#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 41偈



41 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。悪いことをしたならば、(のちに)憂える。悪いところ(=地獄)に行って憂える。

(ダンマパダ314 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

悪いことをするよりは、何もしないほうがよいのです。

人を悲しめるようなことはするなということです。どうなるかわからないときは、何もしないほうがよいのです。

なぜならば、あとで後悔することになるからです。

人を悲しませるようなことをしたならば、あとで苦しみます。死んでも、苦しむところに行くのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 40偈

40 束縛から迷いの生存が生じ、束縛から離れることから迷いの生存が滅びる。聡明な人は生存の生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、諸の束縛を超えるようなその境地を学べ。

(ダンマパダ282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前回の39偈で、衆生は束縛によって迷っていると述べられましたが、今回の40偈では、そもそも迷いの生存(衆生)は束縛から生じたのだと説かれています。

しかし、束縛から離れることで、迷いの生存(衆生)が滅びると説かれています。これは、衆生が解脱して仏(ブッダ)になれるということですが、これができると言っているのです。

参考のために引用したダンマパダ282とは、後半の「生じることとほろびることとのこの二種の道を知って」という言葉が同じです。二種の道を知ることは解脱にとって重要な意味をもつことですが、それはスッタニパータ第4章大いなる章12、二種の観察 という経で詳しく述べられています。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 39偈

39 愚人は束縛によって迷っているが、賢者は束縛を断ち切る。聡明な人は束縛を取りのぞいて___ここに神々と人間とのすべての束縛を断ち切って、あらゆる苦しみから解脱する。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今日は、束縛について解説します。ダンマパダ345、346を引用します。

「 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)を、思慮ある人々は堅固な縛(いましめ)とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、___それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩(ゆる)く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。」

つまり、鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)も縛ではあるけれども、堅固な束縛ではないと述べています。一方、宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれることは堅固な縛だと言っています。

それは、なぜか? 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(かせ)は、外部の縛なのです。自分でもそれが縛であるとわかるのです。しかし、宝石や耳環・腕輪や妻子は内部の縛なのです。自分ではそれが縛であるとわからないのです。ですから、自分でその縛を外そうとしないのです。それで、それが堅固な縛であるというのです。それから解放できず、それから自由になれないのです。

内部の束縛には、宝石や耳環・腕輪や妻子など形のあるものもありますが、形のない概念(思い込み)があります。衆生はこの概念に束縛されています。善悪も概念です。衆生は善悪の概念に束縛されています。

また、衆生はお金によって苦しめられていますが、お金の本質は概念です。この概念から解放されて、自由になったらよいでしょう。それはできることです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 38偈

38 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかける<道の人>は存在しない。愚人どもは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者たちは汚れのあらわれをはなれている。 

(ダンマパダ254 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚(汚が)れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

仏教用語に親しまれている方のために、今回の偈を仏教用語に戻してみると次のようになります。

虚空・・・・・・・空(くう)
足跡・・・・・・・相(そう)
<道の人>・・・・菩薩
汚れのあらわれ・・戯論(=妄想)
愚人・・・・・・・衆生
修行完成者・・・仏(如来)

両方の言葉から、今まで持っていた言葉のイメージから離れて、理解するようにして下さい。

ちなみに、「外面的なこと」とは、相(そう)です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 37偈

37 情欲にひとしい激流は存在しない。(不利な骰の目を投げたとしても、)怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。 

(251 情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、情欲と怒りと迷妄、そして妄執(渇愛)について述べたものです。

これらの言葉の意味を理解するために、参考になるように次のようにまとめてみました。

情欲・・・・・・・名称に基づく欲
怒り・・・・・・・名称と形態に基づくものがあります。
迷妄・・・・・・・名称に基づく混乱
妄執(渇愛)・・・形態に基づく混乱

さて、昨日紹介した動画の続編がありましたので、それのアドレスもお知らせします。

リセット医療と糖尿病:リセット医療から自立した健康生活へ
https://www.youtube.com/watch?v=SlfsWaodhNo&frags=pl%2Cwn






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 36偈

36 恐ろしい道を渡り終わった。深淵は避けられた。軛や束縛からは解放された。情欲の毒はすべて根だやしにされた。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「情欲の毒はすべて根だやしにされた。」について、少し唐突かもしれませんが、参考になる動画を見つけましたので、紹介します。

