたが、具体的にどうしたら無明や愛(渇愛)を滅し「老病死憂悲悩苦」を解決して、涅槃を得ることが出来るのかとという具体的な実践の道は示されておりませんでした。
 
そのように考えると、十二支縁起の思想は「如来が世に出現してもしなくても、永遠に変わらざる真理」ではあるが、そこにおいて説くところの教えは自ずと限界があり、修行の実践という不足部分は、四聖諦の苦滅道聖諦の八聖道で補っていると考える事が出来るのです。
 
また、正しい智慧の実現の道は、八聖道の実践によって得られるが、これまた戒定慧の三学としてもまとめられています。
三学とは、増上戒学・増上心学・増上慧学の三(みっつ)をいうのであるが、これらの三つは順次に戒・定・慧を自性(じしょう・物それ自体の独自の本性)とするものであるので、戒・定・慧の三学ともいわれています。