森の鹿 自由に歩く 食求め 智慧ある人も 一人で歩く<再39>

○ワン爺さんの独り言<39>
・・・
痩せた自由な狼のように生きるか。
肥った飼われた犬のように生きるか。
それは各自の選択でしょう。


39.第1 蛇の章 3.犀角経 5.

○毎田周一先生訳

野獣が林の中を捉はれなく
何処でも食を求めてゆくのと同じく
目ざめた人の自在なのを見て
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう


○中村元先生訳

林の中で、縛られていない鹿が
食物を求めて欲するところに赴くように、
聡明な人は独立自由をめざして、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳

縛られていない〔野生の〕鹿が、
林のなかで求めるままに餌場に行くように、
識者たる人は、独存〔の境地〕を〔あるがままに〕見る者として、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文

ミゴー  アランニャンヒ   ヤター    アバッドー
Migo    araññamhi      yathā     abaddho,
鹿が   林における     ように    縛られてない

イェーニッチャカン    ガッチャティ   ゴーチャラーヤ
yenicchakaṃ       gacchati      gocarāya;
求める所へ        行く        餌場へ

ウィンニュー  ナロー   セーリタン   ペッカマーノー
viññū       naro    seritaṃ     pekkhamāno,
智慧のある  人が    独存を     観察して

エーコー   チャレー     カッガウィサーナカッポー
eko       care       khaggavisāṇakappo.
一人で     行く       犀の角のように


○一口メモ
林の中の野生の鹿は、自由にえさのある所を探して行きます。家畜は縛られたり、おりの中に入れられていて自由に行動できないのです。家畜は飼い主の与えるえさに依存して生きているから自由ではないのです。野生の動物はそのようなえさに依存していないため自由です。しかし、野生の動物は食べ物が得られないという危険性はあります。もっとも家畜の場合は豚や牛のように食べられてしまうかもしれないという命の危険性はあるのです。

この偈では智慧ある人は、野生の動物のように「独存」しているというのです。セーリタというパーリ語は辞書に「独存」という訳がのっています。中村先生は「独立自由」と訳されていますが、これは分かりやすい訳だと思います。智慧ある人は、何ものにも依存していませんから、そのため執着もないのです。このような人は独立自由なのです。そのような境地を見た人は、何にも依存しないように、犀の角のように一人行くのです。

毎田先生は、パーリ語のミゴーを鹿でなく、野獣と訳されています。家畜に対して野生の動物と言うことを強調したいという意図だと思います。


○前回のこの偈の解説

森の鹿 自由に歩く 食求め 智慧ある人も 一人で歩く<39>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_9.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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