#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 68偈

68 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、かれは独りで魔女や悪鬼をも超えるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、次のように解釈します。

修行者が、自分に必要な修行にはげみ、解脱して、ニルヴァーナ(涅槃)に達したときは、その修行者は心の形態作用や名称作用を克服しているだろう。

私のイメージでは、魔女とは心の形態作用です。そして、悪鬼とは心の名称作用です。

ところで、昨日は豪雨は九州北部に拡大していると新聞報道がありますから、SRKWブッダや法風如来が気がかりですが、彼らは魔女や悪鬼をも超えておられますので、無事であることは間違いないことです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 66偈、67偈

66 正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人を、尊敬して敬礼せよ、___バラモンが火の祭りを恭しく尊ぶように。

67 正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人を、尊敬して仕えよ、___バラモンが火の祭りに仕えるように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人」とは、前回の64偈、65偈に記されていた「道理を識別している人」と同じ内容です。

今日は「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということを考えてみましょう。

これは、正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知りたい、というならば、「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということです。

本当に正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知りたいというならば、自然に「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということになるでしょう。

そのようにならないならば、無理にそうする必要はありません。

その前に、正しくさとった仏の説かれた理法とは、何のためにあるのか知っておく必要はあります。

それは、あなたの悩みや苦しみを取り除き、あなたを幸せにするためにあるのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 64偈、65偈

64 老人であろうと、若者であろうと、(老若を問わず)、道理を識別している人を、尊敬して、敬礼せよ。___バラモンが火の祭りを尊ぶように。

65 老人であろうと、若者であろうと、(老若を問わず)、道理を識別している人を、尊敬して、仕えよ。___バラモンが火の祭りに仕えるように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「老人であろうと、若者であろうと」とは、誰でもということです。

「道理を識別している人」を「尊敬して、敬礼せよ。(尊敬して、仕えよ。)」とありますが、誰が「道理を識別している人」かどうか、ほとんどの人々がわかっていません。誰もが、自分の考えに近い人、自分に都合がよいことを言う人を、尊敬し、敬礼するのです。

「道理を識別している人」とはどんな人か知ることが必要です。その前に、道理とは何か?知る必要があります。

道理を知らないものが、「道理を識別している人」を探すのはむずかしいですが、道理を知らないと思われる人を知ることは比較的やさしいでしょう。

最近ユーチューブを見ていたら、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉を聞きました。このような人は、道理を知らない人です。

「今だけ、金だけ、自分だけ」の人でない人でも、本当に道理を識別している人かどうかはわかりません。

しかし、道理を識別している人は、本当にやさしい人だとは言えます。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 63偈

63 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍があり。(打たれて)怒る者に禍あり。

(ダンマパダ389 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ389の解説を以前しました。それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200910/article_1.html

(以下引用)

バラモンを打たないように
バラモンは彼に怒りを現さないように
バラモンを打つ者は糞だ
彼に怒りを現す者はそれより糞だ

〇この詩の蛇足

釈尊の言われるバラモンは阿羅漢の可能性があります。阿羅漢は尊敬されるべき人であります。その人に暴力を振るったら、その人は幸福にはなれません。悟 ろうと修行しても悟ることは出来ません。ですから、バラモンには暴力を振るわないことです。今特に日本ではバラモンはいませんから、お坊さんと考えたらい いでしょう。お坊さんには暴力を振るわない方が安全です。もちろん、お坊さんに限らず、どんな人にも暴力を振るわない方が安全です。

 一方、暴力を振るわれたバラモンは、暴力を振るった人に怒りを持ってはいけません。バラモンはどんな時でもどんな人にも怒りを持ってはいけないのです。バラモンたる者は怒りを現してはバラモンではありません。

