#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 9偈

9 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪(よこしま)なことをめざしている自分の心が自分に対して自分でなすほどには、それほどひどいことをしない。

(ダンマパダ42 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしょうとも、邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

この偈を言い換えてみると、「邪なことをめざしている自分の心ほど、自分に対してひどいことをするものはない。」ということです。

憎む人や怨む人は、どんなにひどいことをしても、例えば、殺すということをしても、その人を地獄に落とすことはできません。しかし、邪なことをめざしている自分の心は自分を地獄に落とすのです。

死後に地獄があるとは信じられない人は、邪なことをめざしている時の自分の心を想像してください。心は緊張して、呼吸が浅くなって、幸せな状態ではないでしょう。そんな状態で生きていたいと思いますか?





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 8A偈

8A 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制するであろう人々は、大きな恐怖からのがれるであろう。)

(ダンマパダ37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。)


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「大きな恐怖からのがれるであろう。」・・・とは死の恐怖から逃れるということです。

8A偈は、ダンマパダ37と同じですから、過去のブロブの解説を読んでみました。
https://76263383.at.webry.info/200901/article_23.html

(以下引用)
今日は先ず、昨日の問題の回答を書かなければならないでしょう。昨日の問題(心は五感では知れないのに)「私たちはなぜ心の存在を知っているのでしょうか?」

 コメントに書かれた皆さんの答えはほぼ正解です。なぜならば、心を知るものはそのようなものだからです。一言で答えた人はその言葉の本当の意味を知らないおそれがあります。

 相応部経典に「一切」というお経があります。(南伝大蔵経15巻25,26ページ)この中で、釈尊は「何をか一切となす。眼と色なり。耳と声なり。鼻と香なり。舌と味なり。身と触なり。意と法なり。これを名づけて一切となす。」 これ以外に何かあると思う人は混乱すると述べています。そのようなものはないからです。ここから判断すると心は法に含まれます。法を知るものは意なのです。意とは心の感覚器官です。アビダルマ的には意門と言います。意は心と言ってもいいのです。この言葉で答えなかった人は悲観しないでください、心を知るものを言葉で知る人よりよく分かっているかもしれませんから。

 瞑想をするのは、言葉ではなく実感を把握するためです。たとえば、座る瞑想で、お腹の膨らみ、縮みを実況中継をしていると、頭にかゆみが現れる、かゆみ、かゆみと実況中継していると、外で音が聞こえました。音、音と実況中継します。この時は身の感覚、耳の感覚があり、五感が働いています。また、お腹の膨らみ縮みに戻ります。だんだんお腹の動きに集中していくと、お腹の動きとそれを知っているだけになることがあります。それを知っているのは心なのです。心の本質は知る機能ですが、心の感じる機能を「意」といいます。

 心の感覚(意)は身体の感覚(五感)に妨害されて、なかなか自覚されないのです。しかも、瞑想で心を落ち着かせても、五感の刺激があると、心は思考、妄想を初めます。そのため心を感じるということが難しいのです。実況中継で思考、妄想が起きないようにして、心(意)が心を感じられるようにするのです。そうすると心の無常、苦、無我が発見できる筈です。

 このような瞑想実践を通じて、今回の詩の心が「遠くに飛び、一人で動く 身体はないが、身体にいる」ことが分かると思います。「身体はないが」は心は身体を持たないと言うことです。「身体にいる」はその心が身体の中にいるという意味です。また、心を感じ、心を知ると、心を制御できるのです。悪魔の支配とは、五感よって起きる欲望の支配なのです。この支配を克服できれば、煩悩を克服できるのです。煩悩を克服することは解脱、涅槃への道なのです。

(以上引用)
読者のコメント(解答)は、次のアドレスにあります。
https://76263383.at.webry.info/200901/article_22.html


以上の話とは別に、近年の量子論の話を比喩的に用いると、心は電子なようなものだと言えます。
つまり、電子は通常は特定の場所になく、雲のように、波のように存在していますが、そこに注目すると、電子は粒子として、場所を確保するものということです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 8偈

8 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英智ある人はこれを直くする。____弓作(ゆみつくり)が力強く矢の弦を直くするようなものである。  

(ダンマパダ33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直(なお)くする。____弓矢職人が矢柄を直くするように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

