石法如来の特別寄稿:開戦80年・・・真珠湾攻撃とは何だったのか。(その2)

 開戦80年・・・真珠湾攻撃とは何だったのか。(その2)
 
当時の日本人が、世界情勢を正しく把握していたなら、あの大国アメリカと戦争しようなどと言う気持ちを持つはずがないと誰もが考える筈です。
その考えは、全く間違いではなく当時の軍人含め日本人全体、あるいはアメリカ国民すら戦争しようなどと考えてはいなかったというのが真実のようです。
 
では、何故あの様な大きな規模の戦争が起きたのか?・・・当然、そこには「それを策謀した人間」がいるという事です。それも、日米双方に・・・。
その存在については、簡単に語ることが出来ないのでここでは日本側が、「もしアメリカと戦争するようになったらどうする?」という点について、どの様に対応しかについて書きます。
 
林 千勝氏の著書『日米開戦 陸軍の勝算』を読みますと、第一次世界大戦以後「もはや戦争は経済と一体であり総力戦になる」ことは分かっていました。
日本(帝国陸軍)は、「生きるか死ぬか」の決断のために、緻密な経済計画に基づく判断、合理性の透徹を追求しました。故に、科学的な研究に基づく、合理的な戦争戦略準備を急いだのです。
 
攻防の策を講じるために、何を行ったのでしょうか?(以下、林氏の『日米開戦 陸軍の勝算』引用)
「大日本帝国陸軍は、昭和十四年秋、我が国の最高頭脳を集めた本格的なシンクタンク「陸軍省戦争経済研究班」をスタートさせました。わが国に経済力がないことを前提として、対英米の総力戦に向けての打開策を研究するためです。開戦のおよそ二年前のことです。」(以上、同書20頁)                                              
実際の、「陸軍省戦争経済研究班」は昭和十五年一月に設立されています。「陸軍省戦争経済研究班」の設立を企画した中心人物は、岩畔豪雄(いわくろひでお)という人物で、あの有名な中野学校を創設した、わが国きっての戦略家でした。
 
「陸軍省戦争経済研究班」は、別名「秋丸(あきまる)機関」とも呼ばれていました。その理由は、岩畔大佐の意を受けた秋丸次朗(じろう)中佐が班を率いたからです。
この秋丸中佐は、昭和七年陸軍経理学校をトップの成績で卒業し、陸軍が創設した派遣学生制度を利用して東京大学経済学部において三年間学んだ秀才です。
 
「陸軍省戦争経済研究班」に赴任した秋丸中佐は、岩畔大佐から「将来、英米を向こうに廻して大戦に突入する危惧が大である。・・・しかし、経済戦において何の施策もない。経理局を中心として、経済戦の調査研究に着手して欲しい。」と命じられます。
 
調査を進めると、彼我の国力判断の結論は悲惨そのものです。ここでは、対米英長期戦がとうてい不可能であることを十二分に説明していました。
その様な情勢下、「陸軍省戦争経済研究班」は対米英総力戦に向けて「打開策」の研究をしなければなりませんでした。そのため、わが国の最高頭脳を集め始めたのです。
 
秋丸中佐は、「陸軍省戦争経済研究班」の組織の中で最も重要な位置づけとなる英米班に、マルクス経済学者で東京大学経済学部助教授の有沢広巳(ありさわひろみ)をチーフリーダーに招きました。有沢は、単に概念をもてあそぶ類いのマルクス経済学者ではなく、統計を駆使して数字での実証を非常に重視する人物でした。更に、近代経済学に造詣が深く国際経済や世界経済にも通じていたのです。
 
帝国陸軍は、自らが国を守るために存在するという組織であることに、透徹した自覚を持っていました。秋丸中佐は、個別調査のために大学教授、企画院、外務省、文部省、鉄道省等の官僚に加え、三菱商事、日本郵船などの民間企業、日本鉄鋼連合会・電機協会などの業界団体、横浜正金銀行、勧業銀行などの金融機関、満鉄調査部を始めとする民間調査機関・研究所、同盟調査部などの精鋭達を「陸軍省戦争経済研究班」に集合させたのです。
 
「陸軍省戦争経済研究班」は、参集した経済学者たちの研究を通して、欧米によるアジア植民地支配の実態や、英米やソ連を操る国際金融資本及び国際石油資本の力などについても、十分な情報と知見を得ていました。
 
そして、膨大な収集情報を整理・分析し、約二百五十種の報告書を作成し、日本の進むべき進路に重要・重大なる情報をもたらしたのです。
 
参考動画
https://www.youtube.com/watch?v=0ukWnXhipO8
【林千勝先生⑬】英霊のために真実を知ろう!真珠湾攻撃の真相


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