石法如来の特別寄稿「境涯と因縁(その1:因縁)」

因縁(いんねん)という言葉だけ聞いても、普通の人は「漠然としたイメージ」しか抱けないでしょう。・・・普通に考えて、この世の事象が結果として眼前に現れるときと言うのは「結果=その結果を生み出す原因(因)と、それを助ける条件(縁)」が必要で有り、何の原因も条件も存在せず結果という事象が現れ出ることは無い・・・すなわち、「眼前の事象が偶然に出現することはあり得ない」と言う事になります。

私は、昔阿含宗という宗教団体に所属していたとき、この因縁という言葉を数多く聞いて多くのことを学びました。・・・昔の資料を見てみますと、因縁を分かりやすく区分しています。
例えば、「横変死の因縁、刑獄の因縁、肉親血縁相克の因縁、ガンの因縁、家運衰退の因縁、中途挫折の因縁等々」・・・文字にするだけでも怖い因縁が沢山並んでいます。
確かに、因縁というものを学ぶためには、それぞれ因縁を区分分けして「こんな因縁もある・あんな因縁もある」と教え込めば、因縁という概念を学ぶことは出来ますが、他者に脅迫観念を与えかねないので用いる場合には注意が必要です。

危険な要素を含む因縁という言葉ですが、全く意味が無い言葉かというと決してそうではありません。仏教思想を考える上で重要な概念であり、それを学ぶことは「物事の成立(なりたち)」を学ぶことであり修行者にとって必須の学問です。ここで言う「物事の成立」とは、あらゆる事象は表面だけ見てもその本質が掴めないということです。物事の本質を理解・把握するためには、眼前の事象を見つめながらも因縁という概念を交え深く掘り下げて考えていく必要があるのです。

先程も書いたように、ありとあらゆる事象の出現には因縁(原因と条件)が関わっており、偶然に物事が起こることは考えられません。
その人の人生において、どの様な事象が現れどの様な人生を歩むかはその人の「境涯と因縁」次第だと言うことが出来ます。

しかし、ことさら因縁を怖れる必要もありません。何より大切な事は、自分自身の人生を「諦めてはいけない」と言うのはある意味当然のことです。因縁は結果論で有って、後になってみないと「あの因縁があった」、あるいは「あの因縁は無かった」などとは言えないものだからです。
そう考えたら、人間死ぬまで諦めてはいけないのです。そして何より、自分の人生を「より良いもの」にするためには、自分自身の行動を「気をつける」ことこそが大切です。

因縁という言葉を使うと、何か別世界の出来事のように感じますが日常生活の人間関係の反映と見ることが出来ます。身近な日常の家庭生活・職場生活は、その対応如何によって直接自分自身の因縁に関わってくることは間違いありません。
ほんの少し日々の生活の中で、「他者を気遣う・思いやる」=「気をつける」という意識・習慣を持つ。それだけで、因縁を良い方向に転換出来るのです。

・・・境涯と因縁について2回に分けて書きましたが、それらは決して別々のものではありません。理解しやすいように分けただけであり、それはある意味「人間の存在」そのものを表す言葉です。
この世において、その人の人生を決めていくのは、「その人の境涯と因縁による」と言いたかったのですが、それらはとても微妙であり「それは、こういう姿・形だよ」と差し示すことは出来ません。・・・出来ませんが、それらは間違いなくこの世に存在し私達の人生を形成しているのです。

文中で強調したように、この世は「無常」であるが故に「こうだ!という決めつけ」はいけないし、同様に人生そのものを諦めてもいけません。
私自身、現在の師(SRKWブッダ)に巡り会ったのは66歳の時です。人間、未来において何が起こるかは誰にも分からないことなのですから・・・。



*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(4)

(以下引用)

【功徳を積むには】(4)

 ● 修行者は、真実から目を逸らしてはならない。そこに、功徳を積む動機を生じるからである。ある種の真実は直視するに恐ろしいものである。それでも、立派な修行者はその真実を見つめるであろう。功徳を積んだ人は、そこに凜とした決心を生じるのである。その決心は、解脱の根拠となるものである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

修行者は、自分が真実から目を逸らせていることを知らなければならないのです。

実際に、嫌なもの、汚いものなどからは目を逸らして、直視することはないでしょう。

また、本能的に危険なものや怖いものを見ると、瞬時に目を閉じるものです。

その他、悲しみについては、その中に落ち込むか、他のもので紛らわすなどかして、悲しみを直視することはしません。

それがなぜなのか知る必要があります。真実を目を逸らす修行者は功徳を積むことができないからです。






SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(3)