ダンマパダ33について、2009年11月22日に次のように解説しました。
(以下引用)
心を育てるには、心について知らなければなりません。しかし、心は姿、形がありません。色や香りもなく、音もしません。触ることもできないのです。ですから、心はなんとなくあるように思っていても、理解しにくいのです。ですが、心についての理解が深まると、心は非常な大きなエネルギーを持ち、個人を幸福にするのも心であり、不幸にするのも心であり、世界を平和にするのも、戦争にするのも心であることが分かります。そのような重大な心について、仏陀の心に関する教えを学び実践することが必要です。

 「子供のためのダンマパダ」に関して言えば、以前子供と、「心で思ったこと当てゲーム」をやったことがあります。先ず、子供に何か心に思ってもらうのです。それを私が何を思ったか当てるのです。子供は素直で、正直ですから、何かを思うとそれを、いっしょうけんめいに見ているのです。ですから、私は子供の見ているものを言えば当たりです。子供はなぜ分かったのか不思議がりますが、そんなことは簡単です。

 しかし、だんだん大人になると、素直でなくなり、心で思うことと態度を変えてきます。「心で泣いて顔で笑う」とうようなことを始めます。その内、だんだん大人は自分でも自分の本当の心が分からなくなって、自分では幸せを願いながら、不幸になる行動を始めます。ですから、大人も子供も、自分が本当に幸せになるように、心を学び、「心を育てる」必要があるのです。

(以上引用)

実は、2009年1月19日にも解説しています。それには、もう少し細かく心について解説しています。興味のある方は参照してください。
https://76263383.at.webry.info/200901/article_19.html



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 6偈、7偈

6 汝は、幾多の生涯にわたって、生死の流れを無益に経めぐって来た、___家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

7 家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、汝はこの世で滅びてしまった。 

(ダンマパダ153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経(へ)めぐって来た、___家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて___。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。)

(ダンマパダ154 家屋の作者(つくりて)よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁(はり)はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。)


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

これらの偈は、ゴータマ・ブッダが無上なる覚りを得た時、最初に述べられた歓喜の言葉だと言われています。

これらの偈は、比喩で述べられていますから、何の比喩であるか書いておきます。

「家」とは身体のことです。
「家の作者」とは、身体を再生させる原因です。
「汝の梁(はり)」とは、煩悩のことです。
「家の屋根」とは、無明(無知、愚かさ)です。

ダンマパダ153、154の訳から離れて、6偈を7偈を読んでみると、「汝」とは、心を意味してることがよくわかるように整理されていることがわかります。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 5偈

5 この心は以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、___あたかも象使いが鉤(かぎ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

(ダンマパダ326 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、___象使いが鉤(かぎ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

2010年6月24日に、ダンマパダ326を次のように解説をしました。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_24.html

「この詩の解釈は、「昔は心(感情)のままに生きてきたが、今からは私は心を制御する、象使いが象を制御するように」という意思の表明です。この意思がなければ仏道修行は成り立たないのです。前々回に、一遍上人は法句経(ダンマパダ)でこの詩を読んでいたか問題にしましたが、仏道修行者はこの意思は当然あるのです。」


また、私のブログの読者の一人であったあすかさんの次の詩を引用しました。

「心は赤ちゃんみたいに
何もわかってないみたいだから
ほしいよぉ、やだよぉ、とか言ったら
そんなのだめだよ、ちがうでしょ、
って、ちゃんと善いこと
教えてあげようね。(あすかさん作)」



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 4偈

4 この心は胎児の状態にあり、牢固としていないし、見ることもできない。わたしはつねに教えさとす、___わがためにならぬように外へ出歩くことなかれ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

この心とは、衆生の心です。衆生の心は胎児のようなものだというのです。赤子であっても、弱々しく、壊れそうなのですが、胎児であればすぐに壊れてしまいそうです。もちろん、見ることはできません。

だから、牢固(ろうこ)ものになるまでは、「外へ出歩くな。」とわたしは教えるのです。

衆生の心は、どこに向かうべきかわからないのです。また、眼が見えない状態ですから、すぐに何かにぶつかって、傷ついてしまうのです。

しかし、心が育ち、道を歩けるようになれば、気をつけて遍歴修行をするのがよいのです。それはゴータブッダもSRKWブッダも推奨することです。








#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 3偈

3 心は別々の方向に走る。___太陽の光線のゆに。それ故に賢者は心を制する。___鉤(かぎ)で象を制するように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「心は別々の方向に走る。」・・・とは何でしょうか?

