アッサジ長老とサーリプッタ尊者のエピソード

昨日、朝6時にラジオ体操を行う運動広場に出かける道筋に、こちらに向かって歩いてくる一人の中年の女性がいました。その歩き姿が素晴らしく、思わずこちらの姿勢が正されました。

その時、今から二千数年前インドの朝の街角を歩いている一人の比丘とサーリプッタ尊者のエピソードを思い出したのです。

そのエピソードについては、過去のブログに書きましたので、それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200902/article_13.html

(以下引用)

 悟った人から学ぶことは、その言葉からももちろんありますが、それ以上に立ち振る舞いにあります。経典の中から、私が立ち振る舞いが大きな意味を持ったとして、思いだされる場面はパーリ律蔵の大品に書かれている「サーリプッタとモッガッラーナの出家」に関する文章です。宮元啓一著「仏教かく始まりき」(春秋社)の200ページから引用します。

 「時に、アッサジ長老は、早朝に下衣を着け、鉢と衣を持って王舎城に乞食をしに入り、行くも帰るも、前を見るのも後ろを見るのも、屈するも伸ばすも清らかで、目線を下に落とし、正しい威儀のあり方にかなっていた。遊行者・サーリプッタは、アッサジ長老が王舎城で乞食をしながら、行くも帰るも、 前を見るのも後ろを見るのも、屈するも伸ばすも清らかで、目線を下に落とし、正しい威儀のあり方にかなっているのを見た。
 見て、彼に、次のような思念が生じた。『世間において尊敬を受けるに値する人、あるいは尊敬を受けるに値する道に入った人々、この人は、そうした比丘たちの一人だ。私は、この比丘に近づいて訊ねてみよう。『友よ、あなたは誰のもとで出家したのですか。あるいは、誰があなたの師なのですか。あるいは、あなたは、誰の教え(真理)を喜んでおいでなのですか』と」

(以上引用)

アッサジ長老は「自分は世尊の弟子である」と答え、

また、世尊は何を説かれているのかという質問にたいしては次の詩句を唱えたということです。

「諸々の事がらは原因から生じる。
真理の体現者はその原因を説きたもう。
諸々の事物の消滅をもまた説かれる。
大いなる修行者はこのように説きたもう。」

この言葉を聞き、サーリプッタ尊者は「法の眼」を開いたということです。

つまり、預流果に悟ったということです。

これは、SRKWブッダの説かれる(第一の)法の句に相当するでしょう。