#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 29偈

29 さとりのよすがとなる七つのことがらをよく実修し、善いことをなす性(たち)で、つねに心の安定統一している人を<修行僧>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「さとりのよすがとなる七つのことがら」について、ダンマパダ89ではつぎのように述べられています。

「覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。」

仏教の伝統的な理解では、これは七覚支と呼ばれ、何回か解説しました。興味ある方は参照して下さい。
https://76263383.at.webry.info/201001/article_9.html

ここには七つとありますが、七つすべてを実修しなければならないというものではなく、これらの方法を参考に、自分のあった方法で、修行を進めればよいのです。いろいろ紆余曲折があるでしょうが、その間、功徳を積み、よく気をつけていれば、因縁によって、「法の句」を聞き、解脱するということになるでしょう。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 28偈

28 身体にも、ことばにも、心にも、悪が無くて、善いことをなす性(たち)で、恥を知る最上の人を<修行僧>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

自分は元気だから、コロナウイルスに感染しても大丈夫だと思う人は、恥を知らない人です。

元気でウイルスに感染しても症状がでなくても、他の弱い人に感染させることもあります。ですから、注意しなければいけません。

恥を知る人は、他の生きものを気遣うやさしい人なのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 27偈



27 満足し、感官に気をくばり、戒律をつつしみ行ない、食事について節度を知り、人々を離れたところで臥し坐し、心について専念する、___この人は<修行僧>とよばれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「満足し」・・・修行者は満足が目標です。覚りの境地はすべてが満足だからです。自分が満足してない事柄を明確にして、それがなぜだろうか考察してはどうでしょうか? いろいろわかってきます。

「感官に気をくばり」・・・眼、耳、鼻、舌、身体の感覚を漠然と感じることも大切ですが、ある時は、別々に感じてみてはいかがでしょうか? 眼を閉じて、遠くの音や微かな音を聞いて見ると、心が静かになります。鼻でも微かな香りを感じてください。何も食べていなくても、舌は感じています。注意深く感じていると、自分の健康状態や心の状態もわかります。心が静かな人は唾液が甘く感じることもあります。これを甘露と言ったりもします。

「戒律をつつしみ行ない」・・・本当のやさしさを追求し、それを実践しようとしている人は、いわゆる戒律を犯すことはないでしょう。戒律の条文にとらわれることは、正しい道から外れることもあります。

「食事について節度を知り」・・・食事は、上で書いたことすべてを含んでいます。節度を知るとは満足することです。そのためには、感官に気をくばることが必要なのです。それなしには、満足することができません。

「人々を離れたところで臥し坐し」・・・これは実際には心の問題なのです。修行は各自の事柄なので、人々と群れたり、依存したりしないことです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 26偈

26 それ故に賢者は禅定と知慧とにつとめはげめ。これは、そのように明らかな知慧ある修行僧のはじめのつとめである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日は、23偈を掲載しましたので、一昨日に掲載した25偈を復習します。

「25 明らかな知慧の無い人には、禅定が無い。禅定を修行しない人には、明らかな知慧が無い。禅定と知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。」

26偈のはじめの言葉「それ故に」とは、「明らかな知慧の無い人には、禅定が無い。禅定を修行しない人には、明らかな知慧が無い。」からということです。

すなわち、それ故に、賢者(修行者)は禅定と知慧とにつとめはげめということです。

25偈の解説では、六祖慧能の言葉を引用して、禅定と智慧とは一体であることを説明しました。
ですから、二つのことを行う必要があるというよりは、一つのことを行えばよいということです。

では、一つのこととは何か? それを見出すことが知慧につとめはげめということです。初めから正解がでないかもしれないので、気をつけて、遍歴修行するのです。その過程は禅定につとめはげむことになっているのです。

その過程で、もの足りなさを感じる方は、心が静かになっているか、心から悪意がなくなっているかチェックしたらどうでしょうか。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 23偈

23 心が勇み、こころ楽しく、愛憎に打ち克って、喜びにみちた修行僧は、苦しみを滅ぼすに至るであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