静かに座って、眼を閉じてください。そして、あなたの行ったことのある場所に想いをはせて下さい。熊本でも、北海道でも、東京でも、富士山の頂上でもイメージしてください。すぐできるでしょう。行ったことのない場所でも、外国でも、その場所の情報があれば、イメージできるでしょう。

それは心がその場所に行ったということです。体はそこに移動はできませんが、心はそこに行けるのです。そのように、心は別々の方向に走ることができるのです。

実は、心は意識してイメージしなくとも、勝手に心は別々の方向に走っているのです。さらに、言えば、心の飛び回っている場所や想いは、自覚できるものもありますが、無自覚のものも多いのです。自分の癖などは無自覚に行っています。それらが総合して、その人の人格を作っています。

ですから、勝手に動き回る心を制する必要があるのです。

「心が変われば行動(言葉)が変わる。 行動(言葉)が変われば習慣が変わる。 習慣が変われば人格が変わる。 人格が変われば運命が変わる。」などとも言われます。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 2偈

2 水の中の住処(すみか)から引き出されて陸(おか)の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとして、もがきまわる。 

(ダンマパダ34 水の中の住処(すみか)から引き出されて陸(おか)の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

ブッダがこの世の衆生の姿を見て、それは陸に投げ捨てられた魚のように見えたのです。陸とは悪魔の支配している世界です。悪魔の支配している世界とは、欲が支配している世界なのです。

では、なぜブッダは衆生を見て、「この心は」と表現したのでしょうか?

衆生が感じ、衆生を動かしているものは、衆生の心だからです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第31章 心 1偈

1 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。 

(ダンマパダ35 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

今日から、心の章が始まります。

改めて、心について考えてみましょう。

心について、なんとなく知っているような気がしているでしょうが、よく考えると心についてはよくわかっていません。

そこで、心について、わかるところから、理解していきましょう。

今回の偈にそって行くと、心は捉えにくいと言っています。たしかに捉えにくいです。捉えたと思っても、すぐに変わります。

「軽々(かろがろ)とざわめき」・・・かるがるとざわめきますが、音はないのです。

「欲するがままにおもむく。」・・・自分の意思に反して、怒ったり、悲しんだりするのです。心は自分ではないのでしょうか?

心はかってにおもむくので、混乱するのです。混乱すると、よいことはありません。悪いことをするかもしれません。安心できません。

いずれにせよ。心を修めて、落ち着かせ、正しい判断ができるようにすることはよいことなのです。
安心して、安楽を感じることができるのです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 52偈

52 立派な人々は、いかなるところにあっても、快楽のゆえにしゃべることが無い。楽しいことに遭(あ)っても、苦しいことに遭っても、立派な人々は動ずる色がない。    

(ダンマパダ83 高尚な人々は、どこにいても、執著することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭(あ)っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。)

                        以上第30章 楽しみ

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「快楽のゆえにしゃべること」とは、無駄話をすることです。無駄話は、自分と相手の心を汚します。自分と相手の心を傷つけることもあります。

また、無駄話は自分と相手の時間をなくすことです。時間を無駄にすることは、命をなくすことになるのです。

衆生は、楽しいことがあれば、喜びます。これは普通ですが、舞い上がってしまうのです。そして我を忘れてしまいます。それは危険なことです。楽しいこともいつまでも続くものではありません。その時は、悲しくなります。

逆に、苦しいことがあれば、悲しくなり、落ち込んでしまうのです。悩んで、病気になる人もいます。
苦しいこともいつまでも続くわけではありません。元気を出せば、なんとかなります。心配することはないのです。

立派な人々(高尚な人々、賢者)はそのことを知っているのです。ですから、楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、動ずることがないのです。    





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 51偈

51 村において、林において、快感や苦痛に触れられた人は、それを自分のせいにしてはならぬし、他人のせいにしてもならぬ。迷いの条件に依存して、触れられる事物が触れるのである。迷いの条件の無い人に、触れられる事物の触れることがどうしてあろうか?

