善人は遠くからでもよく見える近くいても悪人見えぬ

ダンマパダ 304

遠くにいても善人は輝いて見える
ヒマラヤ山のように
近くにいても悪人は見えない
夜中に放たれた矢のように


○この詩から学ぶこと

 この詩の意味は、「善人は輝いているので、遠くのヒマラヤのようによく見える。しかし、悪人は行為を隠しているので、近くにいても、夜中に放たれた矢のようによく見えない」というものです。真実の世界ではその通りだと思います。眼が曇ってない人にはそのように見えるのです。

 しかし、私たちの世界ではどうでしょうか。よく見える(人気のある)人々は、名声があるか、富があるか、才能があるか、容姿が優れている人々です。逆によく見えない(人気のない)人々は、無名な人、貧しい人、才能がない人、容姿が優れてない人なのです。この基準は善人か悪人ではないのです。

 釈尊には、善人がよく見えるのです。悪人はよく見えません。善人に関心があって、善人を涅槃に導こうと思われていたからです。その意味で悪人には関心はなかったのです。私たちが善人がよく見えて、悪人はよく見えないという状態でないのならば、私たちが、善人、悪人に関心がないのです。

 自分のよく見える人がどのような人か知れば、自分の関心がどこにあるか分かります。例えば、お金持ちがよく見える人は、お金儲けに関心があるのです。華やかな芸能人に興味があれば、華やかな生活に興味があるのです。スポーツ選手が輝いて見えれば、スポーツの世界に興味があるのでしょう。または、ある学問の世界の有名人に興味があれば、その学問に興味があるのです。そのような人々は、善人であるか悪人であるかどうでもいいのです。

 しかし、人々が幸福になるか、不幸になるかは、善人であるか、悪人であるかで決まるのです。ですから、私たちは善人に関心を持った方がよいのです。そして最大の善人は釈尊なのです。私たちは、常に釈尊に関心を向けた方がいいのです。そして釈尊が輝いて見えるようになったら最高です。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200809/article_22.html
 遠くにいても善人見える近くにいても見えぬ悪人

○少しでもブッダの肉声に近づくために(カタカナを3回音読して下さい。)

ドゥーレー サントー パカーセンティ
Dūre     santo    pakāsenti,
遠くで   善人は   見える(輝く)
ヒマワントーワ   パッバトー
himavantova     pabbato;
ヒマラヤのように   山々
アサンテッタ   ナ  ディッサンティ
Asantettha     na   dissanti,
不善人はここで ない 見える
ラッティン キッター ヤター サラー
rattiṃ    khittā    yathā  sarā.
夜に    放たれた ように 矢の

○善人は遠くからでもよく見える近くいても悪人見えぬ

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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