石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その11)

戒とは、習慣・習性・慣行などの意味があるが、心身を調整して悪をやめ善をなさしめる宗教的同時的な行為の規範や生活の規定のことです。

定とは心を統一し、安定させることで、音写して「三昧」(さんまい)あるいは「三摩地」(さんまち)といい、また「等持」(とうじ)とも訳します。その具体的方法としては「禅」と呼ばれる瞑想が主であるため、しばしば両者を合わせて「禅定」とよびならわしています。
 
慧とは、智慧のことで般若(はんにゃ)ともいう。般若は、世間一般でいう知識ではなく真実を見聞し、諸法の実相を見きわめ、空を体観するいわば絶対智であり、その智慧は煩悩の汚れがないから無漏智(むろち)といわれます。
 
前述した八聖道を三学に分けてみれば、正語・正業・正命の三つは戒学にあたり、正念・正定の二つは定学にあたり、正見・正志(思)の二つは慧学にあたり、正方便(精進)はいずれにも通じるものといえます。
 
三学ついて経典には・・・。
「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律とともに修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一とともに修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧とともに修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから全く解脱する。」(『ブッダ最後の旅』(大パリニッバーナ経)第一章十二)と、戒・定・慧の不即不離な三学の兼修が仏道修行の完成をもたらすと説いています。
 
第二節 十二支縁起の観想法
 
何度も述べてきたように、仏教において種々の実践行を修する目的は、この現象の世界に生きる人間の苦を滅し、輪廻を脱して究極の境地である「涅槃」(ねはん・ニルヴァーナ)を得ることにあります。
 
その目的成就のために、前節では中道の実践行として八聖道について述べてきましたが、本節では経典に「いかんが思量観察せば正しく苦を尽くし、苦辺を究竟(くきょう・物事の最後に行きつくところ)」するや。」(『雑阿含経』巻第十二(二九二))とあることから、十二支縁起の実践行としての「観想法」に焦点をあてて考察してみます。
 
釈尊の正覚成就を説く経典によれば、未だ正覚を成就せざりし時、独一静処において専精に禅思し、次のような念(おもい)をなしたとあります。
 
「何の法有るが故に老死あり、何の法に縁るが故に老死有るやと、すなわち正しく思惟して実の如く無間(むけん・絶え間なく)等を生じき。生有るが故に老死あり、生に縁るが故に老死有り。・・・生に縁りて老病死憂悲悩苦、この如くこの如くして純大苦聚集(じゅんだいくじゅしゅう)すると、
 
我ときにこの念をなしき。何の法無きが故に則ち老死無く、何の法滅するが故に老死滅するやと。すなわち正しく思惟して実の如く無間等を生じき、生無きが故に老死無く、生滅するが故に老死滅する。・・・有滅するが故に生滅し、生滅するが故に老病死憂悲悩苦滅し、この如くこの如くして純大苦聚滅(純粋にして大いなる苦のあつまりの集積の滅)すと。」(『雑阿含経』巻第十二(二八七))
 
そうして、古い仙人の道・逕(けい・小道)・道跡を得、この法において自ら知り覚り、等正覚を成(じょう)じたと経典は記しています。
 
この経典中にある、「独一静処において専精に禅思しこのような念(おもい)をなした。」、あるいは、「正しく思惟して」等という記述から、釈尊は瞑想を行じて十二支縁起の順・逆を観るという観想法を修したものと考えられますが、それは前述した「その時、菩薩逆順に十二因縁を観じ・・・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら-さんみゃくさんぼだい・一切の真理をあまねく知った最上の智慧)を成ず。」という記述とも対応することから、菩提樹下でさとりを得たという伝承を裏付ける修行法であると推察出来るのです。