SRKWブッダが布教活動には興味がない理由

数日前に、アマゾンからSRKWブッダの新刊「覚りの因縁」が届きました。
その終わりの方に、「SRKWブッダが布教活動には興味がない理由」という章があります。
今回は、それを引用します。

(以下引用)
SRKWブッダが布教活動には興味がない理由

私は、世に広く理法を説いているが布教活動そのものには興味がない。私がインター ネットや書籍などを通じて理法を語るのは、私に縁ある人々に向けて仏道の本質を説こ うと思ったことによるものであって布教が目的ではない。

なぜ私が世間的な布教活動に興味がないのであるか。その理由は、私が布教はすべて 仏縁によって為されると考えていることによっている。すなわち、そのような活動を行 わなくても、縁がある人は必ずや私というブッダの存在を知ることを得て、そうして私 が説くところのものに興味を抱くに違いないと確信しているということである。

この立場に立てば、インターネットを通じた情報の提供や書籍による情報開示でその 目的は充分に果たされると考えられるのである。この本も、もちろんその線に沿って上 梓するものである。

ところで、古典的な仏教観においては、輪廻を肯定していた模様である。その場合、一 定の覚りに達した人は死すともうこの苦悩の世には戻ってこないと推定された。そして、 解脱することのなかった者は苦の輪廻を繰り返し、あるいは地獄に墜ちる者もあると考 えられたわけである。

このような苦の輪廻を前提とする場合、基本的には如来は布教を考えることになろう。 何となれば、衆生が苦の輪廻を繰り返すのをブッダがただ眺めているだけというのでは 矜持が許さないからである。

しかしながら、私のように輪廻説を取り下げて寂滅論の立場に立った場合、如来は布 教の必要を特に感じない。これは、衆生が仮に覚りの真実を知らずに生涯を終えること があっても、彼の人生が彼自身有意義であったと実感されるならばそれで良いと認めら れるからである。もちろん、覚りの境地はこの世の最高の境地であり、素晴らしいもの である。しかし、この境地に興味がない者を無理矢理に誘うのは労があるだけで意義が認められないということである。無理強いされた人は、自分の本来のしあわせを損なっ てしまうかも知れない。

ただし、もしも輪廻が存在し、解脱が輪廻を脱する唯一の方法であるならば、私も衆 生には全員解脱を果たして欲しいと思う。しかしながら、輪廻は存在せず、解脱が覚り の境地を知り住するだけのものであるならば、修行の労苦を負わせてまで衆生を覚りに 誘うにはあたらないであろう。

例えば、数学とは縁遠い社会生活をすることを最初から望んでいる人に、高度で難解 な数学の履修を無理強いするのはあたらないと言えるようなものである。それは、必要 がある人だけに限定しても問題ないであろう。

これと同様に、ブッダが人々に仏道修行を勧めることは、覚りの境地に興味がある人 だけに限定して構わないであろうということである。

このようなことから、私は作仏して時間が経過した後も積極的な布教活動には興味を 持てなかった。もちろん、もしも理法について問う人があるならばそれについて答えた いとは思う。ただし、あくまでも対機の理法を説くということである。
(以上引用)


*法津如来のコメント

SRKWブッダはこの通りでありましょうが、私(法津如来)は少し違います。
仏教に興味のない人にも、幸せになってもらいたいという思いがあるのです。
それで、高原のリズムとか、自然のリズムとか、体のリズムとか言っているのです。