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zoom RSS 頓悟ということ

<<   作成日時 : 2017/08/12 10:55   >>

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ワン爺の独り言(2017年8月12日)
「安らぎを求める人は、覚りは頓悟であって漸悟ではなく、いかなる段階の説にも従わないことを領解せよ。」と、なぜSRKWブッダは述べるのでしょうか?
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou189.htm


(以下引用)


【頓悟ということ】



知恵の輪は、まるで突然に解けるものである。しかし、だからと言ってある知恵の輪に取り組んでそれがいきなり解けるわけではない。その一方で、知恵の輪に長時間取り組みさえすればその知恵の輪が解けることが約束されているという訳でもない。また、知恵の輪を解くことは段階的に解決に向かうプロセスであると言うこともできない。では知恵の輪とは何であるのか。それは、人が熱心に取り組むならばいつかふと、まるで突然に解けるもの。それが真実である。



覚りは、頓悟であって漸悟ではない。実際、覚りが訪れた(=解脱した)その瞬間は時間にして2〜3分間に過ぎないからである。しかし、だからと言って観(=止観)に取り組めば直ぐに解脱が起きるというわけではない。覚りは観の完成に伴い、その後因縁によって不意にもたらされるものである。ゆえに、これを頓悟と名づけるのである。



知恵の輪を解く過程と同様に、覚りを目指して行われる観(=止観)の完成はすぐに達成されるものではなく、長時間取り組むことで達成されると約束されるものでもない。また、これは段階的に達成されるものでもない。ただ、観(=止観)には確かな完成があり、それはまるで突然に為し遂げられるのである。さらに、解脱は観の完成後に、さらに人と世の真実を知ろうとするこころからの熱望によってついに達成されることがらである。



ところで、知恵の輪は熱心に取り組んでいる間にその何たるかが、つまりその仕組みがうっすらと分かってくるものである。そして、知恵の輪はついに解けることになる。それと似て、覚りは人が円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至ることを熱望するうちに、真のやすらぎが何であるのかが、つまり人の完成とは何であるかが微かに覚知されてくる。そうして、因縁を得てついに解脱は起きるのである。



安らぎを求める人は、覚りは頓悟であって漸悟ではなく、いかなる段階の説にも従わないことを領解せよ。こころから熱望する人はついに解脱して、頓悟の真実と全貌とを如実に知ることになるからである。



(以上引用)



*ワン爺のコメント
なぜ「「安らぎを求める人は、覚りは頓悟であって漸悟ではなく、いかなる段階の説にも従わないことを領解せよ。」とSRKWブッダが述べるのか?の回答はこの理法にはありません。

私の解釈では、覚りは頓悟であって漸悟ではないということが事実だからでしょう。さらに私の解釈を加えると、修行者の中には、覚りも何か習い事の習得のようなイメージを持っている方がおられて、習得すべき範囲が決まっていて、それを段階的に習得するものように勘違いしている場合が多いのです。そこで、「覚りはいかなる段階の説にも従わない」と述べられているのです。

仏教では四段階の覚り(豫流果、一来果、不還化、阿羅漢果)があると教えていますが、それぞれの覚りが頓悟なのです。豫流果の覚りの後に、それがそうであったのかと気づくのであって、それ以前は何の実りもないものです。豫流果、一来果、不還化、阿羅漢果と段階的に覚りに近くというものではないとSRKWブッダは教えているのだと思います。

最後に、すでに述べましたが、どれだけ習得しなければいけないという思いではなく、真実を知ろうとする熱望することが大切です。







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