リセット医療と糖尿病: 糖尿病は心の病気
https://www.youtube.com/watch?v=WRvpQ8KsxpY&frags=pl%2Cwn

実は妻が糖尿病なので、その改善に参考になる情報はないかと思っていましたので、見つけたものです。

この動画では人間をコップにたとえて、コップのなかには色々なものが入っていると考えます。コップのなかには、いろいろな臓器や血液の他にも感情や緊張が入っています。そして、感情や緊張は常に変化している。感情や緊張が増えて、コップから溢れ出てた時に、病気の症状として現れるのだと教えています。

別のたとえでは、手のひらに、豆腐や卵を始めはそってに握って、次に力をいれて握ると、指の間から豆腐や卵が出てきます。その指の間から出てきたものが病気の症状だというのです。

このように考えると、感情や緊張が病気の原因で、感情や緊張を取り除けば病気は改善されるというのです。糖尿病も同じであるというのです。

この偈に戻ると、情欲の毒とは、人間が生きていくために必要な欲以上の欲です。コップから溢れ出る欲がなくなるということです。

多くの感情や緊張は、過剰な情欲であらわれますので、それがなくなれば、病気はなくなり、人間は安定するのです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 35偈

35 すでに旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆる束縛をのがれ、解脱した気高い人には、悩みは存在しない。

(ダンマパダ90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆(きずな)をのがれた人には、悩みは存在しない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「すでに旅路を終え」とは、人生の旅路とも考えられますが、輪廻の旅路とも考えられます。遍歴修行の旅を終えたのです。

これは、世界と人生の根本がわかったということです。これ以上は知る必要がないという境地です。しかし、世界と人生の具体的な現れはいろいろで、面白く、楽しいのです。

人々が憂うことがらも、だからどうなの、なんとかなると思え、実際になんとかなるのです。

それは、あらゆる束縛をのがれているからです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 34偈

34 真理が正しく説かれたときに、真理を見とおす人々は、全く死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。

(ダンマパダ86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)にいたるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「真理が正しく説かれたときに」は、ブッダが真理を説く時ではありますが、このブッダは化身の時もあります。

化身とは、自分がその時ブッダであるという自覚もなしに、法界からの情報を伝える人です。化身は年齢、性別、職業などに関係ないので、子供の場合も老人の場合も女性の場合も男性の場合も、貧乏な人の場合も金持ちの場合もあります。誰が化身であるか見た目ではわかりません。しかし、その時のその人の心にはやさしさがあります。

その言葉を聞いて、その言葉が真理であると理解することは、自分の力で行わなければなりません。ブッダとわかっている方の言葉を聞いて、それは真理だろうと思うのは、自分の力で真理を理解したことになりません。

その意味では、善知識(化身)の言葉を聞いて、それは真理であると理解した時が本物なのです。その時、人は解脱するのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 33偈

33 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸に沿ってさまよっているだけである。

(ダンマパダ85 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

SRKWブッダの過去のtwitter歴で、「彼岸に達する人々」に関する言葉を調べて見ました。
次のような言葉がありました。

(以下引用)

すでに慧解脱した覚者(=如来)にとって、覚りは特別な現象では無い。しかしながら、現実には覚る(=解脱する)人は極めて少ない。その本当の理由は不明である。
(2018.1.10)

長く修行したのであるから、仏になってはいないとしてもせめて阿羅漢、少なくとも心解脱者にはなっているだろうと思いたい。その気持ちは理解出来る。しかしながら、世を見るに預流に達している人さえ少ない。これが現実である。

これから真剣に仏道を歩むつもりの人が、生きている間に仏にはなれないにしてもせめて阿羅漢、少なくとも心解脱者にはなりたいと思うのは不当なことでは無い。しかしながら、現実には初期の心解脱に達する人さえ少ない。
(2018.1.11)

この世で実際にニルヴァーナに至る人は、少ない。その本当の理由は不明であるが、推定されることは修行者と称していてもニルヴァーナを真に求めている人は少ないということである。ゆえに、聖求が問われることになる。
(2018.3.11.)

この世で覚り(=解脱)に達する人は、少ない。覚るための修行法が説かれることは無く、予め分かっていることは人は解脱し得るということだけである。しかしながら、ある人々はついに覚る(=解脱する)。彼らは、解脱しようと思い、功徳を積んだからである。
(2018.12.11.)

