石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その6)

第二節 他支縁起の考察
 
原始仏教経典における縁起説は、十二支縁起とともに三支・四支ないし九支・十支等の他の縁起支も数多く説かれ、その成立について様々に論議されています。
成立の順序について、十二支縁起の成立は縁起説の中では最も新しいと見られていますが、その一番大きな理由は簡単な三支・四支・五支などの縁起説が、十二支縁起説よりも以前に成立していたと見られているからです。
 
この説について和辻哲郎(わつじてつろう・日本の哲学者)氏は、「縁起説が簡単なものよりより複雑なものへと発展したと認めるならば、一切の困難は消失する。」と述べておられます。
 
また、「その原典に説かれる実体は、まことに雑然として、秩序も統一もない」ことを考えると、縁起説では「縁起」ということが重要視されたのであり、その縁起説が十二支から成立しているか、あるいは十支、あるいは九支などから成立しているなど、「支」の数についてはあまり問題にしなかったのではないか?と推測されます。
 
十二支縁起と、他支縁起の最も相違するのは、人間存在の根源を数段掘り下げて思索した点にあります。たとえば、十支縁起と十二支縁起を比較すると、行・無明が加えられているが、行とは前述したように「業」とおなじ意味を持ち、身・口・意の行い、及びその行いの結果もたらす潜在的能力を指し、「無明」は我々の存在の根底にある根本的な無知を指します。
 
しかし、無明にまで苦の生起の原因が到達しない他支縁起については、「愛」(あい)が重要な意味を持っています。愛とは、前述したように渇愛(かつあい)のことであり、原始仏教では苦しみの生起の原因は、妄執(渇愛)、すなわち喉が渇いているときには水が欲しくて仕方がないような、いかんともし難い衝動的な欲望であり、これが我々の存在の根本にあると考えたのです。
 
この愛(渇愛)が、苦の成立に起因するという考えは、「苦の成立とは何を意味する。すなわち渇愛ゆえ、更にこころよい性質をあらしめ、貪り執着し、喜びから離れることができない。」(『仏説転法輪経』)という経典の記述と、前述した四種の真理(四聖諦)の集諦説(苦の原因は、渇愛であるという真理)とが一致することでも理解出来ます。
 
また、他支縁起を説く経典では、苦の成立に起因する愛を「時にしたがって水をいっぱい注ぎ、冷暖を調節するという因と縁とを育てた樹木が、しかる後に大きく太いものになる。」と樹木に譬え、あるいは「常住なるものを思い、常住であると思い、安らかにして穏やかであると思い、我がものという観念を思い、作られたものと見る。この形ある世界において渇愛は増大する。」(『雑阿含経』巻第十二(二八三))と、存在に対する誤った見解が人間の意識の深層に潜み「激しく求める」という衝動的な欲望を増大増長せしめ、それが人間苦を生み出す根本原因であると説くのです。
 
また同時に、経典は愛がどの様にして滅せられるかも説くのです。
「多聞の聖弟子は、色の集、色の滅、色の味、色の患、色の離において實の如く知る。實の如く知り己らば、彼れ色において愛楽せず(渇愛を楽しみとしない)、讃歎せず(ほめたたえない)、染著せず(執着して止まらない)、留住せざるなり(留まって住むことがない)。愛楽せず留住せざるが故に、色の愛則ち滅す。」(『雑阿含経』巻第二(五三))と。
 
このように、愛(渇愛)もまた因と縁とによって形成され、それに伴い執着という精神作用が増長し、大きく膨らんでいくものであるが、智慧によって人間の存在を如実に観て欲望(愛)を離れるならば、それは「滅することが可能なものである」と教えるのです。
 
しかしここで、修行の実践と到達する境涯に関し、大きな疑問が生じます。
前述したように、他支縁起説における苦の生起とは愛(渇愛)に起因し、「愛が滅せられれば死後に生まれ変わることがない」と説かれるが、十二縁起説に於いても同じように、「かの無明をとこしえに滅し、死後に生まれ変わることなし。」(『雑阿含経』巻第十二(二九二))と説かれていることです。