(以下引用)

【功徳を積むには】(3)

 ● 修行者は、決して自分を捨て去ってはならない。自分自身こそが功徳の拠り所である。もし自分を捨て去ってしまうならば、覚りも何も意味をなさない。覚りは、自分を決して捨て去らないところに存在しているからである。もちろん、自分にこだわる余り、他の人を傷つけたり悲しませたりしては本末転倒である。すなわち、自分を含めて誰の居場所を奪ってもならない。ここにおいて、修行者は大団円の意味を知ることになるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「天上天下唯我独尊」という言葉をご存知だと思いますが、これは釈尊が誕生の時述べた言葉だとされています。これは自分だけが偉いのだと誤解する人もいるでしょうが、真の意味は自分を含めてすべての一人一人が尊いのだということなのです。

ある意味、このことが本当に腑に落ちることが、覚るということなのです。

そうであるならば、修行者は決して自分を捨て去ってはならないのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(2)

(以下引用)

【功徳を積むには】(2)

 ● 修行者は、悲しみを熟知し、しかも悲しみを知らぬ人であれ。そうでなければ、解脱しないからである。これは、悲しみに打ちのめされてはならないという意味である。この世には悲しみが多いことを知ったとき、ある人はどうすればよいのか分からなくなり、立ちすくんでしまうだろう。しかし、それでは仏道を歩むことはできない。修行者は、悲しみを超えて道を歩まなければならない。そして、あるとき、この世のギリギリのシチュエーションに遭遇するであろう。そこで、修行者は必ずブッダ(=悲しみを知らぬ人)の立場に立たなければならない。それを為し遂げたとき、大きな功徳が積まれる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

人は自分の悲しみはもちろん他人の悲しみも嫌います。

そのために、悲しみを見ないようにし、悲しみがないようにごまかし、悲しみを隠し、悲しみから逃げようとします。

そのために、悲しみの真実がわからないのです。

そのために、隠せないほどの悲しみに直面すると、悲しみに打ちのめされてしまうのです。

修行者は、悲しみから逃げることなく、悲しみに直面し、悲しみの真実を見極めて、悲しみが悲しみにならいような人にならなければならないのです。

その際、自分の悲しみに直面する力がないのならば、過去の他人の悲しみに直面することから始めてもよいのです。悲しみに直面する力をつけてください。

そして、自分の悲しみに直面してください。

そうすれば、悲しみの真実がわかるでしょう。

そうすれば、悲しみが悲しみにならない人になるでしょう。



石法如来の特別寄稿「境涯と因縁(その1:境涯)」

私は、この世に生を受けてもうじき70年になります。平和だった、日本という国の歴史上一番良い時代に生まれ育ち、戦後の高度成長期も経験し豊かな日常が築かれた事を思い出します。
私は覚り以前にも、自分自身が生まれ育った境涯を「天上界」に近いものであったと振り返っています。読者の皆様は、自分自身の境涯をどの様に捉え・考えておられるでしょうか?

仏教には、境涯を表す言葉として六道(ろくどう・りくどう)というものがあり・・・「仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界のこと。」とし、「六道には6つがあり、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道」と記されています。『ウィキペディア(Wikipedia)より引用』

SRKWブッダは、六道を諸界(しょかい)として「原始的、古典的仏教観においては、法界だけではなく諸界が世界に距離を隔てて点在しているものと考えられた。具体的には、天界、梵天界、修羅界、地獄界などである。」としたあと、「しかしながら、諸界が地上の遙か上空部や地面の下部に物理的に存在しているわけでは無いことは現在では周知の事実となった。」と著書にあります。(『ブッダの世界観』SRKWブッダ著、98頁引用)

境涯(六道)について私の見解は、「六道(に代表される種々なる境涯)は全てこの世に存在し、この世を離れた場所に物理的に存在している訳ではない。」というものです。

ゴータマ・ブッダの教えの中に「一切(いっさい)」というのがあり、自らの主観と客観以外の世界は単なる言葉に過ぎないと言い切りましたが、私も同様の立場を取ります。
「・・・いまブッダが人間の感官とその対象の問題をとりあげる取りあげ方は、まったく現実そのものに焦点をあてていることを示している。この眼で見るところ、この耳で聞くところ、この身体で触れるところ、これが「一切」である。この「一切」をおいて、いかに他のことを語っても、それは所詮、単なる言説にすぎないのだといっておる。それこそ、まさにリアリストの立場であるというものであろう。」(『原初経典阿含経』増谷文雄著・筑摩書房、187頁引用)