 「バラモンを打つ者は糞だ」の「糞だ」はパーリ語では「ディー」という言葉です。パーリ語辞書には「厭わしきかな。嫌らしい。」と出ていますが、以前ス マナサーラ長老に「この言葉は口にもだすのは嫌な言葉なのだ。」と聞いていました。釈尊の詩の中で「糞だ」などと言う言葉はどうかとは思いましたが、この 文脈ではこの言葉が一番相応しいと思い、あえてこう訳すことにしました。御批判も多々あるとは思いますが、一応そういうことで御了承お願いいたします。

 「彼に怒りを現す者はそれより糞だ」はバラモンは暴力を振るわれても怒りを現してはいけません。もし、暴力を振るった人に怒りを現したら、その人以上に糞だと言われるのです。
 なぜ、でしょうか?バラモンと一般人の関係は、大人と子供の関係なのです。大人が子供に暴力を振るわれたからと言って、子供と同じ立場で大人が子供にやり返せば、大人気ないということになります。ですから、バラモンたる者は打たれても怒ってはいけないのです。

 釈尊がバラモンに対して述べていることは、バラモンにだけに述べているわけではありません。私たちに述べられていると考えた方がよいのです。出家者や修行者や人格を向上させようと思っている人たちは、バラモンに学んで、打たれても怒らないように努力した方がいいのです。

〇坊さんを打たないように坊さんは打たれても怒らないように(389)

(以上引用)





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 61偈、62偈

61 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の博学なバラモンとをほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

62 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の博学なバラモンをほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、人は<浄められた>と言われる。
 

(ダンマパダ294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。)

(ダンマパダ295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人のバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

カッコの中は訳者の注釈です。読みにくいので、注釈を除くと以下のようになります。

61 母と父とをほろぼし、国王と二人の博学なバラモンとをほろぼし、従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

62 母と父とをほろぼし、二人の博学なバラモンをほろぼし、第五には虎をほろぼして、人は<浄められた>と言われる。

この内容では意味が過激なので、母や父などは何かの象徴であることがわかります。その意味を知るためには注釈が必要です。

2010年6月5日、これらの偈によく似たダンマパダ294と295を解説しました。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_5.html

(以下引用)

 「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。(自我と言ってもよいと思います。)
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきま す。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解してお きます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っている のか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生 きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生 まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いで す。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺 すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生 まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからで す。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

(以上引用)

なお、2010年6月5日のブロブ記事には、チューラパンタカさんのコメントがありました。
チューラパンタカさんは、最近コメントしてくださる自分さんに、私がつけた名前です。懐かしいですね。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 60偈

60 バラモンよ。流れを断て、勇敢であれ。諸の欲望を去れ。つくり出された諸の現象の消滅を知って、汝は、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者となるだろう。

(ダンマパダ383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ383について、以前解説を書いています。
https://76263383.at.webry.info/200909/article_25.html

その時は、解脱以前でしたから、次のように書いています。
「このバラモンの章は阿羅漢の境地が多く述べられます。この境地を体験してない私には荷が重いのですが、なるべくこのブログを読む方が、誤解をしないように注意して書くつもりでが、分かってない者が書いているという前提で特に、この章はお読み下さい」

その時の解説では、「流れを断て」を「因縁の流れを断ち切って」としてありましたが、「流れ」とは「愛執」を意味しているのです。以前の解釈をここで訂正します。

「勇敢であれ。」は「努力せよ。」というほどの意味です。

諸々の現象は作り出されたものでありますが、ニルヴァーナ(涅槃)は作り出されたものではないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 59偈

59 紐(ひも)と革帯と、悪い欲求と貪ぼりとを断ち切って、妄執を、根こそぎにえぐり出して、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は58偈を参考にすると「根こそぎにえぐり出して」の次に、「めざめた人(ブッダ)」が抜けているのかもしれません。

昨日は、過去のブログ記事により、パーリ文注釈に基づいて、紐を怒り、革紐を渇愛のたとえと解釈しましたが、今日は、「ように」を補って、「紐(ひも)と革帯と」を「紐(ひも)と革帯と」のように断ち切りがたいと解釈します。

「悪い欲求」とは、不必要な欲求です。

「貪ぼり」とは、際限なく欲しがることです。

「妄執」とは、盲目的は執著です。自分でも気づくことなく執著しているのです。これは潜在意識の働きによるものです。

潜在意識の働きを、意識的に根こそぎえぐり出すことはできません。ではどうするか?