仏道が広大で、平らか、どこからでも通じており、危険の無い道であるならば、もっと多くの人々が容易に歩み得て、沢山の解脱者(覚者)が出現しても良さそうである。ところが、実際には少ない。
(2019.7.11.)

(以上引用)

面白いことに、SRKWブッダが、このような言葉を呟く日は10日から11日だった。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 29偈〜32偈

29 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端(はし)に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、遠ざかり離れることであるならば、かれの足跡は知り難い。空飛ぶ鳥の迹の知り難いようなものである。

(ダンマパダ93 その人の汚(けが)れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱(げだつ)の境地は空(くう)にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。___空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。)

30 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれの行く路のたどり難いようなものである。空飛ぶ鳥の迹のたどりがたいようなものである。


31 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれの足跡はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。
 
32 その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端(はし)に依存することなく、その人々の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれの行く道はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹のたどりがたいようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回の29偈〜32偈は、前回の25偈〜28偈と同様に、言葉が少し変わっているだけであります。特に、30偈と32偈の違いはほとんど変わりません。どこがちがうか探すのは面白いかもしれません。

さて、「その人々の迷いの生存は消え失せ、こなたの端(はし)に依存することなく」について、少し解説すれば、衆生であることを終え、この世での生きることに執著することがないということです。いつ死んでもいいという心境です。しかし、死にたいということでもありません。この世が結構楽しく、面白いのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 25偈〜28偈

25 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、遠ざかり離れることであるならば、かれらの足跡はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。

(ダンマパダ92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。___空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。)

26 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、遠ざかり離れることであるならば、かれらの行く路はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。
 
27 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれらの足跡はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。 

28 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であり、心の安定統一であるならば、かれらの行く路はたどり難い。空飛ぶ鳥の迹(あと)のたどりがたいようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

25偈と26偈の違いは、「足跡」と「行く路」です。その違いの意味は「過去」と「未来」です。

25偈、26偈と27偈、28偈の違いは、「遠ざかり離れること」と「心の安定統一」であります。それぞれの意味は、前者は執著をなくすこと、後者は心が落ち着き静かになることです。

これらの偈に共通する重要な言葉は、「財を蓄えることなく」と「食物についてその本性を知り」です。

財を蓄えるとは、必要以上の物を貯めることですが、これは貪欲と不安があるのです。解脱した人には貪欲はなく、不安がありませんから、財を蓄えることはないのです。

これらの偈で言う食物とは、口から入れる食べ物だけではないのです。エネルギーと考えてください。人間はエネルギーがなければ生きていけません。身体だけではなく、心にも同様です。身体が悪い食べ物を取れば、身体を害します。もちろん、良い食べ物を食べれば、健康になります、心の同様です。心に悪い食べ物(貪欲、怒り、愚かさ)などを取れば、心は害されます。心によいエネルギーをとるようにしてください。それは何か、簡単に言えば功徳を積むことです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 24偈

24 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王と(戒律と邪まな見解という)二人の博学なバラモンをほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。) 

(ダンマパダ294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

(ダンマパダ295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

24偈のカッコ内の文は訳者が補ったものです。このカッコを取った原文は次のようになります。

「母と父とをほろぼし、二人の武家の王と二人の博学なバラモンをほろぼし、従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。」

これでは、意味がわかりませんが、母、父、二人の武家の王、二人の博学なバラモン、国土、従民というのはあるものを象徴です。

その意味するものを訳者が補っているのですが、2009年7月25日に、ダンマパダ294、295について解説していますので、それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200907/article_27.html

(以下引用)
「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきます。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解しておきます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っているのか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いです。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからです。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

(以下引用)

 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 23偈

23 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人___かれこそ実に最上の人である。

(ダンマパダ97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)由なく、欲求を捨て去った人、___かれこそ実に最上の人である。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ97についての2009年3月13日に私が書いた解説は次の通りです。
https://76263383.at.webry.info/200903/article_13.html

(以下引用)