私は、仏教にある「六道」あるいは「六道輪廻」という言葉は、私達の住んでいる世界から遠く離れた世界に別に存在するのではなく、むしろ私達の世界そのものを表していると言いたいのです。
人間には、それぞれ「境涯」というものがあり、大きくは国によってあるいは地域によって更には時代によって違いはありますが、結局は同類項同士が集まり、、仮に紛争・戦争地であってもそれに関係ない人間も居ることを考えたら一括りで境涯を区別・選別することは誰にも出来ないし、また不可能なことでもあります。

仮に紛争・戦争の多い地域に生まれた人は、もしかして自分は「地獄界」だと認識しているかも知れないし、日々喰うや喰わずの境涯に生まれ育った人は、自分は「餓鬼界」だと・・・。また動物の世界のように弱肉強食の中に生まれ育った人は「畜生界」、争い事が絶えず休みなく喧嘩などしている環境に生まれ育った人は、自分は「修羅界」であると捉えているかも知れません。

境涯というものは、仮に近くに住んでいる親子兄弟でも違いがあり、同類項の中でも「似たような境涯」は山ほどあっても、仮に一億人人(ヒト)が存在するなら一億通りの境涯があると言え、簡単に「境涯とはこの様なものだ」と断定できる性質のものではありません。
また、境涯は仏教の中心思想である「無常」の法則の範疇に入りますから、境涯と言えど流動的なものであり決して固定的なものではありません。要するに、どのような境涯に置かれても決して悲観する必要は無いということになります。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。
これは前段です。後日、続編があるそうです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(1)

(以下引用)

【功徳を積むには】(1)

 ニルヴァーナを目指して修行する人にとって、どうすれば功徳を積むことができるのかということは重大な関心事であろう。その具体的なことを述べたい。

 ● 修行者は、自分を含めて、誰も悲しませてはならない。悲しみあるところには、決して功徳は生じないからである。これは、逆に見れば人は知らずに他の人を悲しませている恐れがあることを指している。したがって、何かを為したならば注意して周りの様子を見なければならない。このとき、こころある人は自分の愚かさに気づくことがあるであろう。そして、今後は自分を含めて誰も悲しませないようにしたいという決心を生じるであろう。それが功徳そのものとなる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「自分を含めて、誰も悲しませてはならない。」は、特別な意味があります。
まず、自己嫌悪や自己否定や卑下することは、自分を悲しませることになります。

もちろん、相手に暴力を振るったり、暴言を吐いたり、避難することは相手を悲しませることになります。

その他にも、気づかなければいけないことがあります。自分と相手以外にの第三者も悲しませてはいけないのです。

たとえば、或る男性が何人かいる女性の前で、或る特定な女性だけに対して、「あなたは美しい。」と言ったらどうでしょうか? 言われた女性は喜ぶかもしれません。しかし、それを聞いた他の女性の中には、その言葉を聞いて、嫉妬の心が生まれ悲しむかもしれません。そのようなことがないようにということです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(7)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(7)


 ● 功徳は、功徳を呼ぶ。この意味において、修行者は小さな功徳を軽んじるべきではない。実際には、功徳を積むことによって他の人を覚り(安らぎ)に近づけることになるであろう。そして、そのことによって自分の安らぎがいや増し、巡り巡ってさらなる功徳が積まれたことになるわけである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、功徳を呼ぶ。」これは、「類は友を呼ぶ。」と同じ真理に基づいて説かれた言葉です。

ですから、小さな功徳でよいのです。実際には小さいか大きいかわかりませんから、功徳を積もうという心掛けが大切なのです。

また、「悪は悪を呼ぶ」ということもありますから、小さな悪でも止めることができたら、それは大きな悪を止めることになり、大きな功徳になります。

SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(6)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(6)