これは一大事の因縁によって起こるのです。善知識(善友)と遭遇し、「法の句」を聞くことにより起こるのです。これが解脱(覚り)です。

一大事の因縁は、功徳を積むことでできます。ですから、功徳を積むことが修行です。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 58偈

58 紐(ひも)と革帯と、超越し難い個人の連続を断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を投げすてて、めざめた人(ブッダ)、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。 

(ダンマパダ398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(かんぬき)を滅ぼして、めざめた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

岩波文庫の58偈の注に「超越し難い個人の連続を断ち切り」の「連続」について次の記述があります。
(以下引用)
連続___saṃtāna. パーリ文『ダンマパダ』にはsaṃdāna (綱)とあるが、東部インド語の d 音は、サンスクリットに直すと t 音であると解して、サンスクリットに直す人が saṃtāna とした。だからこの詩では「紐」や「革帯」とはつながらぬ変な文章となっているのである。
(以上引用)

このような注がありますから、「超越し難い個人の連続を断ち切り」は「超越し難い個人の綱を断ち切り」と読んでおきましょう。

それにしても、紐(ひも)や革帯や連続(綱)や門をとざす閂は何を意味しているのでしょうか?

ダンマパダ398に関する私のブログ記事を参考にします。
https://76263383.at.webry.info/200812/article_6.html

(以下引用)
紐(怒り)と革紐(渇愛)と
綱(六十二邪見)を手綱(煩悩)と共に切断し
門の鍵(無明)を開け、悟った人
彼を私はバラモンと呼ぶ

○この詩から学ぶこと

 この詩が出来た因縁物語は次の通りです。二人の男が自分の牛の優劣を競うために、それぞれの頭の牛に重い荷車を引かせました。しかし、どちらの荷車も少しも動かず、荷車をつないでいる革紐が切れてしまいました。この様子を見ていた比丘たちは釈尊に報告しました。釈尊は革紐でも簡単に切れるが、怒りという紐や渇愛という革紐、六十二邪見という綱、煩悩という手綱はなかなか切れない。これらを切断して、無明という門の鍵を開け、四聖諦という真理を悟るように説法されたとのことです。

 上の詩のカッコ内はパーリ文注解によるものです。六十二邪見とは、長部経典第一「梵網経」に解説されています。釈尊の時代の「我」と「世界」に関する六十二の哲学的見解であります。これらは現代にも通じる人間が考えられるすべての見解を網羅されています。

 その邪見の概要の項目数だけを示します。
 過去に関する十八の邪見
1.常住論(四種)、2.部分的常住論(四種)、3.有限無限論(四種)、4.詭弁論(四種)、5.無因生起論(二種)
 未来に関する四十四の邪見
1.有想論(十六種)、2.無想論(八種)、3.非有想非無想論(八種)、4.断滅論(七種)、5.現世涅槃論(五種)
 以上六十二の邪見は、すべてが囚われた見解であることが上記のお経で指摘されています。

 今回の詩でもバラモンは、怒りと欲などの煩悩という私たちを拘束している紐、綱を断ち切るように述べられています。一人の人間が六十二の邪見を持っているわけではないのですが、いろいろな人間がいますから、いろいろな見解を持っています。それらを整理すると、六十二の邪見になったということです、自分が持っている見解がどの邪見にあてはまるかわかれば、すぐこの邪見を克服できるでしょう。そして無明という鍵を開けて、智慧の扉を開けるように教えています。

 無明とは真理が分かってないということです。より具体的に言えば、四聖諦が理解できないことです。あるいは、諸行無常、一切皆苦、諸法無我が理解できないということです。逆に言えばこれら一つだけでも悟れば、無明ではないということです。これらの一つだけでも悟って、無明の鍵を開き、バラモンのような人間でありたいものです。