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 

(ウダーナ2・4 村で、森で、楽や苦を感じたら、それを自分に由来するとも他人に由来するとも思ってはならぬ。苦楽を感じるは執著による。執著がなければ何によって苦楽を感じることが起こるであろうか、と。)

(桜部建訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

51偈は、ウダーナ2・4の偈を参考にすると理解しやすい。

「快感や苦痛に触れられた人は」・・・「楽や苦を感じたら」ということです。

「自分のせいにしてはならぬし、他人のせいにしてもならぬ。」・・・「自分に由来するとも他人に由来するとも思ってはならぬ。」ということです。

「迷いの条件に依存して、触れられる事物が触れるのである。」・・・「苦楽を感じるは執著による。」 

これは少し説明しなければわからないでしょう。迷いの条件に依存することとは、執著するということなのです。例えば、アルコールに依存している人はアルコールに執著しているようなものです。あるものに執著している人は、そのあるものに依存しているのです。

「触れられる事物が触れる」・・・「苦楽を感じる」ということです。

あらためて説明すると、快感や苦痛の思いは自分や他人によるものではない、執著(依存)によるのであるのです。執著(依存)のない人には快感や苦痛の思いはないということです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 50偈

50 われらは何物をもっていない。いとも楽しく生きて行こう。身体を自分と見なす(見解に)とらわれることなく、喜びを食(は)む者となろう。 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「われらは何物をもっていない。いとも楽しく生きて行こう。」は、44偈と49偈と同じです。

「喜びを食(は)む者となろう。」は昨日説明しました。

さて、「身体を自分と見なす(見解に)とらわれることなく、」です。

自分とは何者であろうか? と考えるときがあります。

仏教では、自分とは色、受、想、行、識で構成されていると教えます。すなわち、身体と感覚と表象と形成作用と認識です。しかもそれらは実体がなく変化するものとも教えています。ですから、これだと執着したくとも、執着できないのだろ教えるのです。

実際にはなかなかそのようには思えません。しかし、自分や他人を観察し、考察するとそれがわかってきます。はじめは身体が自分の実体だと思っていますが、身体は自分の一部であることがわかります。さらに、身体が自分の実体ではないと思うようになります。・・・

このような考え方の道筋は人により異なりますので、その人なりにいろいろ考えるでしょう。

身体を自分と見なす(見解に)とらわれることがなくなれば、身体について、太っているとか、痩せているとか、背が低いとか、高いとか、不美人だとかいわれても気にしなくなるでしょう。

多くの人々にとって、自分の身体は最大の関心事ですから、それ以外のことは大したことはないのです。最大の関心事が気にならなくなれば、すべてのことは気にすることはないのです。気にすることがなければ、楽しく生きていけるのです。






 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 49偈

49 われらは何物をもっていない。いとも楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。 

(ダンマパダ200 われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

この偈の前半は、この章の44偈の前半と同じ言葉です。44偈では、何も持っていないから、火事にあっても大丈夫だと言っていました。

49偈は、「光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。」と言っています。「光り輝く神々」
とは、アーバッサラ神々(光音天)のことですが、訳者は「光り輝く神々」と訳されたのです。

すべての生命は食べ物(エネルギー)を摂取して生きています。植物は光と水を食べ物としています。
光り輝く神々は喜びを食べ物として生きているのです。そのために、光り輝く神々は喜ぶ人々の周りに集まってきて、人々が喜ぶようなことをしてくれるのです。

一方、怒りを食べる神々もいるのです。阿修羅です。彼らは怒っている人々の周りに集まってきて、怒っている人々がさらに怒るようなことをするのです。

楽しく、喜んで生きる人々の周りには喜びを食べる神々が集まって、さらに楽しくしてくれるのですから、楽しくいきましょう。

神々という言葉が、迷信くさくて信じられないという方は、波動とかエネルギーとか意識という言葉に置き換えて理解してください。



 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 48偈

48 他人を悩ます人々のあいだにあって、われらは人を悩ますことなく、いとも楽しく生きて行こう。他人を悩ます人々のあいだにあって、われらは人を悩まさないで暮そう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

他人を悩ます人々とは、どんな人々でしょうか? わがままな人々です。

ですからこの偈は以下のようになります。

わがままな人々のあいだにあって、われらはわがまなでなく、いとも楽しく生きて行こう。わがままな人々のあいだにあって、われらはわがまなでなく暮らそう。

さて、今日は法捗如来のブログ「うやまい うやまう」https://blog.goo.ne.jp/uyamai
で、昨日「まくろ」「せんさつ」「ことたま」「せんぞ」「たんたん」「てあみ」という楽しい、為になる記事がアップされていましたので、紹介します。

