信仰を 解き放つべし ピンギヤよ 死の領域の 彼岸に行ける<1146>
○少年少女のためのスッタニパータ<1146>
・・・
信じることは大切です。
しかし、よく理解して信じるのです。
盲信は危険です。
盲信は怠けものすることです。
第5 彼岸に到る道の章 18.彼岸に到る道の結語 23.(16)
○中村元先生訳
1146
(師ブッダが現れていった)、
「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが
信仰を捨て去ったように、
そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
○正田大観先生訳
1153.(1146)
〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕
「ヴァッカリ(人名)、バドラーヴダ(人名)、アーラヴィ・ゴータマ(人名)と、
解き放たれた信ある者が〔そう〕有ったように、
まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放ちなさい(信仰を依存の対象にしてはならない)。
ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」〔と〕。(16)
○パーリ語原文
1152.
ヤター アフー ワッカリ ムッタサッドー
‘‘Yathā ahū vakkali muttasaddho,
ように あった ヴァッカリ 解放された信者で
バドゥラーウドー アーラウィ ゴータモー チャ
bhadrāvudho āḷavi gotamo ca;
バドラーヴダ アーラヴィ ゴータマ と
エーワメーワ トゥワンピ パムンチャッス サッダン
Evameva tvampi pamuñcassu saddhaṃ,
まさしくこのように あなたも 解放しなさい 信仰を
ガミッサスィ トゥワン ピンギヤ マッチュデッヤッサ パーラン
Gamissasi tvaṃ piṅgiya maccudheyyassa pāraṃ’’.
行くでしょう あなたは ピンギヤよ 死の領域の 彼岸に
○一口メモ
中村、正田両先生がその訳の始めに捕捉して説明されているように、ブッダがピンギヤさんと彼の師匠であるバーヴァリ・バラモンの前に現れ、この偈を唱えたのです。
始めにこの偈に述べられた人名について説明します。ヴァッカリについて。「尊者ヴァッカリは王舎城の陶工の家に住し、病苦に悩んでいた。時に彼の願いによって世尊は彼を見舞い、『法(真理)を見る者は私を見る。私を見る者は法を見る。』といい、色受想行識の無常・苦なることを教える。その後、彼を見舞った比丘たちに向って、「世尊に礼拝し、色受想行識の無常・苦なること、それに対して自ら欲なく執着のないことを疑わない」ということを、世尊への伝言として述べてから、刀を取って自殺したという。」(南伝十四、188~195頁。或は、春秋社の原始仏典Ⅱ相応部第三巻217~227頁)
バドラーヴダについて。バーヴァリ・バラモンの弟子の一人で、十二番目の質問者です。しかし、彼の信については何も述べられていません。アーラヴィ・ゴータマについては、ここ以外には何も分からないと注釈書に述べられています。
この偈の訳で問題になる所があります。muttasaddho及びpamuñcassu saddhaṃの訳であります。中村先生はそれぞれ、「信仰を捨て去った」「信仰を捨て去れ」と訳されています。
正田先生はそれぞれ「解き放たれた信ある者」「信を解き放ちなさい(信仰を依存の対象にしてはならない)」と訳されています。
ところが、注釈書では、「信を寄せていた」「信を寄せよ」と訳されています。また、宮坂宥勝訳「ブッダの教え」(法蔵館)では「信仰を起こした」「信仰を起こすがよい」となっています。
表面的に読めば、中村訳と注釈書及び宮坂訳では反対の意味になります。正田訳は直訳で、その中間と見て良いでしょう。私の解釈では中村先生は、いわゆる信仰の問題点を強調する意味で「信仰を捨て去れ」と訳されたのだと思います。しかし、伝統的な注釈書では、信仰はブッダもその重要性をたびたび強調されておりますので、「信仰を捨て去れ」とは訳すわけには行かなかったのだと思います。私自身は真の信仰は解脱するためにはどうしても必要なことだと考えています。
信仰を 解き放つべし ピンギヤよ 死の領域の 彼岸に行ける<1146>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎あと3日で、スッタニパータのすべて偈の掲載が終了します。そのため、今後このブログをどのようにするのか考慮中です。ここでブログを終了するか。あるいは、何人かの皆さんには毎日読んで頂いていますので、何等の形でこのブログを継続するか。継続するとすればどのように継続するのか。スッタニパータの始めから復習するか。またはダンマパダの始めの偈から学びなおすか。ブッダの教えの大切なところは、この二つの経典に述べられていると思いますので、あまり手を広げて、他の経典について探索しようとは考えていません。
つきましは、皆さまの御意見、御要望をお伺いいたしたいと思っています。遠慮なく、お考えをコメント欄に投稿して下さい。その他今までの記事についての御感想もお聞かせ下さい。
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。ランキングが上昇すると閲覧者が増えると思われるからです。御支援をお願い致します。
・・・
信じることは大切です。
しかし、よく理解して信じるのです。
盲信は危険です。
盲信は怠けものすることです。
第5 彼岸に到る道の章 18.彼岸に到る道の結語 23.(16)
○中村元先生訳
1146
(師ブッダが現れていった)、
「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが
信仰を捨て去ったように、
そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
○正田大観先生訳
1153.(1146)
〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕
「ヴァッカリ(人名)、バドラーヴダ(人名)、アーラヴィ・ゴータマ(人名)と、
解き放たれた信ある者が〔そう〕有ったように、
まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放ちなさい(信仰を依存の対象にしてはならない)。
ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」〔と〕。(16)
○パーリ語原文
1152.