23偈を飛ばしてしまったことに気がつきましたので、今日掲載します。

この偈のテーマは、愛憎です。愛することと憎むことです。どなたもそのような感情を持ったことがあるでしょう。自分がそのような感情をもった時の心を思い出して、その心をよく感じてください。

愛したときは楽しく、憎んだは苦しく辛いというような単純ではありません。実際にはいろいろな感情が混じり合って複雑です。

愛していると言っても、相手を愛しているのではなく、自分を愛しているいるのです。相手の幸せを望んでいるのではなく、自分の幸せを望んでいるのです。そうではなければ、憎みなどはあらわれません。

愛している時も、憎んでいる時も、心は揺れ動いているのです。心の動揺は苦しみなのです。

さて、そこで、愛憎に打ち克つにはどうするか? この偈では、「心が勇み、こころ楽しく、」と述べています。

「心が勇み、」とは、愛憎の心から離れることです。

「こころ楽しく、」とは、元気をだして、縁ある人にやさしくすることです。

そうすれば、修行者は楽しくなって、苦しみを滅ぼすことができるのです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 25偈

25 明らかな知慧の無い人には、禅定が無い。禅定を修行しない人には、明らかな知慧が無い。禅定と知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。
 

(ダンマパダ372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

智慧と禅定の関係について、六祖慧能の「六祖壇経」に次のように述べられています。
(中川孝著「六祖壇経」タチバナ教養文庫)より引用します。

(以下引用)

「師がいわれた___諸君、私の説く教えは、禅定と智慧とを根本とする。諸君、思い違いをして禅定と智慧とは違うと考えてはならない。禅定と智慧とは一体であって二つのものではない。禅定はまさに智慧の本体であり、智慧は禅定の作用である。智慧そのものをとりあげると、禅定は智慧の中に含まれ、禅定そのものをとりあげると、智慧は禅定の中に収められる。もしこの意味がわかるならば、そのまま禅定と智慧とは平等に学ばれることになる。


修行者諸君、先に禅定を修めてそこから智慧が出て来るとか、先に智慧があってそれから禅定の境地が出てくるなどと考えて、禅定と智慧とはそれぞれ違うものだといってはならぬ。このような考え方をする者は、真理に二つの姿があるということになる。

口先でよいことを述べても、胸中がよくなっていないために、ただ禅定と智慧という項目があるだけで、この二つが一つになっていない。もし心もいうことも同時によくて、内と外が同じであるとき、禅定と智慧とはそのまま等しい。自分で目ざめて身につけて行なうべきで、いい争うことではない。もし禅定と智慧との前後関係などをいい争うならば、それこそどちらもものの正体を見失った人である。勝ち負けの意識が断ち切れないで、かえって一切の法に実体があるとする執(とら)われを増長させ、かの四種の執着から解放されていないのである。」

(以上引用)

尚、「かの四種の執着」とは、金剛般若経の「我・人・衆生・寿者への執著」ですが、これは、自我という思い・生存するものという思い・個体という思い・個人という思いへの執着の意味です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 24偈

24 修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、心をよく安定統一し、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。 

(ダンマパダ378  修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで、」と言われると、先日掲載した第31章44偈、45偈を思い出します。
https://76263383.at.webry.info/202003/article_8.html

「44、45 実に人が安穏を得るために、つねに心が躍り上り、ひるむことなく、善いことがらを修するならば、正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰したその修行僧の心は静かである。ことばも静かである。身の行(おこな)いも静かである。」

行ないが静かで、言葉が静かで、心が静かになるためには、どうするか?

はじめに、そのようになりたいと思っていなければなりません。このブログを読んでおられる方は、そのように思っておられるでしょうから、それを前提に考えましょう。

これらが静かにならないのは原因がありますが、その原因は落ち着かなければわかりません。落ち着くことです。それが「心をよく安定統一し」です。

その方法はどのようにしてもよいのです。深呼吸をするとか、一から十まで言ってみるとか、「だるまさんがころんだ」と言ってもよいのです。
心が落ち着けば、心が静かでない理由がわかってきます。

