ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS すべての事物 我が無いと一切厭い解脱する

<<   作成日時 : 2008/08/31 07:51   >>

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ダンマパダ 279

すべての事物は無我だと
智慧によって見る時
苦を厭い離れる
これは清浄への道である

○この詩から学ぶこと

 仏教ではすべての現象あるいは事物の基本的な特徴を三つの言葉、「無常」「苦」「無我」で表現します。無常、苦については一昨日、昨日説明しました。今日は無我の説明です。
 無我とは文字通りには「われがない」ですが、仏教の定義では「変化しない常住の実体がない」という意味です。「私」という例でこれまでの復習と今日の問題を明確にしましょう。

 「私は無常である。」 私は生まれてからこの方、一瞬たりとも変化しなかったことはありません。毎日毎日成長して、笑ったり、怒ったり、苦しんだり、楽しんだりしてきました。心も身体も変化し続けています。私は無常であることは間違いありません。

 「私の存在は苦である。」 私はいつも幸せを求めて来ました。私は完全に現状に満足したことはありませんでした。ということは、私の現状はいつも苦であったと言っていいのではないでしょうか。

 今日の問題は「私には変化しない常住の実体がない。」ということであります。私の無常と苦でこの問題はその通りであるとすぐ納得された方もおられると思いますが、「無我相経」というお経での釈尊の説法でこの問題を考えてみましょう。

 「比丘たちよ。色(肉体)は無我である。もし色が我であるならば、色が病にかかることはないし、色に対して、『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることができるであろう。しかし、色は無我であるから色は病にかかり、『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることができないのである。」
 次に、受(感覚)、想(概念)、行(衝動)、識(認識)の生命の構成要素に対して同様の説法があります。

 「比丘たちよ。色は常であるか、無常であるか」 「尊師よ。無常であります。」
 「無常なるものは苦であるか、楽であるか。」 「尊師よ。苦であります。」
 「無常であり、苦であり、壊れるものを『これは私のものである。これは私である。これは私の我である』と見るのは正しいか。」 「尊師よ。それは正しくありません。」
 次に、受、想、行、識の生命の構成要素に対して同様の説明があります。

 「比丘たちよ。それゆえ、色であるものは何であれ、過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、そのすべての色を『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない』とあるがままに正しい智慧によって見るべきである。」
 次に、受、想、行、識の生命の構成要素に対して同様の説法があります。

 このように見ると、色を厭離し、受を厭離し、想を厭離し、行を厭離し、識を厭離する。厭離の故に貪りを離れる。貪りを離れる故に解脱する。解脱すれば、解脱したという智慧が生じる。」

 ということです。解脱は一切の苦からの解放であり、究極の幸せなのです。
 この説法が説かれるうちに、五人の比丘は心に執着がなくなり、煩悩から解脱したのでした。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜
〜生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように〜
〜生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように〜
〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜 

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一切の法は無我だと知るならば苦から離れて清らかになる
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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
ワンギーサさん 一昨日からの「無常・苦・無我」についての解説ありがとうございます。この世の中に存在するすべてのもの、起こる現象は自分の思うとおりにはならないものであると言うことですね。従って、自分の思うとおりにしたいとそれに執着すると悩み苦しむことになるのですね。執着することがいかに愚かなことであるか今回の解説で理解できたと思います。私にとって一番難しい「我執から離れること」に努めたいと思います。ありがとうございました。
ホーシノヒトリゴト
2008/08/31 10:11
ワンギーサさん、今日は。
さて「無我」ですが、理屈で理解できても、どこか腑に落ちないのはどうしてなのでしょうか?
「無常・無我」を理解する「私」がいる、つまり「主体・客体」という関係の「主体」を無意識に「固定されたもの」としているからののでしょうか?言い換えれば「我思う故に我あり」ならぬ「我観察する故に我あり」という「我」を無意識に大前提として観察、認識しまうからなのでしょうか?

2008/08/31 18:42
新 様
文章を長く書く時間がないので、要点のみ書きます。
新様は「主体・客体」とい枠組みで考える習慣になっているのです。しかし、事実は「原因があって結果がある」だけです。これは考えても納得できることではないかもしれませんが、ヴィパッサナー冥想で確認、確信できます。
ワンギーサ
2008/08/31 21:25
ワンギーサ 様
 数日前に、いろいろ書かせて頂いた者です。私は、四捨五入してもう60になりますので、学生気分で議論をするつもりなど毛頭ありませんでした。
 ただ、長年講演をしておりますと、本当に、真剣な質問もいただきますが、逆にやじられる、嫌味な質問をも受けてきました。講演会は、真剣勝負の場でもあります。質問者の質問を無視するわけにはいきません。それは、現在でも同じで、常に真剣なのです。こういう場でする話ではなかったかと思います。失礼をお許しください。ますますのご精進をお祈りいたしております。                            林田明大
林田明大
2008/09/01 00:44
ワンギーサ長老の解説、とても分かり易いです。有難うございます。

自分がした行為から「自分がした」というものはあるが、それを自分・我と思ってしまうのは錯覚、と本で拝見したように思います。

自分がある・・という自覚を持ってしまうと、それを少なくするような生き方より色々執着が増えるように感じます。

我を持たない・執着が(少)ないような生き方を智慧で分かるように精進して参りたいです。
身の丈修行者
2015/02/03 16:24

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