ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 見る人は 名色を見て 知るだろうが 清浄になる とは説かれぬ<909>

<<   作成日時 : 2015/06/09 04:02   >>

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○少年少女のためのスッタニパータ<909>
・・・
見ることで真理が解ると
信じている人々は
見ることを止めないが、
それで真理が解るとは言えない。


第4 八つの詩句の章 13.大集積経 15.

○毎田周一先生訳
909.
見る人は名と形を見るのであるが
それを見るときには 一応それをそれとして知るであろう
そして見ようと思うならどんなことでも それらをそれとして見るがよいだろう
しかし聡明な人は それらを見ることによって清らかになるなどとはいわない


○中村元先生訳
909
見る人は名称と形態とを見る。
また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。
見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。
真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。


○正田大観先生訳
916.(909)
〔他のものによって〕見ている人は、名前と形態(名色:現象世界)を、〔常住〕見ます。
あるいは〔そのように〕見て、まさしく、それら(名前と形態)を〔常住と〕知るのです。
〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ――あるいは、少なくを。
なぜなら、〔真の〕智者たちは、それ(邪見)によって、清浄を説かないからです。(15)


○パーリ語原文
915.
パッサン    ナロー   ダッカティ    ナーマルーパン
Passaṃ     naro     dakkhati     nāmarūpaṃ,
見る       人は    見る       名色を

ディスワーナ   ワー    ニャッサティ   ターニメーワ
disvāna       vā      ñassati       tānimeva;
見て        或は    知るであろう   そのように

カーマン     バフン    パッサトゥ   アッパカン    ワー
Kāmaṃ      bahuṃ     passatu     appakaṃ     vā,
欲するままに  多く      見よ      少なく       或は

ナ    ヒ     テーナ      スッディン     クサラー   ワダンティ
na    hi      tena        suddhiṃ       kusalā     vadanti.
ない  何故なら それによって  清浄(になる)と  賢者は    説か(ない)から


○一口メモ
今回の偈を注釈書にそって理解すると。この偈は昨日の偈を受けて、その捕捉的説明なり、明日の偈に予備的説明になっています。つまり、昨日の偈と明日の偈をつなぐものになっているのです。

しかし、それと全然違った解釈が可能かもしれません。と言いますのはパーリ語の原文の三行目のKāmaṃを、注釈書にそって訳すと「欲するままに」となりますが、Kāmaは「欲望」という意味でKāmaṃは「欲望を」です。その意味で、三行目を訳すと、「欲望を多く或は少なく見よ。」となります。注釈書にそって訳すと「欲するままに多く或は少なく見よ。」です。この違いは「見よ」の対象が欲望かそうではないのかという違いです。今回はこの考えは保留して、注釈書にそって解釈します。

前回の908偈で、「私は知る。私は見る。」ことで清浄にならないことが述べられましたが、「私は知る。私は見る」ことで清浄になると信じている人は、見るのです。この見る人は、正田先生の説明にあるように、「名前と形態(名色:現象世界)を〔常住〕見る」のです。ここで現象世界を常住と見るということは、注釈書の解釈です。現象世界を無常と見ないで、常住と見ると捕捉しなくても、「私は知る。私は見る」ことで、清浄ならないことは昨日説明しました。

見ることで清浄になると信じている人は、そのようにするのだから、自分の好きなように見ればよいだろうという解釈になります。しかし、注釈書によれは、聡明な人は常住と見ることで清浄になるとは考えていないのだと説いているのです。

明日の偈への予備的説明という意味は、明日の偈は自分の見解に固執している人は、自分の見解を容易に変えられないと述べているからです。


見る人は 名色を見て 知るだろうが 清浄になる とは説かれぬ<909>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


〜〜〜〜〜〜お知らせ〜〜〜〜〜〜

◎特別連絡:6月12日(金)から6月16日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090−2311−9317に御連絡下さい。


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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。
こういった「見」に関する教えは、なかなか難しいです。でも先生が、「現象世界を常住と見る」という注釈書の内容を紹介してくださったおかげで、なんとかしがみつくことができました。次の偈の「自分の見解に固執している人」についての教えも楽しみです。明日もご指導よろしくお願い致します。
「名前と形態(名色:現象世界)を〔常住〕見る」のです。
kempsford
2015/06/09 04:16
おはようございます。毎日、為になるお話有難うございます。
「聖者は見ることによって清浄にならないことを知っている。なぜならば物事は常住ではないからである」
清らかになりたいという方がいます。しかし、生きていく以上清らかになることは困難なことなのかもしれません。仏教では死ぬときは心を清らかに成長させておきましょうという教えがあります。
私も存在欲とおびえで成り立つ原始脳の支配から脱せるよう精進したいと思いました。有難うございました。
みき
2015/06/09 04:42
常住であることを補足した理由は「私は知る。私は見る」という場合、「私がいて、その私が「何か」を知る。見る」つまり「有論」を前提にしてるから、、という解釈が可能のように思います。

例えば「私は花を見た」という場合、変わらぬ「私」が存在し、変わらぬ「花」も存在する。という立場に立てば、それは常住論になるのではないかと思います。

2015/06/09 04:44
おはようございます。
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「見ることで清浄になると信じている人は・・自分の好きなように見ればよいだろうという解釈に・・」を印象的に感じました。
自分の好きなように見る、が普通になっていると思います←それで心が清浄になる事はない・・と感じます。
昨日の「「私は知る。私は見る」ことで、清浄ならない・・」を踏まえて、明日の偈からも学ばせて頂きます。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
身の丈修行者
2015/06/09 06:21
見る事で清浄になるのでしたら、話は早いように思います。ですが実質はそうではありません。何か違う事を違うと気が付かずにやってしまう恐ろしさを感じます。何が問題なのか、事実は何なのかに気が付いて、そしてその域を超えて成長出来る様になりたいです。
こころざし
2016/11/14 07:28

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