(以上引用)


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 57偈

57 形が無く、堅牢でなく、見ることができない心をつねに制御して、はっきり知って、つねに念(おも)いをこめて歩み、束縛の絆を滅したブッダたち、___かれらは世間においてバラモンなのである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

心について、この偈と同様の表現がされているダンマパダの偈を引用します。
(以下引用)

35 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

36 心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。

37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。

(以上引用)

このような心を、おさめ、守り、制止した人は、真のバラモンです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 56偈

56 一切の苦しみをのぞくために、めでたい聖なる八支の道を修した人々___かれらは世間においてバラモンなのである。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「めでたい聖なる八支の道」について、ダンマパダから関連する偈を引用します。
(以下引用)
190、192 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。___すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。

273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。
(以上引用)

中村訳(岩波文庫)のダンマパダ273の注に、<八つの部分よりなる正しい道>について、次のように記されています。
(以下引用)
漢訳では普通「八正道」という。正しい見解(正見)、正しいおもい(正思)、正しいことば(正語)、正しいおこない(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい注意(正念)、正しい精神統一(正定)の八つである。この八つが人を解脱(ニルヴァーナ)にみちびく正しい道であるという。
(以上引用)

テーラワーダ仏教の教義では、これらの道を一つ一つ進むことで修行は完成すると教えます。もちろん初めから正しくできませんから、これらの道を、何度も繰り返し実践することで、修行は完成すると教えます。

SRKWブッダは、これらすべてを取り組む必要はなく、これらのうちから、自分の特性、性格にあった道を選び取り組めばよいと教えます。それよりも大切なことは正しい心構えだと教えます。

わたしの言葉でいえば、それは人間の真実を知り、本当にやさしい人間になろうとすることです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 55偈

55 つねにこだわりが無く、智をそなえ、疑惑を去り、ひとり歩み、遠くに行く人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「つねにこだわりが無く、智をそなえ、疑惑を去り、」は前回の54偈と同じです。

「ひとり歩み」については、SRKWの理法「孤独」を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou335.htm

(以下引用)
修行者が孤独であるべき――孤独の境地に励むべき――であると言うのは、修行はすべて自分自身のことがらであり他者との関わりに よって修行が進むなどということがまったく無いというほどの意。したがって、修行者が孤独であるべきというのは世人が孤独であることとは意味合いが違う。 ところで、もちろん覚りの機縁は他者との縁によるものであるが、これは世間の人の関わりとは違うものとなる。すなわち、修行者は孤独であってはならず世間 の人々と一定の関わりを持つべきである。しかし、そのようでありながら修行者は孤独の境地に励むべきであると説かれるのである。

 また、ブッダの孤独と言うのは、ブッダが孤独であるという意味では無い。これは、「もし世界に自分一人だけしか存在していないとするならば、たとえ衆生であっても一切の苦悩は終滅する(苦悩がそもそも 生起しない)」ことと同義のことがらとしてのことである。この意味においてブッダは孤独であり、しかしそれゆえに一切の苦悩から解脱していると知られるのであ る。
(以上引用)

「遠くに行く人」とは、無上、最高の境地(ニルヴァーナ、涅槃)に向かい人という意味です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 54偈

54 つねにこだわりが無く、智をそなえ、疑惑を去り、不死に達した人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(ダンマパダ411、スッタニパータ635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

覚った人の第一の特徴は、こだわりがないことです。何かにこだわっているとすれば、その人は覚っていないのです。

それは何故かというと、真実を見る智慧を備えているからです。真実が見えると、すべてが善きことであり、美しいからです。

「疑惑を去り」の疑惑とは、真実に対する疑惑です。真実がありのままに感じられるから、真実に対する疑惑はないのです。

「不死に達した人」とは、不死の境地に達した人です。

人はつねに死を恐れています。それは何故かと言うと、真実を知らないまま人生を終わることになるからです。しかし、真実を知った人は人生最大の恐怖がなくなったので、すべての恐れがなくなります。その境地を不死の境地というのです。安楽の境地(ニルヴァーナ)とも言います。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 53偈