 ● 功徳は、これで功徳が積まれるだろうなどと意識して積むものではない。しかしながら、仏道を歩む修行者は功徳を積むことそれ自体は意識すべきである。これは、功徳ということを知らずに無邪気に功徳が積まれるものではないという意味である。例えば、勉強は意識して行わなければ身につかない。つまり、漫然と勉強するなどということは意味をなさない。それと同様である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、これで功徳が積まれるだろうなどと意識して積むものではない。しかしながら、仏道を歩む修行者は功徳を積むことそれ自体は意識すべきである。」ということは、前回、前々回に紹介した「功徳は、行為の帰趨ではない。功徳は、想念の帰趨ではない。」と同様に仏教の微妙な特質です。

功徳を重視すべきであるが、執着するなということだと理解してよいでしょう。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(5)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(5)

 ● 功徳は、想念の帰趨ではない。功徳を積もうとして何を想い、何を念じても、それによって功徳が積まれることはないということである。つまり、功徳はこころに積むものであるが、それは想念によるものではないという意味である。逆に言えば、想念によって功徳が損なわれることもないということでもある。このため、観(=止観)を為すときには善だけでなく悪についても想念を巡らせて構わないことになる。ただし、もちろん、観の完成においては善悪そのものを超えた境涯を知ることとなる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、行為の帰趨ではない。」というと、功徳は、想念の帰趨かということになりますが、そうではありません。「功徳は、想念の帰趨ではない。」ではないのです。

ここで、今回の引用文を理解する上で参考になる金剛般若経の第6章の一部を引用します。(岩波文庫「般若心経・金剛般若経」より)

(以下引用)
それはなぜかというと、スブーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらないからだ。また、スブーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないという思い》もおこらないからだ。また、スブーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらないからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、《ものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。
(以上引用)

要するに、功徳は執着がないときに積まれるのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(4)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(4)

 ● 功徳は、行為の帰趨ではない。要するに、功徳は気持ちの問題であるということであり、功徳はこころに積むものであると知られるということである。このため、行為の多寡とは無関係に功徳は積まれる。ある場合には、何一つ行為せずに功徳が積まれる。つまり、やさしい行為が功徳になるわけではなく、やさしさの追究が功徳を積むことの本体であるということである。この真理は、仏教の一つの微妙なる特質である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、行為の帰趨ではない。」ということは、仏教の一つの微妙なる特質でなのですが、この真理を理解する上で参考になる金剛般若経の第28章を引用します。(岩波文庫「般若心経・金剛般若経」より)

(以下引用)

さらに、また、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、ガンジス河の砂の数だけの世界を七つの宝で満たして、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。他方では、求道者が、<法は自我というものがなく、生ずることもない>と認容しえたとすれば、この方がそのことによって、計り知れず数えきれないほどさらに多くの功徳を積んだことになるだろう。けれども、また、実に、スブーティよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」
 スブーティ長老は訊ねた―「師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」
 師は答えられた―「スブーティよ、自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない。そういう意味を込めて、<自分のものにすべきではない>と言われているのだ。」

(以上引用)


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(3)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(3)

 ● 個人の性格傾向と功徳とは関係がない。すなわち、どんな性格の人でも等しく功徳を積むことができる。これは、そもそも解脱がこの名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅という根本の現象であるためである。性格傾向は、このうちの名称(nama)作用に関わることがらであり、どのような性格傾向の上にも功徳を積むことができる。そして、解脱によってこの余計なものは脱落・終滅することになる。結果、極端な性格傾向は薄らぎ、仏としての円かな性格が出現することになる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文は、「どんな性格の人でも等しく功徳を積むことができる。」ことを言いたいのです。

ですから、自分はおしゃべりだから功徳を積めないとか、無口だから功徳を積めないとなどと悩む必要はありません。
その根拠を解脱の根本に基づいて説明しています。

解脱は、この名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅という根本の現象であるためです。

この名称とは、五蘊(身、受、想、行、識)の想であり、この形態とは行に相当します。

「この名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅」とは、不必要な想と行の脱落・終滅です。

というわけで、個人の性格傾向は、余計な想に起因であるため、功徳を積むこととは無関係なのです。

余計な想が脱落した人は、わかりやすく言えば、好き嫌いのなくなった人です。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(2)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(2)

