21. 不放逸は不死の道だ
ダンマパダ 第2章 不放逸 21、22、23
不放逸は不死の道だ
放逸は死の道だ
不放逸の人々は死なない
放逸の人々は死んでるようだ
このことをはっきり知って
不放逸な賢者たちは
不放逸を喜び
聖なる境地を楽しむ
彼らは堅忍不抜で
常に強い努力の瞑想者である
賢者たちは束縛から離れた
最高の涅槃を体得する
〇超訳の試み
感じていること確かめて
生きていることを自覚する
自覚があれば生きている
無自覚ならば死んでいる
この違いをはっきり知って
賢者たちは自覚して
自覚を喜び
自覚の境地を楽しむ
彼らは持続する意志を持ち
常に瞑想に励み
感覚の支配を離れ
涅槃の境地を体得する
〇子供のためのダンマパダ
あなたも私もあの人も感じている
犬や猫、カラスもスズメも感じてる
感じているから生きている
感じてなければ死んでいる
生きていること
死んでいること
違いをよく知って
生きていることよく知ろう
うれしいとき、怒っているとき
悲しいとき、楽しいいとき
そのときの感じをよく知ろう
感じてるときは生きている
〇一言メモ
何年か前に出版されたスマナサーラ長老と養老猛司先生の対談本「希望のしくみ」(宝島社)の中で、「日本人は生きていない」ということが話題になっていました。その意味は、どいうことなのでしょうか?
今、その本が手元にないので、私なりに考えてみます。「生きている」とはどいうことか、スマナサーラ長老が瞑想指導の中でいつもお話しになることで、「生きているとは感じている」ということです。それは、「生きていないもの」と「生きているもの」を比較検討すればわかることです。
生きていないものは、感じていないのです。イスや机は感じていないから、生きていないのです。人間や犬や猫は感じているから生きているのです。感じる機能を心と言います。心があるもの、すなわち感じる機能があるものが生命なのです。このように、心や生命を定義できるのは仏教だけなのです。
「日本人は生きていない」はやはり比喩でしょう。日本人も犬や猫と同じようには生きていますから。しかし、肝心なことは、人間ならば犬や猫とは違って生きていること、すなわち感じていることを自覚しているべきだということです。その点で、日本人は生きていることを自覚してない。自分が感じていることを自覚してないということです。日本人は無自覚に生きていることです。
さて、この詩の説明ですが、不放逸とは、普通、怠けないこと、努力することの意味で理解されていますが、仏教では非常に大切な言葉なのです。ですから、ダンマパダの第2章全ての詩で、この不放逸について説明することになります。簡単に言えば、不放逸とは「絶えず、生きていることを自覚していること」です。別の言葉で言えば、「絶えず、感じていることを自覚していることです。」
ですから、不放逸は死んでいないのです。放逸ならば死んでいるのと同じなのです。自分が生きているという自覚は非常に充実観を感じるのです。このことを知っている賢者は、不放逸の境地を楽しむのです。
不放逸であり、生きていることを感じているとき、快感から欲が生まれ、不快から怒りが生まれ、快感でもなく不快でもないとき無関心が生まれることがわかります。そのことがわかれば、欲や怒りや無関心を避け、なくすことができるのです。不放逸は道徳の実践には欠かせないことなのです。そして、不放逸によって涅槃に到達できるのです。
〇スマナサーラ長老のこの詩に関する説法
「いまの瞬間」 ~思い出が心を汚し、空想が心を乱す~
http://www.j-theravada.net/howa/howa10.html
〇前回の「この詩から学ぶこと」
不放逸死なない道だ放逸は生きていながら死んでるようだ
http://76263383.at.webry.info/200901/article_10.html
〇パーリ語原文
21.
アッパマード アマタパダン
Appamādo amatapadaṃ,
不放逸は 不死の道
パマード マッチュノー パダン
pamādo maccuno padaṃ;
放逸は 死の 道
アパマッター ナ ミーヤンティ
Appamattā na mīyanti,
不放逸の人は ない 死な
イェー パマッター ヤター マター
ye pamattā yathā matā.
人は 放逸の人 如く 死の
22.
エワン ウィセーサトー ニャトゥワー
Evaṃ visesato ñatvā,
これを 明らかに 知って
アッパマーダンヒ パンディター
appamādamhi paṇḍitā;
不放逸において 賢者達は
アッパマーデー パモダンティ
Appamāde pamodanti,
不放逸を 喜ぶ
アリヤーナン ゴーチャレー ラター
ariyānaṃ gocare ratā.
聖なる 境地を 喜ぶ
23.
テー ジャーイノー サータティカー
Te jhāyino sātatikā,
彼らは 瞑想して 堅忍し
ニッチャン ダルハパラッカマー
niccaṃ daḷhaparakkamā;
常に 強い 努力し
プサンティ ディーラー ニッバーナン
Phusanti dhīrā nibbānaṃ,
触れる 賢者達は 涅槃に
ヨーガッケーマン アヌッタラン
yogakkhemaṃ anuttaraṃ.