心の落ち着かない理由は、心の中の「世俗の享楽物」です。それは人によって異なります。ある人はブランド物や、ある人は美味しい食べ物であるかもしれません。享楽物とありますが、恐怖の場合もあるでしょう。今ではコロナ・ウイルスが怖くて心が静かでない人もいるでしょう。

それらを「吐きすてたならば」、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かになります。

この吐きすてるのが難しいと言われるかもしれません。

しかし、大丈夫です。「行ないが静かで、言葉が静かで、心が静かになりたい」と思い続けていれば、必ず、因縁により、そのようになります。それが宇宙法則です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 22偈

22 慈しみに住し、仏の教えを喜ぶ修行僧は、堕落するおそれなく、ニルヴァーナの近くにいる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日、「仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、見るも快い、静けさの境地に到達するであろう。」という偈を掲載しました。今回の偈も同じことを述べているのです。

ダンマパダ32は「いそしむことを楽しみ、放逸に恐れをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。」ですが、この偈の後半も同じです。

「見るも快い、静けさの境地に到達するであろう。」ということは、「堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。」から、このように述べることができるのです。

昨日のこのブロク記事に、halさんから次のコメントを頂きました。

「>そのような方は、見るも快い、静けさの境地に到達するでしょう。

ありがたいことです。
ありがとうございます。」


halさんは、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいるのです。ですから、このようにコメントできるのです。

あとは、よく気をつけて、因縁によって遭遇する善友の「法の句」を聞き逃さないようにすればよいだけです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 20偈、21偈

20 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、見るも快い、静けさの境地に到達するであろう。

21 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

(ダンマパダ368 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

普通の感覚では、あまり面白そうでないこのブログを毎日読んでくださる方は、仏の教えを喜び楽しんでおられる方でしょう。

そのような方は、日々慈しみの心を持って、生活されている方でしょう。

そのような方は、見るも快い、静けさの境地に到達するでしょう。
「見るも快い、静けさの境地」とは、大空や大海原をみるような、いつもは聞こえない音が聞こえてくるような心の状態です。それを覚りの境地(ニルヴァーナ)というのです。

「動く形成作用の静まった」とは、心は自覚できない潜在意識に支配されていますが、そのような潜在意識の働きの静まったという意味です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 18偈、19偈

18 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。在家の行ないをしているのであれば、それでは<托鉢僧>ではないのである。 

19 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。

(ダンマパダ266 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。)

(ダンマパダ267 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。」という言葉がなぜ話題になるのか、わかりにくいのですが、それには理由があります。

インドでは、修行者に食事を施せば、その利益がある(良いところに生まれ変わる)と考えられていましたから、人々は修行者に食事の布施を行なっていました。

ブッダは、清らかな行いをし、真実を明らかにして、解脱しようと心を定めた修行者を弟子にしたのですのですが、その目的をないがしろにして、生活のために、食を乞う人は修行者とは言えないと言ったのです。

「在家の行ない」とは、生きるためだけの行いです。食べるためだけに生きているということです。

一方、食を乞うという行いを、修行のために、清らかな行ないを修め、よく思慮して行っているならば、修行者と言えるのです。

現代では、「食を乞う」とは「働く」という意味になるのです。生活の為にだけ、働くというならば、その働き方は修行者にはふさわしくありません。

しかし、正しく働くことは、世のために、人のために、修行のためになるのです。

お金のために働くのではなく、世のため、人のため、修行のためになる働き方を見出して、働いてください。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 17偈

17 材を蓄積することなく、わがものという思いが存在せず、また(何ものかが)ないからといって憂えることのない人、___かれこそ「修行僧」(托鉢僧)とよばれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「材を蓄積することなく、また(何ものかが)ないからといって憂えることのない人は、何もなくとも大丈夫だとわかっているのです。

このような人は、「無一物中、無尽蔵」(むいちもつちゅう、むじんぞう)ということがわかった人なのです。すべて何もない所から生まれてくるのです。

最近、気がついたことですが、現在では、お金も何もないところから生まれているのです。それを「信用創造」というそうです。興味ある方はネットで調べてください。


憂えるなと、キリスト教でも教えています。マタイによる福音書6ー26
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」 だから、思い悩むなと教えています。