 ● 功徳を積んでいるときにそのことが意識されることはないが、実際に覚ったときにそれまで充分に功徳を積んだことが覚知される。これは、解脱知見の一つである。たとえば、睡眠中にはしっかりと眠っているなどというような意識はないが、翌朝気持ちよく目覚めたときにぐっすりと眠ったことを知るようなものである。このとき、スッキリと目覚めただけでなく疲労が回復していることも実感されるであろう。解脱知見においても、自分が確かに妄執を滅ぼして目覚めたことを知るだけでなく、覚り以前の重荷を下ろし心身が軽々としていることが実感される。

(以上引用)


*法津如来のコメント

功徳を積むことについての睡眠の比喩は、非常に的確でわかりやすいものです。

確かに、睡眠中はしっかりと眠っているなどの意識はありませんが、翌朝しっかりと眠っていればよく眠ったとわかります。

ただ、寝る前に今日はよく眠れそうだとはわかります。もちろん、眠っている最中はよく眠っているかどうかはわかりませんが。

まわりの人々にやさしく、楽しく、多くの善いことをするならば今日はよく眠れそうだとわかります。

功徳もそのようなところがあります。


石法如来の特別寄稿「不可思議な夢(師の交代)」

人生長く生きていると不可思議な現象に出会うことはあり得るとして、私が今日語ることも「その様な内容」で話が出来すぎているように思いますが書いてみます。

私が、不可思議な夢と題して語ろうとするのは、仏教を学ぶに当たって最初の師となった阿含宗の桐山靖雄氏の夢を見たことなのですが、その件について現在の師(SRKWブッダ)に夢の内容記事を書いたメールを発信したのは2017年10月7日です。
そこでは、「2日前に不思議な夢を見ました。私の最初の師である桐山靖雄氏の夢です。」と書いています。

2020年9月13日投稿の私の記事「私の発心(ほっしん)」によると、「私は、その後の10月6日に師(SRKWブッダ)に初めてお手紙を差し上げ、縁が生じのちスカイプを通じたお話の後、10月10日には最初の解脱を経験します。」と書きました。
正確には、10月6日の数日前に「本当に簡単な内容」のお手紙を差し上げ、SRKWブッダから最初の電話を頂いたのが10月5日ですが、「非通知」の電話だったので出ないでいたのです。

ところが、ワンギーサ先生(法津如来)に聞きますと「SRKWブッダは携帯を持っていないので、誰かから借りて電話したのでは・・・」と聞き、こちらから熊本に電話しその後最初のメールを送ったのが10月6日です。そこで自己紹介やら仏教での自分が考えていることなどを色々書かせて頂き、10月6日から7日までの間双方何通かのメールをやり取り致しました。

問題の桐山氏の夢を見たのは、10月7日の2日前である10月5日と言うことになります。10月5日はSRKWブッダが「非通知」で電話をくれた日です。
その日の朝に見たのが、桐山靖雄氏の夢だったと言うわけですが、思い起こせば色々示唆に富んだ内容の夢でした。

私は、勿論桐山氏とは面識はなく、当然会話を交わした事もありません。一番近くで接したのは、何回目かの阿含宗夏期伝法会に参加したときに、北海道の代表者が宣誓しなければいけないと言うことでその代表に選ばれ宣誓した時位です。
桐山氏は、当時約30万人(公称)の会員を擁する教祖であって教団創設者、私の目から見るとまさに「雲の上の存在」そのものです。

その桐山氏の夢とは・・・。ある民家風の道場があり規模は大きくもなく小さくもありません。
私は、その道場風の建物の玄関先に立っています。当然、建物内でどの様なことが行なわれているか私には分かりません。
ふと玄関を見ますと、桐山氏が若い男性の弟子一人を伴い、これからその家から出て行くよう準備をしています。・・・準備が終わったら、弟子が玄関の戸を開け桐山氏を先に外に出します。
私が玄関先に立っているのに、全く無視するような感じで二人は「ただ前だけを見て無言」で歩いて行きます。・・・玄関の先には神社の鳥居のような門があります。そこを、桐山氏弟子共に一度も振り返ること無くその門から出て行きます。

それが夢の顛末です。・・・私は、35歳で阿含宗を退会しましたが、その間もその後も桐山氏の夢などただの一度も見たことはありません。
その夢は2017年で、私が66歳の時ですから阿含宗を退会して31年も経過しています。
私はその間、ずっと一人で自分なりの修行を続けて参りましたが、もしかしたら私の心底には桐山氏がずっと住み着いていたのかも知れないと考えました。

