石法如来の特別寄稿:「道の人」(本物)の見分け方

世の中に、本物の「道の人」は存在するのか?と考えることがあると存じます。今日は、その事について少し考えてみます。(考察の対象は、修行者です。)
 
人間という生き物は、欲がありますから自分自身の持つ判断の尺度も、その欲目を基準にしています。・・・ということは、自己の持つ判断の基準はあまり当てにならないということになります。
 
修業の可否・あるいは人間の幸福というものは、「道の人」との出会いにより決定される部分が大きいですから、出会いがその人の人生に占める割合・強度は考える以上に大きなものがあります。
そう考えたら、本物に出会わなければ目的(覚り)達成は不可能と言えます。
 
この世を長年生きてきて断言出来ることは、この世において道の人と称する人物(宗教者・思想家など)はほとんどが偽者です。また、偽者に限って外観を飾ったり、出版物に上手いことを書きますからすっかり騙されてしまいます。
 
騙されやすいのは、案外自分自身に自信を持っている人間です。「自分は、騙されることは無いだろうし、騙されない自信がある。」等というのが一番やっかいなのです。その人の自信の表れこそ、相手に付け入る隙を与えているのです。
 
そういう私も、大きなことは言えません。新興宗教団体(阿含宗)に、過去すっかり浸かりお金を貢ぐ結果となりました。
今振り返れば、学んだものはがらくたばかりで真に自分自身の血肉となったのは、「阿含経の存在を知り、自ら学んだ」ことだけです。
 
それでも、いまだにその教団に在籍し同じ境涯を堂々巡りしている会員も数多く存在しています。いつまでも、進歩無き世界に安住していても安楽(覚り)を獲得することは出来ません。
 
私は、先に「私の出会った偉人たち」の記事の中で、SRKWブッダこそ本物であると書きました。SRKWブッダを、よく観察すると本物の「道の人」の姿が浮かんできます。
 
それは、「仏として生きている」ということです。・・・仏は、「職業を持つことができない」から経済活動は出来ません。経済活動せずに、生きていかなければいけないのです。
SRKWブッダは、2001年12月の覚りを得た時点から約20年間、「仏として生きて来た」ことに対し、それこそまさしく「道の人」の生き方であると大いに賞賛します。  
                                                  
考えて見れば当然ながら、凡人はみな「人を集め・物を集め・お金を集める」ことに執心しています。経済活動の原則である、その様な行為に走る人間はみな凡人であり「道の人」ではありません。
「道の人」は、どこまで行っても「理法に逆らう」生き方は出来ないのです。何より、精神の純粋性を保つには、経済活動など行えないし行ってはいけないのです。
 
「道の人」は、見方によっては普通のおじさん(おばさん)であり、特段尊敬に値する人物には見えません。そう考えると、どこにでもある路傍の石の如き存在に見えますが、決してそうではありません。
 
「仏として生きている」、その生き方を示すことによりあとに続く者の手本となり、「法を説く」ことにより後に続く者に生き方・歩み方を教えることになります。
それは、単なる路傍の石に止まることなく、どこまでも気高い崇高な輝きを放っています。その輝きを、キャッチする人間もいればしない人間も出来ない人間もいます。
 
本物は、見ようによっては「全く大したことない」ように見えます。・・・著書で上手いことを書き、見える部分(表面)を着飾り、甘言を弄する者に衆生は惹かれるというのがこの世の常ですが、それは単なる幻想・幻惑・妄想に過ぎません。
目の前の迷いを乗り越えない限り、本物の「道の人」と出会うことは難しいのです。


*法津如来のコメント

今回も、大切なことを教えられました。

次回は、「「あるギタリストの死」と仏教」というお話しだそうです。
これも楽しみですね。


 

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この記事へのコメント

才木広之
2021年10月08日 06:07
最近はコメント欄が少し荒れ気味ですね。

才木広之は

ゴータマ・ブッダが最上の頼りです

優しさ思い遣りの気持ちを貫く事に専心しています

この思い遣りの完成者が如来だと考えます

無常の自身において完成はなく

怠ける事無く貫く事が完成だと考えます

継続は力なり、と言う事です。

才木広之より