ヤター アフー ワッカリ ムッタサッドー
‘‘Yathā ahū vakkali muttasaddho,
ように あった ヴァッカリ 解放された信者で
バドゥラーウドー アーラウィ ゴータモー チャ
bhadrāvudho āḷavi gotamo ca;
バドラーヴダ アーラヴィ ゴータマ と
エーワメーワ トゥワンピ パムンチャッス サッダン
Evameva tvampi pamuñcassu saddhaṃ,
まさしくこのように あなたも 解放しなさい 信仰を
ガミッサスィ トゥワン ピンギヤ マッチュデッヤッサ パーラン
Gamissasi tvaṃ piṅgiya maccudheyyassa pāraṃ’’.
行くでしょう あなたは ピンギヤよ 死の領域の 彼岸に
○一口メモ
中村、正田両先生がその訳の始めに捕捉して説明されているように、ブッダがピンギヤさんと彼の師匠であるバーヴァリ・バラモンの前に現れ、この偈を唱えたのです。
始めにこの偈に述べられた人名について説明します。ヴァッカリについて。「尊者ヴァッカリは王舎城の陶工の家に住し、病苦に悩んでいた。時に彼の願いによって世尊は彼を見舞い、『法(真理)を見る者は私を見る。私を見る者は法を見る。』といい、色受想行識の無常・苦なることを教える。その後、彼を見舞った比丘たちに向って、「世尊に礼拝し、色受想行識の無常・苦なること、それに対して自ら欲なく執着のないことを疑わない」ということを、世尊への伝言として述べてから、刀を取って自殺したという。」(南伝十四、188~195頁。或は、春秋社の原始仏典Ⅱ相応部第三巻217~227頁)
バドラーヴダについて。バーヴァリ・バラモンの弟子の一人で、十二番目の質問者です。しかし、彼の信については何も述べられていません。アーラヴィ・ゴータマについては、ここ以外には何も分からないと注釈書に述べられています。
この偈の訳で問題になる所があります。muttasaddho及びpamuñcassu saddhaṃの訳であります。中村先生はそれぞれ、「信仰を捨て去った」「信仰を捨て去れ」と訳されています。
正田先生はそれぞれ「解き放たれた信ある者」「信を解き放ちなさい(信仰を依存の対象にしてはならない)」と訳されています。
ところが、注釈書では、「信を寄せていた」「信を寄せよ」と訳されています。また、宮坂宥勝訳「ブッダの教え」(法蔵館)では「信仰を起こした」「信仰を起こすがよい」となっています。
表面的に読めば、中村訳と注釈書及び宮坂訳では反対の意味になります。正田訳は直訳で、その中間と見て良いでしょう。私の解釈では中村先生は、いわゆる信仰の問題点を強調する意味で「信仰を捨て去れ」と訳されたのだと思います。しかし、伝統的な注釈書では、信仰はブッダもその重要性をたびたび強調されておりますので、「信仰を捨て去れ」とは訳すわけには行かなかったのだと思います。私自身は真の信仰は解脱するためにはどうしても必要なことだと考えています。
信仰を 解き放つべし ピンギヤよ 死の領域の 彼岸に行ける<1146>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎あと3日で、スッタニパータのすべて偈の掲載が終了します。そのため、今後このブログをどのようにするのか考慮中です。ここでブログを終了するか。あるいは、何人かの皆さんには毎日読んで頂いていますので、何等の形でこのブログを継続するか。継続するとすればどのように継続するのか。スッタニパータの始めから復習するか。またはダンマパダの始めの偈から学びなおすか。ブッダの教えの大切なところは、この二つの経典に述べられていると思いますので、あまり手を広げて、他の経典について探索しようとは考えていません。
つきましは、皆さまの御意見、御要望をお伺いいたしたいと思っています。遠慮なく、お考えをコメント欄に投稿して下さい。その他今までの記事についての御感想もお聞かせ下さい。
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。ランキングが上昇すると閲覧者が増えると思われるからです。御支援をお願い致します。
"信仰を 解き放つべし ピンギヤよ 死の領域の 彼岸に行ける<1146>" へのコメントを書く