ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 学問や 思想の影も ない彼を 世間の人は 理解できない<802>

<<   作成日時 : 2015/02/22 04:07   >>

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○少年少女のためのスッタニパータ<802>
・・・
考えないで見る世界は
子供のとき見た世界のように
輝いている。


第3 八つの詩句の章 4.最上八詩句経 7.

○毎田周一先生訳
802.
だから彼には自分で考え出した
知識や学問や思想の影すらもない
このように道に達した人がどんな考えにもとりついていないとき――
世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して摑まえられるものではない


○中村元先生訳
802
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、
微塵ほどの妄想をも構えていない。
いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、
この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?


○正田大観先生訳
809.(802) 
彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、
〔執着の対象として〕想い描かれた〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、
その婆羅門を、ここに、〔この〕世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、
執着の対象として想い描かれることもない)。(7)


○パーリ語原文
808.(802)
タッスィーダ      ディッテー    ワ    ステー     ムテー    ワー
Tassīdha        diṭṭhe       va     sute       mute     vā,
彼には・この世で  見たこと     或は   聞いたこと   思ったこと  或は 

パカッピテー   ナッティ    アヌーピ    サンニャー
pakappitā      natthi      aṇūpi      saññā;
想い描いた    存在しない  少しも     表象は

タン    ブラーフマナン    ディッティマナーディヤーナン
Taṃ    brāhmaṇaṃ      diṭṭhimanādiyānaṃ,
その    バラモンを      見解に執着しない

ケーニーダ       ローカスミン    ウィカッパイェッヤ
kenīdha         lokasmiṃ      vikappayeyya.
何によって・ここの  世間において   分別できるでしょうか


○一口メモ
昨日の偈で述べた「彼」は、「この世でも あの世についても 願わない 断定しない 彼は無立場」のような無立場であり、自由自在なのです。そのような彼について、今回の偈では、「だから彼には自分で考え出した知識や学問や思想の影すらもない」或は「かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない」と述べられています。

そして、そのような彼を毎田先生の訳では「世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して摑まえられるものではない」と述べています。これは、世間の人は彼を理解できないということです。

一方、中村先生の訳では「(彼を)この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?」となっていますから、少しニュアンスが異なります。「彼は妄想分別をしない」という意味になると思います。世間の人は妄想分別する人ですので、世間の人は妄想分別しない人を理解できないという意味なると思います。

この訳の違いは、前の経「清浄八詩句経」の793偈でもありました。この行のパーリ語の原文は今回の802偈とほぼ同じです。その訳の仕方が、毎田先生と中村先生とは違いますが、二人とも「彼(バラモン)」と「世間の人」の違いが述べられているのです。

世間の人は、分別(思考)しますから、相対的な現象の世界しか理解できません。彼(バラモン)が到達したあらゆる見解、妄想分別から離れた真理の世界を理解できないということです。


学問や 思想の影も ない彼を 世間の人は 理解できない<802>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
正田先生の訳が一番しっくりきました。

概念とは「有無の世界」(有論)に基づいてますから、概念では有無を越えた世界は知り得ません。

有でもなく無でもない。。。つまり、因縁によって生じ、因縁によって滅する。換言すれば一切は無常であるので、故に「執着」な成り立たない。

今のところ、このように理解してます。

2015/02/22 04:23
思考では事実に到達できない。
だから瞑想が必要なのだと
理解しました。
りんご
2015/02/22 07:49
「かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない」こんな状態になりたいなと思います。精進したいです。
言葉で捉えるしかない面もあると思いますが、それでは言葉から概念に容易に変わって行くように思います。
言葉が概念に変わって行かずに智慧になるには、冥想修行が欠かせないと思います。実践して参りたいです。
身の丈修行者
2015/02/23 07:42
思考してとらえる状況ですと、思考する程ねつ造される諸々にほんろうされ、どんどん事実と違う方向に行くような印象があります。また思考して捉える事が当たり前になっている状況では、自分の考えに置き換えないと分からない、とのややこしい状態が自然になるように思います。思考を超える世界、体得したいです。
こころざし
2016/10/07 07:23

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