絆から離れた安穏な 最高の
〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp15-23.pdf
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~
◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。
不放逸は不死の道だ
放逸は死の道だ
不放逸の人々は死なない
放逸の人々は死んでるようだ
このことをはっきり知って
不放逸な賢者たちは
不放逸を喜び
聖なる境地を楽しむ
彼らは堅忍不抜で
常に強い努力の瞑想者である
賢者たちは束縛から離れた
最高の涅槃を体得する
〇超訳の試み
感じていること確かめて
生きていることを自覚する
自覚があれば生きている
無自覚ならば死んでいる
この違いをはっきり知って
賢者たちは自覚して
自覚を喜び
自覚の境地を楽しむ
彼らは持続する意志を持ち
常に瞑想に励み
感覚の支配を離れ
涅槃の境地を体得する
〇子供のためのダンマパダ
あなたも私もあの人も感じている
犬や猫、カラスもスズメも感じてる
感じているから生きている
感じてなければ死んでいる
生きていること
死んでいること
違いをよく知って
生きていることよく知ろう
うれしいとき、怒っているとき
悲しいとき、楽しいいとき
そのときの感じをよく知ろう
感じてるときは生きている
〇一言メモ
何年か前に出版されたスマナサーラ長老と養老猛司先生の対談本「希望のしくみ」(宝島社)の中で、「日本人は生きていない」ということが話題になっていました。その意味は、どいうことなのでしょうか?
今、その本が手元にないので、私なりに考えてみます。「生きている」とはどいうことか、スマナサーラ長老が瞑想指導の中でいつもお話しになることで、「生きているとは感じている」ということです。それは、「生きていないもの」と「生きているもの」を比較検討すればわかることです。
生きていないものは、感じていないのです。イスや机は感じていないから、生きていないのです。人間や犬や猫は感じているから生きているのです。感じる機能を心と言います。心があるもの、すなわち感じる機能があるものが生命なのです。このように、心や生命を定義できるのは仏教だけなのです。
「日本人は生きていない」はやはり比喩でしょう。日本人も犬や猫と同じようには生きていますから。しかし、肝心なことは、人間ならば犬や猫とは違って生きていること、すなわち感じていることを自覚しているべきだということです。その点で、日本人は生きていることを自覚してない。自分が感じていることを自覚してないということです。日本人は無自覚に生きていることです。
さて、この詩の説明ですが、不放逸とは、普通、怠けないこと、努力することの意味で理解されていますが、仏教では非常に大切な言葉なのです。ですから、ダンマパダの第2章全ての詩で、この不放逸について説明することになります。簡単に言えば、不放逸とは「絶えず、生きていることを自覚していること」です。別の言葉で言えば、「絶えず、感じていることを自覚していることです。」
ですから、不放逸は死んでいないのです。放逸ならば死んでいるのと同じなのです。自分が生きているという自覚は非常に充実観を感じるのです。このことを知っている賢者は、不放逸の境地を楽しむのです。
不放逸であり、生きていることを感じているとき、快感から欲が生まれ、不快から怒りが生まれ、快感でもなく不快でもないとき無関心が生まれることがわかります。そのことがわかれば、欲や怒りや無関心を避け、なくすことができるのです。不放逸は道徳の実践には欠かせないことなのです。そして、不放逸によって涅槃に到達できるのです。
〇スマナサーラ長老のこの詩に関する説法
「いまの瞬間」 ~思い出が心を汚し、空想が心を乱す~
http://www.j-theravada.net/howa/howa10.html
〇前回の「この詩から学ぶこと」
不放逸死なない道だ放逸は生きていながら死んでるようだ
http://76263383.at.webry.info/200901/article_10.html
〇パーリ語原文
21.
アッパマード アマタパダン
Appamādo amatapadaṃ,
不放逸は 不死の道
パマード マッチュノー パダン
pamādo maccuno padaṃ;
放逸は 死の 道
アパマッター ナ ミーヤンティ
Appamattā na mīyanti,
不放逸の人は ない 死な
イェー パマッター ヤター マター
ye pamattā yathā matā.
人は 放逸の人 如く 死の
22.
エワン ウィセーサトー ニャトゥワー
Evaṃ visesato ñatvā,
これを 明らかに 知って
アッパマーダンヒ パンディター
appamādamhi paṇḍitā;
不放逸において 賢者達は
アッパマーデー パモダンティ
Appamāde pamodanti,
不放逸を 喜ぶ
アリヤーナン ゴーチャレー ラター
ariyānaṃ gocare ratā.
聖なる 境地を 喜ぶ
23.
テー ジャーイノー サータティカー
Te jhāyino sātatikā,
彼らは 瞑想して 堅忍し
ニッチャン ダルハパラッカマー
niccaṃ daḷhaparakkamā;
常に 強い 努力し
プサンティ ディーラー ニッバーナン
Phusanti dhīrā nibbānaṃ,
触れる 賢者達は 涅槃に
ヨーガッケーマン アヌッタラン
yogakkhemaṃ anuttaraṃ.
絆から離れた安穏な 最高の
〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp15-23.pdf
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~
◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。
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