ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS 道の歩みに二の足を踏む人々

<<   作成日時 : 2017/07/31 10:30   >>

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ワン爺の独り言(2017年7月31日)
「覚り」に興味がありながら、その道に進まない理由の一つは「とても自分が覚れるとは思えない」ということではないでしょうか。それに対して、SRKWブッダ今回の理法で次のように述べておられます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou177.htm



(以下引用)


【道の歩みに二の足を踏む人々】



覚りにまったく興味が無い人はさておき、覚りに興味を持ちながらも人々が実際にはこの崇高なる道の歩みを始めないのは、次のようなことがその(二の足を踏む)理由であると言う。



・とても自分が覚れるとは思えないから


・時間の無駄に終わるのでは無いかという恐れがあるから


・今よりも悪い境涯に落ちてしまうのではないかという不安があるから



これらのことは、道の歩みに二の足を踏む理由として実に尤もな理由である。実際、このような恐れや不安がある人には、覚りを目指すことは決して勧められない。



その一方で、覚りに興味があって、しかもこれらの恐れや不安が無い人には無条件に覚りを目指すことが勧められるかと言えば、そうも言えない。なんとなれば、覚りに興味があって、しかも何ら恐れや不安を感じていない人であっても、覚りを目指すには時期早尚な人があるからである。むしろ、何らの恐れも不安も感じないということが問題なのであって、それが彼が覚りを目指すには時期早尚である根拠ともなっている。



しかしもちろん、その時期早尚な人が自らの意志で敢えて覚りを目指したとき、彼ら(彼女ら)が覚れないとは誰にも(如来にも)断言できないことである。彼ら(彼女ら)が周到に覚ることも充分にあり得るからである。



私(如来)が言えることは、次のことだけである。



『心構え正しく、こころから望むならば、誰でも覚りに至ると期待され得る』



ところで、知恵の輪は、解いて感動を生じなければ知恵の輪としての意味がない。なぜならば、知恵の輪は解いて感動してこそ知恵の輪として完成するのであるからである。それと同様に、人生の岐路は、選択して後、しあわせにならなければ岐路に立った意味がない。人生の岐路とは、選択して後、しあわせになってこそ人生の岐路として後々に語り得るものとなるからである。同じく、この覚りに至る道の歩みは、覚りに至らなければ意味がないものである。この崇高なる道の歩みは、覚りに至ってこそ崇高なる道の歩みとして完成するのであるからである。



知恵の輪を確かに解いた(外した)のに、感動を生じなかった人は不しあわせな人である。人生の岐路を選択して後、しあわせになれなかった人も不しあわせな人である。そして、この崇高なる道を進んだにもかかわらずついに覚りに至らなかった人があるならば、その人こそ本当に不しあわせな人である。なんとなれば、かれ(彼女)がそれ以外の道を歩んでも決して覚りに至ることは無かったからである。



ことの終局を見た人々が、そのことがらについてそれぞれ思い思いに語るのは決して意地悪だからではない。知恵の輪を解いた感動を語る人は、他の人にも知恵の輪を解いた感動をひとしく味わって欲しくて語るのである。人生の岐路について振り返って語る人は、まさしく人生の岐路に立つ人々に、後悔することのない正しい選択をして欲しくて語るのである。そして、諸の覚者が覚りの境地について説くのは、すべての人々がこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至って欲しくてその真実を説くのである。



こころある人は、道の歩みの始めに気をつけて、道の歩みの途中にも気をつけて、道の歩みの終わりにはよりいっそう気をつけて、勇気を持って道を歩み、自らの因縁によって一なる感動(=〈特殊な感動〉)を生じてこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。実際には、覚りに至る崇高なる道の歩みには、恐れるに足ることがらは何ら存在していないからである。


(以上引用)



*ワン爺のコメント
「とても自分が覚れるとは思えない」と思って、覚りの道の歩みに二の足を踏んでいる人々に対するSRKWブッダの回答は、『心構え正しく、こころから望むならば、誰でも覚りに至ると期待され得る』です。

ここで、いくつかの興味あることがらが述べられています。
まず、「特殊な感動」ですが、それを知るには、「智慧とは何か」を知らなければなりません。そのために、「智慧」がテーマである理法の中で、それが解説されています。そのアドレスは次の通りです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou011.htm

智慧とは、「『それ』を正しく理解するならば、直ちに覚りの境地に至るその知見を<智慧>と名づける。」と定義されています。

なるほど、わかりやすくなりました。今まで「智慧とは何か」よくわからなかったのですが、これではっきりしました。それがあれば覚りの境地に至るものです。世間てよく使われている「ちえ」は知恵、人間の知恵で仏の智慧ではないのです。それがあっても覚れません。

さて、「特殊な感動」は智慧が現れた時に感じる感動をいうのです。智慧が現れ時、特殊な感動を感じ、覚りの境地に至ると言うことです。この辺の事情には時間差があるかもしれませんが、一連の現象のようです。

更に、ここでは詳しく書きませんが、この智慧というものは、実は「諸仏の本願」ということですから、つまり諸々の仏の本当の願いであるということですから、各自が本当に望んでいるならば、覚れないはずはないと思います。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
懺悔を為した後も、功徳を積み、事を為しながらも自然に定に入るようなことがあり、そして、知見により感動があったなら、その知見は智慧であったということです。
Satya
2017/07/31 17:23
> この智慧というものは、実は「諸仏の誓願」ということですから、

「諸仏の誓願」について明確な解説です。一気に納得できました。
Satya
2017/07/31 19:27

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