「わがものという思いが存在せず」については、自分自身を含めて、自分のもっているものなど、その起源を探っていくと、自分のものと言えるものが一つもないことがわかります。それが本当に納得できると、わがものという思いがなくなります。はじめから、自分のものがないのだから、何もなくとも憂えることがないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 11偈〜16偈

11 風が吹いても岩山が動揺しないように、修行僧は、情欲が滅びてなくなるから、岩山のようにゆるがない。

12 風が吹いても岩山が動揺しないように、修行僧は、憎しみが滅びてなくなるから、岩山のようにゆるがない。

13 風が吹いても岩山が動揺しないように、修行僧は、迷妄が滅びてなくなるから、岩山のようにゆるがない。 

14 風が吹いても岩山が動揺しないように、修行僧は、慢心が滅びてなくなるから、岩山のようにゆるがない。

15 風が吹いても岩山が動揺しないように、修行僧は、貪りが滅びてなくなるから、岩山のようにゆるがない。

16 風が吹いても岩山が動揺しないように、修行僧は、愛執が滅びてなくなるから、岩山のようにゆるがない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

情欲、憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執については、「第31章 心」の11偈から16偈では、つ次のように表現されていました。

「屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲(憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執)が心に侵入する。」

そして、「第31章 心」の17偈から22偈はつぎの通りです。

「屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入ることが無いように、心を修養してあるならば、情欲(憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執)が心に侵入することが無い。」

修行者は、心を修養しているので修行者なのです。心を修養しているので、情欲、憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執がなくなるのです。

心は、情欲、憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執で揺れ動くのです。その時の心を観察するとそのことがわかります。それがわかりにくい人は体の変化を感じてください。呼吸が落ち着いていません。心臓の拍動が速くなっていたりしています。

不思議と、その時の心を観察すると、情欲、憎しみ、迷妄、慢心、貪り、愛執が静まっていくものです。それも修行です。

そのような修行で、心が落ち着き、静かになり、岩山のようにゆるがないようになるのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 10偈

10 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく体得理解するに従って、そこでかれらは悦楽を得、喜びによる少なからざる楽しみを得る。

(ダンマパダ374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「個人存在を構成している諸要素」とは何でしょうか? どのように考えても誤りとは言えません。どのように考えるかはその人の自由です。

仏教では、五蘊と言って、色(肉体)、受(感覚作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、識(認識作用)に分けて考える場合が多いのです。個人存在をまとめては考えにくいので、分解して考えようというわけです。

「生起と消滅」とは個人存在(人間)の場合は、生まれることと死ぬことです。

「正しく体得理解する」とは、ものごとの生起と消滅を正しく知ることです。これを正しく知ると納得できます。納得すると安心できます。安心できると、悦楽を得、喜びによる少なからざる楽しみを得るのです。

では、色(肉体)、受(感覚作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、識(認識作用)の生起と消滅を考えてみてください。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 9偈

9 修行僧が、人のいない空家(あきや)に入って、心を静め、真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。 

(ダンマパダ373 修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「人のいない空家(あきや)に入って」とは、静かなところで程の意味です。そうでなければ、次にあるように、心を静めることが難しいからです。

「真理を正しく観ずるならば」・・・この通りですが、これはなかなか難しいことです。そのために、世の中にはこれを教えるいろいろな瞑想法があります。私もいろいろ学んで、試してみました。やってみたい瞑想をやってみることです。自分でやってみないでは、自分でも良いか悪いか納得できません。自分が納得する修行をすべきです。

「人間を超えた楽しみがおこる。」・・・これは実践して、わかることですが、言葉を自分勝手にイメージして、それを求める場合も多いのです。そのために多くの誤解をうみます。

私はテーラワーダ仏教の比丘を止めて以後、瞑想に否定的な見解を述べてきましたが、その理由はそれは、多くの修行者が瞑想すれば、覚れる、あるいは瞑想をして覚るものだと誤解しているからです。ですから、あえて瞑想に否定的を見解をのべてきました。つまり、瞑想しても覚れないと言ったのです。

しかし、瞑想によって、心を静め、真理を正しく観ずることは必要なことば間違いないことです。

覚り(解脱)は、功徳を積み、その因縁によって起こるということを知るべきです。




 

