111.智慧があり瞑想して一日生きる方が優っている
ダンマパダ 第8 千の章 111
ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブダッサ
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します
智慧を欠いて、静まらず
百年生きながらえるより
智慧をそなえ、禅を行い
一日生きる方がまさる
(片山一良先生 訳)
○超訳の試み
智慧がなく、落ち着きなく
百年生きるよりも
智慧があり、瞑想して
一日生きる方が優っている
○子供のためのダンマパダ
智慧があり安心満足して一日生きるのと
智慧がなく不平不満で百年生きるのと
どちらが幸せな生き方でしょうか?
私は前者だと思いますね

○一口メモ
今回の111番のテーマは「 戒、定、慧」の「定と 慧」です。定は110番と同じですが、 慧すなわち智慧がこの詩の特別な言葉になるのです。ですから智慧の説明をしなければいけません。しかし、私は智慧を開発中ですから、正解レポートは書けません。そのため、スマナサーラ長老が「智慧」についていろいろな所で、いろいろな切り口で述べらていますのでそちらを勉強してほしいのです。日本テーラワーダ仏教協会のホームページで「智慧」を検索すれば、そこから学べます。件数が多いですから、「心を育てるキーワード」の「浄心所」の「智慧の心所」を先ずお読みなればよいでしょう。アドレス:http://www.j-theravada.net/pali/key-sobana.html#sobana-7
書籍では、「心の中はどうなっていつの?」(サンガ新書)p186~p188、「ブッダの実践心理学第三巻心所(心の中身)の分析」(サンガ)p213~p217を学ぶのがよいでしょう。
これでは、あまり人に頼りすぎますので、少しだけ智慧について私が今考えていることを述べてみます。
煩悩を貪、瞋、痴という仏教用語で表現しますが、私は欲、怒り、無知という言葉を使っています。その時、欲と怒りは問題ないのですが、無知という言葉にいつも違和感を感じているのです。無知とは何か知らないという意味、知識がないということです。しかし、この場合の無知は智慧がないということであり、知識がないということではないのです。ですから、無知という訳語では適当ではないのです。
また、欲や怒りが心に現れないように注意するという表現はありますが、心から無知を除くなどと言う表現も適当ではありません。最近、仏教書をたくさん出している、ゴータミー精舎で私達に食事のお布施などをして下さいました小池龍之介師は、「迷い」という言葉を使っていますが、痴を表現しているのだと思います。
貪、瞋、痴の反対は不貪、不瞋、不痴です。貪、瞋、痴は私たちが経験している心ですが、不貪、不瞋、不痴はほとんど経験したことのない心の状態です。特に、不痴=智慧なのです。智慧があるとは一切がありのままに見える状態なのです。智慧がないとはありのままに見えない状態ですから、痴とは見る能力を邪魔するものでしょう。そこで、私は最近、痴とは心の濁りと表現していいのでないかと考えています。無知をなくすと表現するよりは、濁りをなくすと表現した方がよいのではないかと思っています。
心から濁りをなくせば、心は明るくなり、すべてがありのままに見えるようになるのです。その時、智慧が現れたというのではないと思っています。濁りとは何か、少し丁寧に観察する必要がありますが、主観は濁りです。妄想は濁りです。邪見は濁りです。そのほかいろいろな濁りがあるでしょう。
それでは、智慧とは何か?心の濁りが取れて、一切がありのままに見ることのできる心の状態ということになります。それが今の私の結論です。ご批判は是非コメント欄にお願い致します。現在では、たぶんそれに対する反論はしないと思います。できないと言ったほうがいいのかもしれません。
以上のように書くと、心は本来清浄なものだ。だから今のままの心でいいのだというような見解があると思いますが、今のありのままの心は濁りで汚れているのです。ですから心は清浄にしなくては、智慧は機能しないのでということを付け加えておきたいと思います。
○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法
「怖がるものは武器を持つ」 ~空虚な勇気より、自信がない方が健全~
http://www.j-theravada.net/howa/howa41.html
○前回の「この詩から学ぶこと」
智慧なく愚かに百年生きるより智慧持ち一日生きよ
http://76263383.at.webry.info/200903/article_20.html
○パーリ語原文
111.
ヨー チャ ワッササタン ジーウェー
Yo ca vassasataṃ jīve,
人が 又 百年 生きる
ドゥッパンニョー アサマーヒトー
duppañño asamāhito;
智慧なく 心の統一なく
エーカーハン ジーウィタン セッヨー
Ekāhaṃ jīvitaṃ seyyo,
一日の 命が より優れている
パンニャワンタッサ ジャーイノー
paññavantassa jhāyino.
