ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 聖者の4つの階梯(預流,一来,不還,阿羅漢)

<<   作成日時 : 2017/02/02 04:20   >>

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ワン爺の独り言(2017.2.2.)
「聖者の四つの階梯」については、ダンマパダやスッタニパータの解説で何度か述べました。預流,一来,不還,阿羅漢です。SRKWブッダの説明を読んでみましょう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou030.htm

(以下引用)
【聖者の4つの階梯】
聖者の4つの階梯とは、預流,一来,不還,阿羅漢であり、それぞれの階梯の完成途中にいる人を「向」、完成した人を「果」と呼びます。(預流向、預流果、一来向...) これらの人々は、すでに覚りの境地に至っているか、あるいは覚りの境地に至ることが約束されているという意味で、すべて聖者の範疇に入れるのです。

預流: 覚りの境地に向かう正しい信仰を起こした人、およびその信仰を確立して法(ダルマ)を求める熱望を生じ、正しき精励を実践するに至った人を預流と呼びます。 預流果の階梯に至った人は、すでに覚りの境地に至る聖なる道を歩んでいて、今世においても、来世においてもその道を踏み外すことはありません。 この流れに沿っていけばいつかは必ず覚りの境地に至る、という意味で預流と呼びます。

一来: 仏縁があり、ブッダへの正しい帰依を起こして法(ダルマ)を求める正しい熱望によって諸仏の智慧を正しく理解した人ですが、この世において修復不可能な転生の素因を図らずも残している人。 あるいは自らがブッダになろうとする正しい発心を起こし、覚りの境地に至る道を無分別智ではなく分別智として正しく理解した人。 彼らが一来と呼ばれます。 一来果の階梯に至った人は、来世において必ず覚りの境地に至るということが約束されています(授記)。 現世に一度だけ戻ってくるので、一来と名づけます。

不還: 覚りの境地に至る正しい道を歩き、意識することなく自らのカルマ(業)を減じつつある人、および自らのカルマを滅尽するに至った人を不還と呼びます。 不還果の階梯に至った人は、今世を最後として生まれ変わることが無くなります。(最後身) 不還果は、人生の最期において輪廻の素因が無くなっているためにもうこの世には戻ってはこないのです。 ところで、不還果とは、名称と形態(nama-rupa)のうちの名称(nama)を滅尽した人と言い換えることもできます。

阿羅漢: 覚りの境地に至る正しい道を歩き、正法を正しく理解し、自らのカルマ(業:汚れ)と人類のカルマ(煩悩の根:客塵)を破壊しつつある人、およびそれらを破壊し尽くして識別作用が停止するに至った人を阿羅漢と呼びます。 阿羅漢果の階梯に至った人は、不還果同様に今世を最後として生まれ変わることが無くなりますが、それだけでなくいつでも望む時に人生を終わることができます。 なぜなら、この人は阿羅漢果に達した以後の人生において、いかなるカルマ(業と煩悩の根)も増えることは無いからです。 すなわち、阿羅漢果に至った人は、輪廻の直接の素因およびその潜在的素因を滅し尽くした人であるからです。 ところで、阿羅漢果とは、名称と形態(nama-rupa)の両方を滅尽した人と言い換えることもできます。 なお、師無くして自ら阿羅漢果に至った人を、特にブッダと呼びならわします。
(以上引用)


※ワン爺のコメント
「聖者の四つの階梯」については、ダンマパダやスッタニパータの解説で何度か述べましたが、例えば次のブログ記事を参考にして下さい。
「百年も 真理知らずに 生きるより 真理知って 一日生きよ(ダンマパダ115)
http://76263383.at.webry.info/201206/article_29.html


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
今回は短いので楽です(^^)

ところで先日の「実は人はやさしい」からあるシーンを思い出しました。
その方は小学校の先生、女性でした。
「自分のクラスでイジメが問題になっている。イジメる方に問題があるのは当然だか、イジメられる方にも問題があるのではないか。」とのご意見でした。
何とか自分の意見に同調してもらいたいようでしたが、周りの人たちの理解は得られません。とても苦しそうに見えました。イジメられる方も問題だとしないと自分が保てないのだな、と思いました。そして、やさしいさが無ければ苦を感じることもないのであろうと。
クリームコロッケ
2017/02/02 08:15
こんにちは。
書き込み失礼致します。

自分は、平気で人を殴ったり蹴ったり出来る子供でした。
そうすると、歓声が上がって、みんなが笑うから、これは、喜ばしい良いことだと思っていました。
でも、ある放課後、自分が蹴って泣かした男の子が彼の弟君と遊んでいるのを見かけて、声をかけたことがありました。
「何してるの?一緒に遊ぼ。」
と言って、遊んでいると、向こうに三人の男の子の姿が見えて、彼らは彼を見つけた途端、笑いながらこちらに向かって歩き始めました。
その様子を見た瞬間、彼の弟君が言いました。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
そう言って、震えながら兄を見つめる弟くんに彼は、言いました。
「大丈夫。お前は心配するな。」
そう言って、強く弟君の手を握りしめて真っ直ぐ彼らを見つめ返す彼の表情と彼の幼い弟君の姿を見たとき、彼は、殴られるべき人ではないと思いました。
なぜでしょうか?
クラスの中に居るとき、自分は、この人を殴っても良いと見て居たのです。
でも、その根拠こそ根も葉もない幻だったんだと、彼の眼差しに思い知らされました。
あれ以来、暴力をふるっても良い相手など存在しないし、その根拠は幻だと思い知らされ、暴力を振るうことが恐ろしくなっていました。

暴力を振るうこと。
これは、恐ろしいことだと知ることが出来たら、その恐ろしさを知って、もう二度と暴力を振るうことは出来なくなると思います。

今から殴られると知ったとき、人は、あんなにも怯え、震えるのだと見て知ったら、その恐ろしさに堪えられなくなるからです。
てくてく
2017/02/02 11:57

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