それが、SRKWブッダと言う新しい師と巡り会うことになり、今までとは状況が変わったと言うことで、早々に立ち退きを図ったのではと考える事も出来ます。
人間は、表層だけ見ても物事の真実は見えません。私の、心底の世界では「師の交代」が成され、次のステップに向かうことが既に決まっていた・・・と捉えることも出来るのです。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(1)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(1)

 前の章で述べたとおり、功徳を積むことが仏道修行の主要部分である。

 「自己の本性(ほんせい)に功徳があるのだ。見性が功であり、素直さが徳である。」(六祖壇経)引用:世界の名著〈18〉禅語録(1978年)(中公バックス)柳田聖山(訳) ISBNー13:9784124006285  140ページ

 これは禅の六祖(=慧能ブッダ)の言葉であるが、功徳について見事に説明している。すなわち、功徳を積むことは見性することに役立ち、徳を培うこと——情欲を離れること——になるということである。ここで、見性とは、自分の中に生まれる以前から存在している人としての本当の気持ちを明らめることであり、これによって解脱が起こる。また、徳(=大徳)とはブッダの行為の別称である。

 ところで、功徳のこれらの性質は、山奥に籠もるような独居的な修行法によっては覚ることはできないことを暗に指摘しているものである。何となれば、このように功徳を積むことは人との関わりの中でのみ為し得ることだからである。

 さて、功徳とは仏の特相そのものである。先に引用したように、つねに本性(ほんせい)に目覚めていて素直な心で対応することを功徳と称するからである。すなわち、功徳とは自分の内側を護り、そして同時に外側に対応することに他ならない。このようにして、あらゆることがらについて功徳を積んだとき、ついに解脱が起こる。ただし、その積まれた功徳の程度は修行中に意識されることはない。

 以下に、功徳にまつわることがらを列挙したい。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文で引用された言葉「「自己の本性(ほんせい)に功徳があるのだ。見性が功であり、素直さが徳である。」は、梁の武帝と達磨大師の問答に関する質問に対する六祖慧能の答えの一部です。この部分の全体を読めばわかりやすいので、是非読んでみてください。

簡単に言えば、武帝は「自分は寺を建てたり、僧に布施をしてきたが功徳があるか?」と質問しましたが、達磨大師は「功徳はない」と答えたという話しです。それは何故かという説明です。

この引用で重要なところは、「功徳のこれらの性質は、山奥に籠もるような独居的な修行法によっては覚ることはできないことを暗に指摘しているものである。何となれば、このように功徳を積むことは人との関わりの中でのみ為し得ることだからである。」




SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(10)

(以下引用)

【修行】(10)

 さて、もしも覚りに向けた修行が、たとえば幾何学を理解するようなことであるならばまだ分かり易いであろう。つまり、シンプルな幾何学の証明を沢山学んでおき、その上で高度な幾何学の問題に取り組む。ここで充分に学んでいればその問題が周到に解けるものと期待され得るというようなものである。実際、素養を身につけた人は、問題を見た瞬間にその具体的な解き方がひらめくであろう。

 ところが、覚りに向けた修行はこのような単純な構図とはならない。何となれば、経典や論典、釋などを沢山読んでおきさえすれば法の句の理解が確実に生じると保証されるなどというわけにはいかないからである。もちろん、ある修行者は法の句を耳にして直ちにその理解を生じ、解脱を果たす。それが彼の修行の結果であることは明らかである。では、どうして法の句を聞いて理解できる修行者とそうでない修行者とに分かれてしまうのであろうか。

 そこで、「功徳」ということが説かれることになる。仏道修行の結果として功徳が積まれ、それが充分に積まれている人に解脱が起こるという構図である。幾何学を譬えにすれば、功徳とは問題を見た瞬間に適切な補助線を思いつくということに相当する。これさえ見出せば、あとはシンプルな公理や公準を適用して問題を解くことができるであろう。同様に、功徳を積んだ修行者は、法の句を聞いた瞬間に自ら積んだ功徳によって法の句の意味について蓋然性のある意味づけを為し遂げるのである。そして、その土台の上で法の句の真の意味を理解することになる。

