ワン爺の独り言(旧困った時はダンマパダ)

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zoom RSS どうすれば覚りに近づき至るのであるか?

<<   作成日時 : 2017/08/01 10:21   >>

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ワン爺の独り言(2017年8月1日)
今回は「精励とは何か?」そして精励すべきことを教える理法です。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou178.htm
「精励とは何か?」については、2017年2月15日の次のアドレスのブログ記事で引用しました。
http://76263383.at.webry.info/201702/article_15.html




(以下引用)


【どうすれば覚りに近づき至るのであるか?】



実のところ、覚りに至るこの一なる道には「これを知りこれを為せば覚りに近づき至る」というような固定的な教義は無く、また覚りに至る手続き的な修行法も何一つとして存在してはいない。

しかし、このように言うと、

 では何をどうすれば覚りに近づき至るのであるか? そもそも覚りに近づくことはできないのか?

と問う者が現れる。

その問いには、次のように答えなければならない。



 『人は、精励することによって、右も左も分からない混迷の中から何を為すべきであるかが次第次第に見えてくるようになる。そして、人はそのように精励するなかでついにやすらぎの彼岸へと渡るのである。』



また、重ねて問うものがある。

 精励するとは、具体的にはどういうことなのか?

この重ねての問いには、次のように答えなければならない。



 『精励するとは、平等・信・徳行においてつとめ励むことを言う。 正しく精励したときには、後悔のない行為を為したという確かな充足を得るので自らそれと分かるのである。』



聡明な人は、自ら為す精励によって道を見い出し、精励によって道の歩みを堅固ならしめ、たゆむことなく歩み行きて、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。覚りに近づき至るには、それが唯一の方法であるからである。


(以上引用)



*ワン爺のコメント

「精励」についての引用は次の通りです。

(以下引用)
【精励】
<精励>とは、平等、信、徳行においてつとめ励むことを言う。正しく精励したときには、後悔のない行為を為したという確かな充足を得るので自らそれと分かるのである。

平等において精励するとは、生まれながらに生じた立場や身分の違い、また社会的に生じた立場や身分の違い、あるいは個人的な思い込みになどよって誤って生じた立場や身分の違いの認識などのあらゆる立場の違いや身分の違いを超えて、自分と他の人々との間に横たわる心的な垣根を取り払うことを目指すものである。これによって慈悲喜捨のこころが培われる。

信において精励するとは、人間不信と自己嫌悪の原因が相手にあるのでも無く、また自分にあるのでも無く、それらの根元が人ならざる心的汚れや心的塵からの突き上げであることを正しく認識し、それらを根こそぎ取り払わんと願うことである。すなわち、罪を憎んで人を憎まないこころを培うのである。これによって、人は正しい信仰のあり方の確立するのである。

徳行において精励するとは、自力では気づくことさえ出来ない自分自身の心的欠点を他の人と正しく関わることによって目をそらすことなく認識し、そのような心的欠点を持たない人、そのような心的欠点を克服した(であろう)人を(無条件に)尊敬する心を培うことを目指すものである。 やすらぎの基たる、円かなるこころの確立を目指すのである。

人は、精励することによって何を為すべきであるかが次第次第に見えてくるようになる。人は、精励することによって右も左も分からない混迷の中から、自分が今何を為すべきであるかが次第次第に見えてくるのである。 これこそが、精励の利益(りやく)でありすべてである。このことを、釈尊は「海を渡る」と譬えている。

●ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。 勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。(スッタニパータ)

●ひとは、信仰によって激流を渡り、つとめはげむことによって海を渡る。勤勉によって苦しみを捨て、明らかな智慧によって全く清らかとなる。── 以下略(ウダーナヴァルガ)

けだし、精励こそが、どの方向を見ても水平線しか見えない広い海の中で進むべき方向を常に正しく示してくれる唯一の羅針盤である。人は、このようにして世間という名の海を渡り、ついに彼岸に達するのである。

[補足説明]
『我が国は和を以て尊しとなせ』という十七条憲法・第一条の言葉は、精励の意味を良くとらえていると言ってよいであろう。けだし精励とは、為し難きを敢えて為そうとするたゆまぬこころの推進力であり、その障害が本能に基づくものであればあるほど精励する価値があるからである。なぜならば、それが本能に基づくこころの障害であるゆえに誰しもがそれを克服することが難しいのであり、そうであるからこそ自ら敢えて精励する意義があるからである。その最も困難なことを、他でもない自分が敢えて為し、自ら率先して克服しようとする揺るぎなき不断の行為こそが精励の本質である。そして、正しい精励は正しい発心に支えられて生じるものである。
(以上引用)

2017年2月15日のブログのコメント欄には、Satyaさんの面白い投稿がありますので、そちらも是非お読みください。





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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
最初に「平等・信・徳行」それぞれについて頭で理解するというより、道を歩むことによって、自分の心の深いところから湧き出てくるソレゾレについて「平等・信・徳行」だと後づけで理解するといったところでしょうか。

智慧が生じることで、それが明確に「平等・信・徳行」だと解るのですが、湧き出てくるソレゾレについて「平等・信・徳行」ではないかと解ることで智慧が生じるともいえます。
Satya
2017/08/01 21:18
上記のコメントは補完されるべき内容であると捉えていただければ幸いです。
Satya
2017/08/01 23:24
<注>
補完 → 封印(削除)
Satya
2017/08/02 07:34

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