今日は、東京は先ほどまで雪でしたが、雨に変わりました。皆様、気をつけて、楽しくお過ごしください。今日はラジオ体操には行けませんが、家でテレビ体操を行います。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 47偈

47 怨みをいだいている人々のあいだにあって、われらはひとを怨むこと無く、いとも楽しく生きて行こう。怨みをもっている人々のあいだにあって、われらは怨むこと無く暮そう。 

(ダンマパダ197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

怨みは、怒りが持続している状態です。怒りは一時的な状態なので、時間が経つと消えます。しかし、怨みはなかなか消えません。ですから、怒りでも心身に大きな負担なのですが、怨みがあると、心身に膨大な害毒を与えることになります。怨みの対象者ばかりでなく、関係のない人との人間関係も悪くなり、自分自身を傷つけているのです。病気になる場合も多いのです。いずれにせよ、楽しくは生きられないのです。

怨みを持たないことが、楽しく生きるコツです。

ダンマパダ5では、次のように説かれています。

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息(や)む。これは永遠の真理である。」(中村元訳)

「怨みを捨てるためには、どうしたらよいか?」と聞かれたのならば、次のように答えます。

相手を許すことです。過去を水に流すことです。

付け加えるならば、相手も完全な人間ではないのです。自分もいろいろな人にいろいろな過ちを犯してしまったことを思い出して、相手を許してください。

本当に相手を許した時、今までに感じたことのない感情があなたに湧き上がってくるでしょう。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 46偈

46 他人を傷つける人々のあいだにあって、われらは人を傷つけることなく、いとも楽しく生きて行こう。他人を傷つける人々のあいだにあって、われらはひとを傷つけること無く暮そう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

この偈を読んで、ブッダのことば(スッタニパータ)の125偈を思い出しました。
「母・父・兄弟・姉妹或いは義母を打ち、またはことばで罵る人、──かれを賤しい人であると知れ。」(中村元訳)
この偈の解説を2016年5月11日に書きました。
https://76263383.at.webry.info/201605/article_11.html

(以下引用)
今回の偈は、今日の言葉で言えば「家庭内暴力」の問題です。2600年前もあったのですね。心の問題は今も昔も変わらないということであると思います。

この問題を高橋徳著「人は愛することで健康になれる(副題:愛のホルモン オキシトシン)」(知道出版)を参考に述べたいと思います。

この本の序文に次のように述べられています。
「オキシトシンは哺乳類動物の神経ホルモンの一つです。主に脳内の視床下部で生成され血液循環系に送り出されます。その働きは、私たちの『情緒』『認識』『対人関係における反応や行動』のバランスを保ち、私たちが健康に暮らしていけるようにしていることです。
(中略)
愛情溢れる育て方をされると、母子相互の間のしっかりした絆の環(ループ)が形成されます。愛情を惜しみなく受けて育った幼児は、体内に高性能のオキシトシン発現システムを持つようなります。成人した後には子育てに積極的であり、良好な人間関係を築くことができるようになります。
(以下略)」このキシトシンは「利他的なペプチドホルモン」と呼ばれています。

一方、同じ下垂体ホルモンであり、オキシトシンと同じ9個のアミノ酸で構成されていて、そのうちの2個だけが異なるバソプレシンの活動は、個体の安定・維持(体内水分・血圧調整・記憶や興奮の強化)に向けられています。バソプレシンは、恐怖、不安、攻撃性に関与しており「利己的なペプチドホルモン」と呼ばれています。幼児期のストレス体験はバソプレシンの過剰分泌とオキシトシンの分泌の抑制する事実が分かっています。

という訳で、家庭内暴力を振るう人間は、一概には言えませんが、幼児期の適切な愛情を持って育てられない可能性があります。仏教ではこのような問題は本人の業の問題だと考えています。

しかし、仏教はこの問題を解決できないとあきらめるわけではありません。例えば慈悲の実践なので、脳内のオキシトシンを増加させることができると研究されています。本人の意思次第で、脳内オキシトシンを増加させ、慈悲の心を育てることができるのです。それは家庭内暴力の問題の解決の手掛かりになると思います。また育児のあり方の改善で、家庭内暴力を減少させることができるようになると思います。