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 8偈

8 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく見通して考え、真理を念(おも)いつづけている修行僧は、正しいことわりから堕落することがない。

(ダンマパダ364 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから堕落することがない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント
 
スッタニパータ第1章の第6は破滅(経)です。その経の中で、次のように記述されています。
ある神がゴータマ・ブッダに近づいて、次のように質問します。
(以下引用)

「われらは、<破滅する人>のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。
破滅への門は何ですか? 師にそれを聞こうとしてわれわれはここに来たのですが、──。」

(師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。
理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」

(以上引用)

ここで、破滅と訳されたパーリ語は、没落と同義です。この経では<破滅する人>について、11項目について述べられていますので、興味のある方は参照してください。
https://76263383.at.webry.info/201306/article_33.html


さて、「真理を喜び、真理を楽しみ、」とは、真理(理法)を愛するということです。このような人は正しいことわりから堕落することがないのです。

以前、このブログで触れたことのあります青森の知人とは、阿羅漢斉木広之という方で、彼は毎日何回も理法についてメールをしてくれます。私はそれが楽しみになっているのですが、彼は真理を念(おも)いつづけているのです。彼は正しいことわりから堕落することがないでしょう。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 7偈

7 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、すべてにつつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、___その人が<修行僧>なのである。

(ダンマパダ362 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、___その人を<修行僧>と呼ぶ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「手をつつしみ」・・・手に注意をむける。手は何をしたか? 何をしているか? 何をしようとしているか?

「足をつつしみ」・・・足に注意をむける。何処に行ったか? 何処を進んでいるか? 何処に行こうとしているか?

「ことばをつつしみ」・・・言葉に注意を向ける。どんな言葉を発したか? どんな言葉を言っているか? どんな言葉を言おうとしているか?

「すべてにつつしみ」・・・すべてに注意をむける。目や耳や鼻や舌などについても注意をむける。
目については、何を見たか? 何を見ているのか? 何を見ようとしているか?です。

その時、後悔や反省の心もうまれますが、それらも忘れて、心を落ち着かせます。そうすると、心が静かになって、かすかな楽しみがうまれます。それを満足しているのです。

それは、一人でなければできません。

しかし、それを瞬間にやり遂げる人もいるのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 6偈

6 適当な量(の食物)を享(う)けよ。つねに清く生きる者であれ。その行ないが親切でわかち合い、なすところ巧みであれ。そうして喜びにみち、心を落ちつけて、修行僧は遍歴せよ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

言うまでもなく、最近はユーチューブというものが流行っていて、ここからいろいろな情報を得ることができます。

折しも、現在はコロナ問題について、いろいろな方がいろいろな見解を発表しています。その中で注目したものは「コロナ問題はあなたが作った」というものです。

この見解に対して、何を言うのか、私たちは被害者だと思う方が多いでしょうが、必要以上の恐れや不安が世界に広がって、世界を混乱させているのです。恐れや不安は、人々の心が作り出したものです。ですから、コロナ問題はあなたが作り出したということは嘘ではないのです。

コロナウイルスに感染しないように注意は必要ですが、恐る必要ないのです。
むしろ、コロナウイルスを縁として、世界の人々が一斉のこの問題を考え、人間の正しい生き方を提案している方がたくさんいます。新しい時代の到来を感じさせます。

コロナ問題は、単に疫病の問題だけでなく、経済の問題も顕在させましたから、人間の正しい生き方、もっと具体的に言えば、お金中心の競争社会から、「親切でわかち合い」の社会への変換です。

それは、適当な量の食物で満足して、つねに清く生き、その行ないが親切でわかち合うような生き方です。

そうすれば、喜びにみちた、落ちついた生活ができるのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 5偈

5 しかし僅かの物で生き、軽やかで、自己をもとめようと欲し、諸の感官を制し、至るところにおもむき、解脱して、独り歩む人、___かれこそ修行僧なのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「僅かの物で生き」・・・宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」のように、少しのお米と野菜の味噌汁で、健康な生活ができます。これが結構美味しいものです。

