渇愛に 捕まった人は 震えてる 震えながらも 苦悩続ける(342)及び(343)
○子供のためのダンマパダ。
・・・
うさぎさんは、
いつも震えているよ。
何かが怖いんだね
だからいじめちゃだめだよ。
・・・
うさぎさんは、
いつも震えているよ。
何かが怖いんだね
だから優しくしようね。
○パーリ語原文と訳語
342.
タスィナーヤ プラッカター パジャー
Tasiṇāya purakkhatā pajā,
渇愛によって 駆り立てられた 人々は
パリサッパンティ サソーワ バンディトー
parisappanti sasova bandhito ;
ばたばたする 兎のように 捕まった
サンヨージャナサンガサッタカー
Saṃyojanasaṅgasattakā,
束縛に執着する衆生は
ドゥッカムペンティ プナップナン チラーヤ
dukkhamupenti punappunaṃ cirāya.
苦に近づく 何度も 久しく
343.
タスィナーヤ プラッカター パジャー
Tasiṇāya purakkhatā pajā,
渇愛によって 駆り立てられた 人々は
パリサッパンティ サソーワ バンディトー
parisappanti sasova bandhito;
ばたばたする 兎のように 捕まった
タスマー タスィナン ウィノーダイェー
Tasmā tasiṇaṃ vinodaye,
それ故に 渇愛を 除去せよ
ビック アーカンカ ウィラーガマッタノー
bhikkhu ākaṅkha virāgamattano.
比丘は 願う 離貪を 自己の
○直訳
渇愛によって駆り立てられた人々は
捕まった兎のようにばたばたする
束縛に執着する衆生は
久しく何度も苦に近づく(342)
渇愛によって駆り立てられた人々は
捕まった兎のようにばたばたする
それ故に渇愛を除去せよ
自己の離貪を願う比丘は(343)
○意訳
渇愛に捕まった人々は
わなかかった兎のように震えてる
束縛に執着する衆生は
なんどもなんども苦に到る(342)
渇愛に捕まった人々は
わなにかかった兎のように震えてる
それ故に渇愛を除去しなさい
比丘は自分の離貪を望んで(343)
○一口メモ
ある方から、339番の詩について次のような質問がありましたので、皆さんの参考になると思いますので、その回答をここに紹介いたします。
質問:「339番の三十六種類に渇愛の解説ですが、目と色にも愛欲、有愛、無有愛の三通りずつの渇愛が生ずるということですが、目の愛欲とは、目でみて気持ちいい、心地よいと思う気持ち、目の有愛とは綺麗な地球を目でみて、まだ生きたいと思う気持ち。目の無有愛とは目で綺麗な絵をみて、破壊したくなる気持ちでいいでしょうか?逆に色にも三通りずつの渇愛が生ずると有りますが、例えばどんなものでしょうか?よくわかりません、具体例を示して頂ければわかるとおもいます。なかなか想像ができません。説明よろしくお願いします。」
回答:「渇愛には三種類あります。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触、五欲に対する渇愛(欲しい欲しいという思い)
2.有愛 : 生存に対する渇愛(生きたいという思い)
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)
眼において上記の三種類の渇愛があります。同様に、鼻、耳、舌、身、意にそれぞれ三種類ありますから十八種類の渇愛があります。渇愛の対象としての色、声、香、味、触、法でも渇愛が分類されますから、ここでも十八種類の渇愛があります。」と説明しました。
ここで、「無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)」が少し分かりにくいのです。破壊したいという気持ちでもありますが、これで死んでもよいという気持ちです。死んだらすべてが終わりという気持ち、もちろん輪廻はないという邪見に基づくものです。
眼が物を見た時、眼に渇愛が現れます。その時三種類の渇愛があります。眼が見た対象(物)に渇愛が現れます。その物に関して三種類の渇愛があります。質問者の例で言えば、綺麗な地球、綺麗な絵です。地球、絵を見たい。地球、絵をもっと見たいからもっと生きたい。地球、絵を見たから死んでもよいとなります。声については、この歌を聞きたい。この歌を聞きたいからもっと生きたい。この歌を聞いたら死んでもいい。以下同様です。
さて、今回の詩について説明します。
昨日引用した詩のなかでは、次の詩が今回の詩と趣旨は同じです。
渇愛から憂いが生まれ、渇愛から恐れが生まれる
渇愛から離れた人には憂いがない、どうして恐れがあろうか(216)
渇愛から恐怖が生まれるということです。
なぜ、渇愛から恐怖が生まれるのでしょうか?