盲信せずに、無為を知り
輪廻のつなぎを断つ人は
法に従い、欲捨てた
彼こそ実に最上人

○この詩から学ぶこと

 この詩ができた因縁物語は次の通りです。釈尊は最終的な悟りに近い三十人の比丘たちに、あることを教えるために、サーリプッタ長老を呼んで、質問しました。「サーリプッタよ、人は私の教える瞑想によって涅槃に到達できることを信じるか?」 それに対してサーリプッタ長老は「尊者よ、私が涅槃に到達できたのは釈尊の言葉をそのまま信じたからではありません。」と答えました。それを聞いて、三十人の比丘たちは驚き、サーリプッタ長老を非難しました。釈尊は「比丘たちよ、誤解してはならない。サーリプッタ長老は瞑想によって涅槃に到達できると答えたのだ。ただし、私の言葉を盲信したからではなく、自分自身でよく学習し、実践によって理解して、盲信ではなく確信して涅槃に到達したのだ。」と説かれたということです。

 仏教では「信」を重要なことと考えています。これは「真理」対する「信」です。具体的には、仏(仏陀)、法(真理)、僧(聖者の僧団)、四聖諦、因果法則などに対する「信」ですが、盲信ではなく、理解に基づく確信なのです。これがないと、自信を持って修行ができないのです。

 無為とは有為の反対の言葉ですが、有為は現象の世界です。ですから、無為は現象世界を超えた涅槃を意味します。無為を知りとは、涅槃に到達して、涅槃の世界を体験したという意味です。
それは、つまり、生命を輪廻に結びつけている煩悩を断ち切ったということです。

 「法に従い」は、直訳すると、「機会を失う」ですが、私は「行いが法に適っていて、善とか悪とかを行うことではない」という意味だと理解しています。そのような人は当然、欲を捨てています。そのような人は阿羅漢ですから、最上の人なのです。

(以上引用)

だいたいこの通りですが、「作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り」とは、もっと具体的に書けば、善知識(善友)から法の句を聞いてとなります。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 22偈

22 われは、迷いの生存のうちに恐ろしさを見、また迷いの生存のうちにさらに破滅を見て、それ故にわたしは迷いの生存を喜ばない。
 わたしは生存の滅亡を(執著して)喜ぶこともない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

衆生(人々)は、迷いの生存に執著して、苦しみながらも喜んでいます。それゆえに、死を恐れ、何としても生きたいと思っているのです。

ブッダは、迷いの生存を喜ぶことが苦であることであると知り、迷いの生存のうちに恐ろしさを見たのです。

そして、ブッダは迷いの生存から、また迷いの生存が生まれ、苦が繰り返される恐ろしさを知ったのです。これが破滅です。それ故に迷いの生存を喜ばないのです。

生存の滅亡とは、死を意味しているのでしょう。単なる死は、迷いの生存を克服することにはなりませんから、死を喜ぶことはないのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 21偈

21 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われらはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

(ダンマパダ320 戦場の象が、弓から射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈を読んで、ダンマパダ227を思い出します。

「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。」

誰もが人に非難されることは嫌です。人に非難されると落ち込んだり、或いは怒りが現れます。非難された時に現れる嫌な感情も因縁によって現れるのです。因縁によって現れる現象は、いくつかの構成要素で成り立っていますから、その現象を変化させるためには、どれか一つの構成要素を変化させればよいのです。

ネットで検索すれば、落ち込みをなくす方法とか、怒りをなくす方法などいろいろ書かれています。そのうちの一つだけでも実践すれば、非難された時の感情を耐え忍ぶことができます。

例えば、深呼吸する、数を数える、上を見る、おまじないを唱えるなどがあります。

自分の悪い感情をよい感情に変えたいという念いさえあればよいのです。

わたしの最近気に入っているおまじないは「ひふみゆらゆらひふみゆらゆらゆらゆらとふるえ」です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 20偈

20 善人で賢者であり道理を考える人々とだけ交われ。深遠にして大いなる道理を知慧によって洞察せよ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(テーラガーター4 善人で賢者であり道理を見る人々とだけ交われ。怠らずに努め、洞察をなすもろもろの賢者は、<深遠にして、見難く、精妙にいして微細である大いなる道理>体得する。)



(中村元訳「仏弟子の告白」岩波文庫より引用しました。)

*法津如来のコメント

「善人で賢者であり道理を考える人々とだけ交われ。」とありますが、実際にはそのような人々とだけ交わることはできません。いろいろな人々と交わります。しかし、そのような人が居られたならば、その人を見逃さないことです。そのような人の言葉を聞くべきです。

特に功徳を積んでいる人には、一大事の因縁により、見た目には善人で賢者とは見えない人の中にも化身(善知識)が現れ、その人の言葉(法の句)を聞くことがあります。その言葉を聞いた人は、その言葉はこの世の言葉ではないと知り、その言葉は法界から来たものだとわかるのです。そこで、その言葉を聞いた人は解脱するのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 19偈