上記のこの本「人は愛することで健康になれる」は、人々は思いやり気持ちを持つことによって、オキシトシンを増加させ、健康を増進することのみならず、平和な幸福な社会をつくることができると述べており、非常に参考になる本です。皆さまも是非お読みになることを薦めます。
(以上引用)

人は、やさしい気持ちになると脳内オキシトシンが増加するのですが、逆に脳内オキシトシンが増加すると、やさしい気持ちになるのです。

例えば、お母さんが赤ちゃんを抱っこすると、赤ちゃんにもお母さんにも脳内オキシトシンが増えるのです。日本人にはあまりその習慣はないのですが、親しい人どうしで、あるいはあまり親しくない人とも、もっとハグをしたよいのではないでしょうか。ハグの勧めです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 45偈

45 悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く、いとも楽しく生きて行こう。悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く暮そう。 

(ダンマパダ198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

「悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く、いとも楽しく生きて行こう。」と言われても、「悩みがあるのだから」という方に「事実は一つですが、解釈は無限です。」と言います。

悩む人々は事実によって悩むのではありません。その人の事実の解釈によって悩むのです。悩む人はその人の解釈を変えれば悩みはなくなり、感謝に変わるのです。事実は変えられませんが、解釈は変えることができるのです。解釈が変わると不幸が幸福になるのです。

例えば、自分の短所と言われることがらも、解釈が変われば、それが長所になるのです。優柔不断な人は、それは慎重であるという長所であるのです。

また、病気になっても、病気なって嫌だなと思うのではなく、病気なって休むことができでよかったと思うことができます。なぜ病気になったのだと反省して、生活を改善することもできます。そうすると病気なってよかったと、病気に感謝できます。人生を根本的に改善して、解脱の道に進むこともあるのです。

ですから、「悩める人々のあいだにあって、われらは悩み無く、いとも楽しく生きて行こう。」と言えるのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 44偈

44 われわれは何物をももっていない。いとも楽しく生きて行こう。ミティラー市が焼けているときにも、(ここでは)何も焼けていないのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

ミティラー市とは、古代インドのガンジス平原東部(ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州、ネパールの一部にかけて)にあったといわれる王国にあった市でしょう。ゴータマ・ブッダの生誕生とされている地域にあたるようです。

ミティラー市で、大火事があったのでしょう。しかし、何も持っていない人にとっては何も焼けていないのです。いろいろ持っていた人々が大火事でいろいろ焼けて悲しんでいることに対する哀れみはありますが、何も持っていない人には悲しみがないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 43偈

43 貪る人々のあいだにあって、われわれは貪らずにいとも楽しく生ききて行こう。貪っている人々のあいだにあって、われわれは貪らないで暮らそう。

(ダンマパダ199 貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、患(わずら)い無く、大いに楽しく生きよう。貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 


*法津如来のコメント

貪る人々は、楽しく生きていないのです。貪ることに心が奪われて、心は焦っているのです。そのような人は楽しくないのです。

貪らないで生きている人々は、生きていることが楽しいのです。

話は変わりますが、今日は「どんな名言も実践しなければ意味がない」を説明する夢をみました。
この偈も実践しなければ意味がありません。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 42偈

42 他人に従属することはすべて苦しみである。自分が思うがままになし得る主であることはすべて楽しみである。他人と共通のものがあれば、悩まされる。束縛は超え難いものだからである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。) 

(ウダーナ2・9 他人に従うことはすべて苦である。主権をふるうことはすべて楽である。なすべき仕事があれば人は悩まされる。束縛に克つことはむずかしいからである、と。)
 
(桜部建訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

パーリ語の「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」の第2章9経の前文の説明によると、大富豪のヴィサーカー婦人がコーサラのパセーナディ国王に、ある頼みごとをしましたが、国王はそれに応じてくれなかったと、お釈迦様に愚痴をいった時に、お釈迦様が唱えた偈だということです。

すなわち、パセーナディ国王はヴィサーカー婦人に従うことは嫌だったのです。苦しみだと思ったのです。自分が思うがままにすることが楽しみだと思ったのです。

「他人と共通のもの」・・・他人との約束のようなものでしょう。それがあれば、それに束縛されます。束縛は超え難いものだから、悩まされるのです。