それは始めの質問の回答で述べたように三種類の渇愛から理解できるのです。
渇愛があれば、欲しいという気持ちが生まれ、それが手に入らなければ嫌なのです。渇愛が強くなり、執着となれば、手に入らないことは恐怖になるのです。例えば食べ物が手に入らなければ、死につながります。欲しいものが手に入らないことは死のイメージがあるのです。
またどうしても生きたいという渇愛にとって、死はいつも存在する考えです。ですから渇愛は恐怖なのです。死の思いに苦しめられるのです。
死んでもよいということは、実は死にたくないという思いと固く結び付いています。死んでもよいは死にたくないの一つの表現なのです。いずれにせよ、これらの思いは死と結び付いた恐怖なのです。恐怖の本質は死であることが分かれば、死にたくないという渇愛から恐怖が生まれることが分かると思います。逆に渇愛から離れた人には恐怖は生まれないのです。渇愛から離れると執着がなくなります。すべての執着がなくなった人、覚った人には恐怖はありません。
日常生活の中では、猛獣に遭遇したような恐怖はあまり感じないかもしれませんが、私たちはいつも不安で安心できません。何か心配ごとがあります。これらも小さな恐怖なのです。これらはすべて渇愛から生まれているのだということを忘れてはいけません。ですから、渇愛から離れること、渇愛を捨てることが大切なのです。
渇愛を捨てる方法は八正道の実践ですとブッダは教えておられます。
渇愛に 捕まった人は 震えてる 震えながらも 苦悩続ける (342)
渇愛に 捕まった人は 震えてる 渇愛捨てて 苦悩を止めよ (343)
○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法
この御説法は日本テーラワーダ仏教協会のHPにアップされていません。
2012年5月号のパティパダーの巻頭言に掲載されています。
○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
*338~343.渇愛に捕まった人々はわなにかかったの兎ように震えてる
http://76263383.at.webry.info/201006/article_29.html
342.343.渇愛に捕まった人は震えてる、震えているから苦悩が続く
http://76263383.at.webry.info/200908/article_27.html
342.343. 渇愛に捕まった人は震えてる わなにかかった兎のように
http://76263383.at.webry.info/200810/article_18.html
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~お知らせ~~~~~
◎1月12日(土)月例講演会があるため、夜の自主瞑想会はお休みします。
◎1月18日(金)の夜、1月19日朝及び夜の自主瞑想会はお休みします。
ワンギーサがマーヤーデーヴィー精舎における新年祝福法要に参加するためです。
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。
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うさぎさんは、
いつも震えているよ。
何かが怖いんだね
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うさぎさんは、
いつも震えているよ。
何かが怖いんだね
だから優しくしようね。
○パーリ語原文と訳語
342.
タスィナーヤ プラッカター パジャー
Tasiṇāya purakkhatā pajā,
渇愛によって 駆り立てられた 人々は
パリサッパンティ サソーワ バンディトー
parisappanti sasova bandhito ;
ばたばたする 兎のように 捕まった
サンヨージャナサンガサッタカー
Saṃyojanasaṅgasattakā,
束縛に執着する衆生は
ドゥッカムペンティ プナップナン チラーヤ
dukkhamupenti punappunaṃ cirāya.
苦に近づく 何度も 久しく
343.
タスィナーヤ プラッカター パジャー
Tasiṇāya purakkhatā pajā,
渇愛によって 駆り立てられた 人々は
パリサッパンティ サソーワ バンディトー
parisappanti sasova bandhito;
ばたばたする 兎のように 捕まった
タスマー タスィナン ウィノーダイェー
Tasmā tasiṇaṃ vinodaye,
それ故に 渇愛を 除去せよ
ビック アーカンカ ウィラーガマッタノー
bhikkhu ākaṅkha virāgamattano.