 ところで、なぜ功徳のような別の言葉を作り出して説明するのかと言えば、修行の結果解脱が起こるというのでは修行量が問題にされてしまう恐れがあるためである。現実には、見掛けの修行量と覚りの成否は連動しない。そこで、功徳が覚りに直結するものであるとして論議されることになったわけである。幾何学で言えば、練習問題を手当たり次第に解いた量が見掛の修行量であり、効果的に練習問題を解いて問題の出題傾向を網羅した人が功徳を積んだ人に相当する。後者の方が、新しい問題を見たときにも上手く対応できると期待されるであろう。同様に、功徳を積んだ修行者は、この世に初めて出現した法の句を聞いて、その真の意味を理解できると期待されるということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の引用文は少し長いので、繰り返し読んで理解しようとするならば、以下の文章を繰り返し読んでください。

「ところで、なぜ功徳のような別の言葉を作り出して説明するのかと言えば、修行の結果解脱が起こるというのでは修行量が問題にされてしまう恐れがあるためである。現実には、見掛けの修行量と覚りの成否は連動しない。そこで、功徳が覚りに直結するものであるとして論議されることになったわけである。

幾何学で言えば、練習問題を手当たり次第に解いた量が見掛の修行量であり、効果的に練習問題を解いて問題の出題傾向を網羅した人が功徳を積んだ人に相当する。後者の方が、新しい問題を見たときにも上手く対応できると期待されるであろう。

同様に、功徳を積んだ修行者は、この世に初めて出現した法の句を聞いて、その真の意味を理解できると期待されるということである。」


SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(9)

(以下引用)

【修行】(9)

 ● 修行は、途中においても心を安んじるものでなければならない。これは、修行は怪しげなものであってはならないという意味である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

修行は始まりも善く、途中も善く、終わりも善くなければなりません。

ここでは途中について説かれています。

「心を安んじるもの」とは、心が落ち着き、静かになるものです。

「怪しげなもの」とは、心が危険を感じ、不安になるものです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(8)

(以下引用)

【修行】(8)

 ● 修行は、いつでも、どこでも、どんな時代でもできるものでなくてはならない。場所や環境を選ぶものは、最高のものとは言えないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用の意味では、修行は重力のようなものです。いつでも、どこでも、どんな時代でも働いています。場所や環境を選ぶものではあります。

しかし、重力を自覚しなければそれが意味がないように、修行はそれを修行として自覚しなければ意味がありません。

何を言いたいかと言えば、これは修行と思えば忍耐できるし、楽しくなるのです。

ただし、後に述べることになりますが、功徳は功徳を積もうとして積むものではありません。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(7)




(以下引用)

【修行】(7)

 ● 修行は、誰にでもできるものでなくてはならない。これは、身体に障害がある人でも修行できることを意味している。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「修行は、誰にでもできるものでなくてはならない。」・・・これは仏教は平等を説いているからです。

「これは、身体に障害がある人でも修行できることを意味している。」・・・これは仏道修行は精神的なものだからです。

また、特に身体に障害がある人について述べられているのは仏教を学ぶ人々の中に、障害者は覚れないという誤った考え方がある為でしょう。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(6)

(以下引用)

【修行】(6)

 ● 修行は、終わりのあるものでなくてはならない。果てしない修行は誰も完成させることができないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「人生一生修行である。或いは修行に終わりはない。」というような考え方があります。このように考える方の修行ならば、修行に終わりはないでしょう。

しかし、仏道修行というものには終わりがあるのです。それは修行の完成、ニルヴァーナの達成です。これが修行の終わりです。

果てしない修行というものには、修行には完成がないということであり、目的に到達しないということです。このような修行ならば終わりはありません。
ニルヴァーナは確実なものでありますし、心ある修行者はそこに到達できるものなのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(5)

(以下引用)

【修行】(5)

 ● 修行は、時間の無駄や紆余曲折を気にせずに行うべきである。しかし、それが最短の道筋となる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「時間の無駄」とは、良い結果に結びつかなかった時に言われますが、失敗は成功の母(元)なのです。失敗という無駄と思われることがあるからこそ、成功があるのです。時間の無駄(失敗)を気にしては成功はありません。

また、失敗があるからこそ、次のステップがあり、次のステップに挑戦することが楽しいのです。

紆余曲折のない小説やゲームが楽しくないように、時間の無駄や紆余曲折のない修行は楽しくないのです。

そうであるならば、修行において、時間の無駄や紆余曲折を気にすることがおかしいのです。

「それが最短の道筋となる。」は、修行が完成した時にわかることです。