ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 偏見が 存在しない 清き人 偽と慢がなく 輪廻はしない<786>

<<   作成日時 : 2015/02/06 04:04   >>

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○少年少女のためのスッタニパータ<786>
・・・
清らかな人には
悪意がない。
偏見がない。
うそと慢心がない。


第3 八つの詩句の章 2.悪意八詩句経 7.

○毎田周一先生訳
清められた人は この世の何処にいても
あれこれのことを自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない
だから清められた人は いつわりと思い上がりとからすっきりと離れている
この何にもとりついていない人が「何処かへ行く」ということがあるだろうか


○中村元先生訳
786
邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、
さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、
どうして(輪廻に)赴くであろうか?
かれはもはやたより近づくものがないのである。


○正田大観先生訳
793.(786) 
まさに、清き者には、世のどこにおいても、
諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない。
〔欺瞞の〕幻想も、〔我想の〕思量も、〔両者ともに〕捨棄して、清き者は、
彼は、何によって、〔迷いの生存に〕赴くというのだろう。
彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である。(7)


○パーリ語原文
792.(786)
ドーナッサ    ヒ    ナッティ    クヒンチ    ローケー
Dhonassa     hi     natthi     kuhiñci     loke,
清浄な人には  実に   ない     どこにも    世の

パカッピター   ディッティ    バワーバウェース
pakappitā     diṭṭhi        bhavābhavesu;
構想された   見解        種々の生存に対して

マーヤンチャ    マーナンチャ    パハーヤ   ドーノー
Māyañca       mānañca       pahāya     dhono,
惑わしと       慢を          捨てて     清浄な人は

サ    ケーナ    ガッチェッヤ    アヌーパヨー      ソー
sa    kena      gaccheyya     anūpayo         so.
彼は  何によって  行くだろうか    執着がなくなった   彼は


○一口メモ
この「悪意八詩句経」はそろそろ終わりに近づいてきました。悪意のない人はどのような人か述べられることになります。そこで「清められた人」(=邪悪を掃い除いた人、清き者、清浄な人)という表現が出てきました。

二行目のbhavābhavesuは、「さまざまな生存に対して」ですが、毎田先生は「あれこれのことを」とあっさり訳しています。これに対して「さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない」と中村先生は訳されています。毎田先生は「自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない」と砕いて訳されています。清浄な人には偏見がないということです。

さらに清浄な人には、いつわり(〔欺瞞の〕幻想)と思い上がり(慢心)がないと説明されています。

四行目「この何にもとりついていない人が『何処かへ行く』ということがあるだろうか」とは、このような清浄な人は、輪廻をするということがあろうか、輪廻はしないと述べているのです。

すなわち、悪意から離れた人は偏見から離れ、欺瞞や慢心がなく、輪廻を繰り返すことのないということです。


偏見が 存在しない 清き人 偽と慢がなく 輪廻はしない<786>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎2月10日(火)から2月16日(月)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
こういう経典を読む場合も、自分の作った考え(偏見)によって解釈してしまう。

ヴィパッサナー実践で、ありのままに観るということに行きつくように思います。

2015/02/06 04:20
おはようございます。
悪意から離れるために、自分はまず人の悪口を言うことから離れなくては、と思いました。
カエルくん
2015/02/06 05:51
おはようございます。
出来事に対し何時も(その方の好き・嫌いで判断した)良い・悪いで反応し、特に悪いと解釈された方の場合は経営者も巻き込んでやや大騒ぎ?するような同僚達と働いています。

程度は人それぞれですが、ある程度皆さん人間として普通にあるシーンかなと感じます。

それに同調すると大変疲れる状態になりますが、身の丈であるがままに見る・そしてその人にも皆さんにも慈しみの気持ちで接しようと努めています。

私も同調してギャーギャーになるとさらに時間がかかり拡大し・・の状態になりかねませんが、自分が心穏やかにいると収拾する方向に行くように感じています。

精進して参りたいです。

ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
身の丈修行者
2015/02/06 07:54
ワンギーサ先生、いつもとても詳しく説明して下さり、ありがとうございます。

「諸々の種々なる生存」は、渇愛のことでしょう。
その、生命が生きるために生まれるあらゆる過程から離れているということが、「悪」ではなく「善」であるということでしょう。
興奮や静けさという、怒り・悲しみ・喜びなどの感情を感じ、
心地よい・悪いなどの感覚を感じて、
それら感情・感覚に対する執着から離れることで、
渇愛に近づかない、対象をつかまえない、心がどこにも行かないで集中している、いまここにいる体験をしている、その幸福体験にもたよらない、そして一切衆生に対し慈しみの念を抱かずにはいられないというのが清いという事だと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
noritarou
2015/02/06 10:27
清らかな方といると、絶対的な安心感的なものを持てる印象があります。それはその方に悪意が全くないからだと思います。悪意がない程度でしたら日常でもあるかと思いますが、自分のエゴ的なものも全くない方はなかなかいらっしゃらないと感じます。そのような清らかな方の生き方に近づける様に精進したいです。
こころざし
2016/10/02 19:31

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