比丘は 願う 離貪を 自己の
○直訳
渇愛によって駆り立てられた人々は
捕まった兎のようにばたばたする
束縛に執着する衆生は
久しく何度も苦に近づく(342)
渇愛によって駆り立てられた人々は
捕まった兎のようにばたばたする
それ故に渇愛を除去せよ
自己の離貪を願う比丘は(343)
○意訳
渇愛に捕まった人々は
わなかかった兎のように震えてる
束縛に執着する衆生は
なんどもなんども苦に到る(342)
渇愛に捕まった人々は
わなにかかった兎のように震えてる
それ故に渇愛を除去しなさい
比丘は自分の離貪を望んで(343)
○一口メモ
ある方から、339番の詩について次のような質問がありましたので、皆さんの参考になると思いますので、その回答をここに紹介いたします。
質問:「339番の三十六種類に渇愛の解説ですが、目と色にも愛欲、有愛、無有愛の三通りずつの渇愛が生ずるということですが、目の愛欲とは、目でみて気持ちいい、心地よいと思う気持ち、目の有愛とは綺麗な地球を目でみて、まだ生きたいと思う気持ち。目の無有愛とは目で綺麗な絵をみて、破壊したくなる気持ちでいいでしょうか?逆に色にも三通りずつの渇愛が生ずると有りますが、例えばどんなものでしょうか?よくわかりません、具体例を示して頂ければわかるとおもいます。なかなか想像ができません。説明よろしくお願いします。」
回答:「渇愛には三種類あります。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触、五欲に対する渇愛(欲しい欲しいという思い)
2.有愛 : 生存に対する渇愛(生きたいという思い)
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)
眼において上記の三種類の渇愛があります。同様に、鼻、耳、舌、身、意にそれぞれ三種類ありますから十八種類の渇愛があります。渇愛の対象としての色、声、香、味、触、法でも渇愛が分類されますから、ここでも十八種類の渇愛があります。」と説明しました。
ここで、「無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)」が少し分かりにくいのです。破壊したいという気持ちでもありますが、これで死んでもよいという気持ちです。死んだらすべてが終わりという気持ち、もちろん輪廻はないという邪見に基づくものです。
眼が物を見た時、眼に渇愛が現れます。その時三種類の渇愛があります。眼が見た対象(物)に渇愛が現れます。その物に関して三種類の渇愛があります。質問者の例で言えば、綺麗な地球、綺麗な絵です。地球、絵を見たい。地球、絵をもっと見たいからもっと生きたい。地球、絵を見たから死んでもよいとなります。声については、この歌を聞きたい。この歌を聞きたいからもっと生きたい。この歌を聞いたら死んでもいい。以下同様です。
さて、今回の詩について説明します。
昨日引用した詩のなかでは、次の詩が今回の詩と趣旨は同じです。
渇愛から憂いが生まれ、渇愛から恐れが生まれる
渇愛から離れた人には憂いがない、どうして恐れがあろうか(216)
渇愛から恐怖が生まれるということです。
なぜ、渇愛から恐怖が生まれるのでしょうか?
それは始めの質問の回答で述べたように三種類の渇愛から理解できるのです。
渇愛があれば、欲しいという気持ちが生まれ、それが手に入らなければ嫌なのです。渇愛が強くなり、執着となれば、手に入らないことは恐怖になるのです。例えば食べ物が手に入らなければ、死につながります。欲しいものが手に入らないことは死のイメージがあるのです。
またどうしても生きたいという渇愛にとって、死はいつも存在する考えです。ですから渇愛は恐怖なのです。死の思いに苦しめられるのです。
死んでもよいということは、実は死にたくないという思いと固く結び付いています。死んでもよいは死にたくないの一つの表現なのです。いずれにせよ、これらの思いは死と結び付いた恐怖なのです。恐怖の本質は死であることが分かれば、死にたくないという渇愛から恐怖が生まれることが分かると思います。逆に渇愛から離れた人には恐怖は生まれないのです。渇愛から離れると執着がなくなります。すべての執着がなくなった人、覚った人には恐怖はありません。
日常生活の中では、猛獣に遭遇したような恐怖はあまり感じないかもしれませんが、私たちはいつも不安で安心できません。何か心配ごとがあります。これらも小さな恐怖なのです。これらはすべて渇愛から生まれているのだということを忘れてはいけません。ですから、渇愛から離れること、渇愛を捨てることが大切なのです。
渇愛を捨てる方法は八正道の実践ですとブッダは教えておられます。
渇愛に 捕まった人は 震えてる 震えながらも 苦悩続ける (342)
渇愛に 捕まった人は 震えてる 渇愛捨てて 苦悩を止めよ (343)
○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法
この御説法は日本テーラワーダ仏教協会のHPにアップされていません。
2012年5月号のパティパダーの巻頭言に掲載されています。
○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
*338~343.渇愛に捕まった人々はわなにかかったの兎ように震えてる
http://76263383.at.webry.info/201006/article_29.html
342.343.渇愛に捕まった人は震えてる、震えているから苦悩が続く
http://76263383.at.webry.info/200908/article_27.html
342.343. 渇愛に捕まった人は震えてる わなにかかった兎のように
http://76263383.at.webry.info/200810/article_18.html
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~お知らせ~~~~~
◎1月12日(土)月例講演会があるため、夜の自主瞑想会はお休みします。
◎1月18日(金)の夜、1月19日朝及び夜の自主瞑想会はお休みします。
ワンギーサがマーヤーデーヴィー精舎における新年祝福法要に参加するためです。
◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。
朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。
但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。
変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。
詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
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