19 善き人々は遠くにいても輝く、___雪を頂く高山のように。善からぬ人々は近くにいても見えない ___夜陰に放たれた矢のように。

(ダンマパダ304 善き人々は遠くにいても輝く、___雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない ___夜陰に放たれた矢のように。  

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

19偈とダンマパダ304は同じ内容です。ダンマパダ304について、過去に三回解説しました。
2008年9月22日
http://76263383.at.webry.info/200809/article_22.html

2009年7月31日
http://76263383.at.webry.info/200907/article_33.html

2010年6月9日
https://76263383.at.webry.info/201006/article_9.html

いずれの解説も歯切れのわるいものでした。よくわからなかったからです。この偈はブッダの立場から述べられたものです。

「善き人々は遠くにいても輝く」といっても、凡夫にはわからないことなのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 18偈

18 村にせよ、森にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

(ダンマパダ98 村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。)
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ98について、2009年3月17日と2010年1月17日に解説のブログを書いています。そのアドレスはそれぞれ次の通りです。
https://76263383.at.webry.info/200903/article_14.html
https://76263383.at.webry.info/201001/article_17.html

これらの解説は、私が比丘であった時のものです。間違っているわけではありませんが、解脱して、如来になってから、この偈を読むと異なる感想があります。

「聖者の住む土地は楽しい。」ということは真実であるということです。聖者はいつも、明るく、楽しいのです。楽しさのエネルギーは伝播します。まわり人々に伝わります。
私は、毎朝ラジオ体操に、近所の運動広場に行きます。初めて3年ほどになりますが、参加する人々が明るくなりました。以前はラジオ体操の歌を歌わなかったのです。音痴の私が大きな声で歌いますので、みんな歌うようになりました。

ラジオ体操の歌の歌詞がよいのです。

新しい朝が来た
希望の朝だ
喜びに胸を開け
大空仰げ
ラジオの声に
健やかな胸を
この香る風に開けよ
それ、一、二、三




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 17偈

17 森は楽しい。世の人々はここで楽しまないが、情欲のない人々はここで楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。

(ダンマパダ99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。)
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昔は、電車の中では、新聞や本を読んでいる人がほとんどでしたが、今ではみんなスマホをやっています。何をやっているのかと思ったら、ゲームをやっているのです。このような人々は森の中では楽しめないだろうと思います。もっとも、森の中にスマホを持っていって、そこでゲームを楽しむかもしれません。

「森は楽しい。」というのは、スマホなしで、森の中の生活を楽しんでいるのです。

森の生活は困難です。ゴータマ・ブッダのおられた時のインドの森は猛獣や蛇、危険は動物がいたでしょう。今の日本の森でも、電気やガスがなければ、生活は困難です。

それでも、その困難にまして、情欲のない人々は森の生活を楽しめるのです。困難が楽しいと思えるのです。困難が楽しいというのは、都会の人々がわざわざ森に行って、キャンプを楽しむということでもわかります。

それよりまして、森には都会の騒音がないのです。しかし、小鳥のさえずりや水の流れる音が聞こえるところもあります。心は静かになり、落ち着きます。すべてがありがたく、楽しくなるのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第29章 ひと組みずつ 16偈、16A偈〜16E偈

16 つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに勤めはげむ者は、情欲にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。  

(ダンマパダ8 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。___岩山が嵐にゆるがないように。

16A つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、憎しみにうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16B つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、迷妄にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16C つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、慢心にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16D つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、貪りにうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

16E つねにこの世のものを不浄であると思いなして暮らし、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに心の統一している者は、愛執にうちひしがれない。___堅固な岩山が嵐にゆるがないようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

今回の16偈、16A偈〜16E偈は、昨日掲載した15偈、15A偈〜15E偈と対をなすものです。

「この世のものを不浄であると思いなして」とありますが、世の中のものに、価値を置いて執著しないことと考えて良いでしょう。
若い時は、何かに熱中して、興奮して生きることが、楽しい充実した人生だと考える傾向にあります。確かに、それも一つの人生であり、そのようなこともありますが、その際にも、感官をよく慎しみ、食事の節度を知り、目ざめているときに勤めはげむことが必要なのです。それにより、情欲、憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執などによって、悩み苦しむことがなくなります。