「さびしい」という感情

意見の違いについて考えていると、今まで考え違いしていたことがわかってきます。

その一つが「さびしい」という感情です。

皆さんは「さびしい」についてどのように思っているでしょうか?

一般的には、「さびしい」のは嫌だとか、恥ずかしいことだと思っていませんか。

昨日は、一日中4歳の孫と二人で自宅ですごしたのですが、彼は一人になるのを非常に嫌がります。

一人で遊んでいても、そばに来て欲しいと注文します。

人は、人だけでなく全ての生命は一人では生きていけないので、一人を嫌い、「さびしい」のを嫌うのでしょう。

「さびしい」は生命が生きて生きていくために必要な本能的な感情です。

ですから、「さびしい」は必要な感情だと考えていいのです。

「さびしい」は嫌がることでもなく、恥ずかしがることでもないのです。

では、「さびしい」とはどういうことでしょうか。

(カタカムナが教える音の意味で考えるまでもなく)

差がないということです。

意見の違いがなければ、さびしいですね。面白くありません。楽しくありません。

意見の違いがあってよかったのです。

生命が友達を求め、配偶者を求め、子を求めるのは自然なことなのです。

しかし、注意すべきことがあります。

「さびしい」は自然な感情ですが、その際その感情に余計な思いや考えが加わって、人は悩むのです。

それは問題です。

そのことについて、また考えてみましょう。

最後にダンマパダの62偈を引用します。

「『わたしたちには子がある。わたしには財がある。』と思って愚かな者は悩む。

しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。

どうして財が自分のものであろうか。」(中村元訳)