智慧を備えて 禅定のある人の
○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。関係者のみなさま大変ありがとうございます。尚、このまとめは現在ネット上にはアップされておりません。広く皆様にも活用できますように、ネット上に掲載して頂けるようにお願いしております。
〇慈悲の瞑想
~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~
~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~
~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~
(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)
◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。
ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブダッサ
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します
智慧を欠いて、静まらず
百年生きながらえるより
智慧をそなえ、禅を行い
一日生きる方がまさる
(片山一良先生 訳)
○超訳の試み
智慧がなく、落ち着きなく
百年生きるよりも
智慧があり、瞑想して
一日生きる方が優っている
○子供のためのダンマパダ
智慧があり安心満足して一日生きるのと
智慧がなく不平不満で百年生きるのと
どちらが幸せな生き方でしょうか?
私は前者だと思いますね

○一口メモ
今回の111番のテーマは「 戒、定、慧」の「定と 慧」です。定は110番と同じですが、 慧すなわち智慧がこの詩の特別な言葉になるのです。ですから智慧の説明をしなければいけません。しかし、私は智慧を開発中ですから、正解レポートは書けません。そのため、スマナサーラ長老が「智慧」についていろいろな所で、いろいろな切り口で述べらていますのでそちらを勉強してほしいのです。日本テーラワーダ仏教協会のホームページで「智慧」を検索すれば、そこから学べます。件数が多いですから、「心を育てるキーワード」の「浄心所」の「智慧の心所」を先ずお読みなればよいでしょう。アドレス:http://www.j-theravada.net/pali/key-sobana.html#sobana-7
書籍では、「心の中はどうなっていつの?」(サンガ新書)p186~p188、「ブッダの実践心理学第三巻心所(心の中身)の分析」(サンガ)p213~p217を学ぶのがよいでしょう。
これでは、あまり人に頼りすぎますので、少しだけ智慧について私が今考えていることを述べてみます。
煩悩を貪、瞋、痴という仏教用語で表現しますが、私は欲、怒り、無知という言葉を使っています。その時、欲と怒りは問題ないのですが、無知という言葉にいつも違和感を感じているのです。無知とは何か知らないという意味、知識がないということです。しかし、この場合の無知は智慧がないということであり、知識がないということではないのです。ですから、無知という訳語では適当ではないのです。
また、欲や怒りが心に現れないように注意するという表現はありますが、心から無知を除くなどと言う表現も適当ではありません。最近、仏教書をたくさん出している、ゴータミー精舎で私達に食事のお布施などをして下さいました小池龍之介師は、「迷い」という言葉を使っていますが、痴を表現しているのだと思います。
貪、瞋、痴の反対は不貪、不瞋、不痴です。貪、瞋、痴は私たちが経験している心ですが、不貪、不瞋、不痴はほとんど経験したことのない心の状態です。特に、不痴=智慧なのです。智慧があるとは一切がありのままに見える状態なのです。智慧がないとはありのままに見えない状態ですから、痴とは見る能力を邪魔するものでしょう。そこで、私は最近、痴とは心の濁りと表現していいのでないかと考えています。無知をなくすと表現するよりは、濁りをなくすと表現した方がよいのではないかと思っています。
心から濁りをなくせば、心は明るくなり、すべてがありのままに見えるようになるのです。その時、智慧が現れたというのではないと思っています。濁りとは何か、少し丁寧に観察する必要がありますが、主観は濁りです。妄想は濁りです。邪見は濁りです。そのほかいろいろな濁りがあるでしょう。
それでは、智慧とは何か?心の濁りが取れて、一切がありのままに見ることのできる心の状態ということになります。それが今の私の結論です。ご批判は是非コメント欄にお願い致します。現在では、たぶんそれに対する反論はしないと思います。できないと言ったほうがいいのかもしれません。
以上のように書くと、心は本来清浄なものだ。だから今のままの心でいいのだというような見解があると思いますが、今のありのままの心は濁りで汚れているのです。ですから心は清浄にしなくては、智慧は機能しないのでということを付け加えておきたいと思います。
○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法
「怖がるものは武器を持つ」 ~空虚な勇気より、自信がない方が健全~
http://www.j-theravada.net/howa/howa41.html
○前回の「この詩から学ぶこと」
智慧なく愚かに百年生きるより智慧持ち一日生きよ
http://76263383.at.webry.info/200903/article_20.html
○パーリ語原文
111.
ヨー チャ ワッササタン ジーウェー
Yo ca vassasataṃ jīve,
人が 又 百年 生きる
ドゥッパンニョー アサマーヒトー
duppañño asamāhito;
智慧なく 心の統一なく
エーカーハン ジーウィタン セッヨー
Ekāhaṃ jīvitaṃ seyyo,
一日の 命が より優れている
パンニャワンタッサ ジャーイノー
paññavantassa jhāyino.
智慧を備えて 禅定のある人の
○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。関係者のみなさま大変ありがとうございます。尚、このまとめは現在ネット上にはアップされておりません。広く皆様にも活用できますように、ネット上に掲載して頂けるようにお願いしております。
〇慈悲の瞑想
~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~
~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~
~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~
(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)
◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。
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