「軽やかで」・・・身体や動きが軽いということもありますが、心が軽やかということです。心の重さは、心の想いなのです。心は想いがあると重くなるのです。少なくとも想いを少なくするすることを勧めます。

「自己をもとめようと欲し」・・・自己の本性は何か知りたいと思うことです。これこそが解脱に導くエネルギーです。

「諸の感官を制し」・・・自己の本性が明らかにならないのは、いろいろな感覚が心を刺激して、心にいろいろな想いを作るからです。感覚の刺激を押さえて、心の想いを少なくし、無くすということです。そうすれば、自己の本性が明らかになります。

「至るところにおもむき」・・・遍歴修行することです。ある修行を続けても、それが違うと気づいたならば、新たな道を模索すべきなのです。自分が納得いかない修行をいつまでも続けても、修行は完成しません。

「解脱して」・・・遍歴修行して、因縁により、解脱するのです。

「独り歩む」・・・修行は各自の事柄なので、一人で歩むのですが、人との関係を無視するわけではありません。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 4偈

4 身(み)を制しない人々は、ことばで人々を傷つける。戦場に来た象を矢で傷つけるようなものである。荒々しいことばが発せられたのを聞いたならば、修行僧は心の汚れることなく、忍んで受けよ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ4・8 自制心のない人々は、戦場にやって来た象に矢を放つように、言葉で人を傷つける。乱暴に吐かれた言葉をきいても比丘は心に怒りを抱くことなく耐えよ、と。)

(渡辺愛子訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

心ない一言で人を悲しみのどん底に突き落とすことがあります。その言葉で人を死に至らせることもあります。言葉はそのように危険な武器なのです。

今回の偈のテーマではありませんが、もちろん言葉はその逆の場合もあります。傷ついた人の病を癒す薬になる場合もあります。その最上の場合は、言葉は人に解脱をもたらすのです。

荒々しい言葉が、戦場の象に放たれた矢のように発せられたら、どうでしょうか? 人々は傷つき、怒りに苛まれるでしょう。それが普通です。

しかし、修行者はそうあってはならないと説かれているのです。修行者は心に怒りを持ってはならないのです。

言葉で心に怒りはどのように現れるのでしょうか? 心はその言葉に反発しているからです。違う、違うと思っているのです。それが怒りになるのです。

違う、違うと思わなくともいいのです。そうすれば怒りはあらわれません。

その言葉を発する人は、そのように思っているのだなと思えばいいのです。人がどのように思うかはその人の自由です。他人の心の自由を拘束することはできないのです。

そのように思えれば、心に怒りは現れません。「忍んで受ける」ということもありません。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第32章 修行僧 3偈

3 一切の業をすて去り、以前に造った塵を振り落し、「わがもの」という観念がなく、つねに自己が安住している修行僧には、人にむかってしゃべる必要がない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

この偈の趣旨とは、少しはずれますが、「人にむかってしゃべる」について話します。

少し前に、コロナウイルスのために、自粛が言われた時ですが、「こどもたちをよろしく」という映画を見にいきました。始めは、なぜ「こどもたちをよろしく」という題なのか、よくわからなかのですが、少しして、わかりました。

だれにも相談できない子供たちがいることを知って、人にむかってしゃべれない子供たちに、声をかけて下さいということでした。

一方、人に向かって、いろいろしゃべりたい方もおられます。そのような方は、不満があり、孤独なのでしょう。そのような方の話を聞ける方は、聞いてください。

また、人に向かってしゃべりたい人は、それが相手に迷惑にならないかどうかを考えるべきです。自分の話を相手が楽しんでくれるならば、続けてもよいですが、そうでもないのならば、やめた方がよいでしょう。

この偈に戻ると、「一切の業をすて去り、以前に造った塵を振り落し」とは、過去のことをあれこれ悩まずにということです。

「『わがもの』という観念がなく」とは、悩みの原因になる「わがもの」という思いがないということです。人間は本来無一物なのです。何も持たずに生まれてきたのですから。このことがわかっている人には、不満はないのです。

そのような人は、いつも満足して、今の自分の状態を静かに楽しんでいるのす。ですから、人にむかってしゃべる必要がないのです。