53 糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、諸の欲望を省みることなく、樹の根にあって瞑想する人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

糞掃衣(ふんぞうえ)とは、捨てられたぼろ布を縫い合わせ、草の根で染めた布で作った衣(ころも)のことです。この意味は、貧しい衣類でも満足することです。すなわち衣類に頓著しないことです。

「諸の欲望を省みることなく」とは、衣類のみならず、食べ物や住まいに関しても、贅沢なものは求めず、あるもので満足し、それらに執著しないことです。

「樹の根にあって瞑想する」、瞑想するというと、特にここでは、「樹の根にあって」とありますから、樹の下に座って、眼を閉じて心を落ち着かせるという意味に取れますが、「瞑想」と訳された言葉は古代インド語では、心を育てる、修行するという意味です。

ただ瞑想すれば、覚ることができると考えるのは間違いです。覚りは、因縁によって、功徳を積むことによって起こる現象ですから、「糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、諸の欲望を省みることなく、樹の根にあって瞑想する人」を、ただちに真のバラモンと呼ぶことはできないでしょう。

今日からは東京からの発信です。昨日北海道から東京に帰ってきました。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 52偈

52 欲求がなくなり、しゃべることが無く、悪い心を除き、瞑想して、塵垢(ちりけがれ)を離れた人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「欲求がなくなり」とは不思議な感覚です。解脱して、自分の最大の欲求が達成し終わったので、もう求めるものがないのです。すべて満足しているのです。別に、特に死にたいとも思いませんが、もういつ死んでもいいという感覚です。

「しゃべることが無く」、欲求がなくなっていますから、しゃべりたいとも思わないのです。

「悪い心を除き」について、悪い心は何かに敵意を感じるとき現れますが、解脱した人は何ものにも敵意を感じないのです。凡夫には悪しきことと感じることも、善きことと感じるのです。悪い心は除き終わっているのです。

というわけで、心は落ち着いていて、心の汚れ煩悩は無くなっているのです。

さて、今日も釧路からの発信です。昨日は一日、石法如来に車で釧路湿原と釧路市内を案内して頂きました。釧路湿原は日本最大ということで、天気にも恵まれ、その広大な景色を満喫しました。釧路港近くには石川啄木のある公園があり、彼の短歌の書かれた石碑がありました。釧路市の高台には仏舎利塔ありました。思いだすことは熊本駅近くの高台の仏舎利塔です。仏舎利塔には仏を出現させる力があるのかもしれません。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 51偈

51 一切に打ち勝ち、迷いの生存を超え、激流を渡り、煩悩の汚れがなく、彼岸に達して、とらわれないの無い人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「一切に打ち勝ち」と「迷いの生存を超え」と「激流を渡り」と「煩悩の汚れがなく」と「彼岸に達して」と「とらわれないの無い」とは、同じことを述べているのです。

昨日は、勝利者について「他者に勝つということではなく、自分自身に勝つた人です。」と述べました。今日は「一切に打ち勝ち」について述べましょう。この意味は心の汚れである一切の煩悩に打ち勝ちとということです。

煩悩は百八あると言われていますが、細かく分類するとそれ以上になります。それらに一つずつ勝つのは大変です。しかし、すべて煩悩の大元に勝てばよいのです。そうすれば一切の煩悩に打ち勝ったということになるのです。

すべて煩悩の大元とは無明です。無明とは真実がわからないこと、真実を知らないことです。真実がわかってしまえばよいのです。

将棋で言えば、相手の王将を取ればいいのです。その他のコマをすべて取らなくとも勝ちになります。しかし、実際には王将をすぐに取ることはできません。はじめは歩を取るところから始まります。将棋に「一歩千金」という格言があります。一枚の歩にも大きな価値があるという意味です。一番価値がなさそうに見える歩の活用が勝負を決めるのです。

自分自身を顧みて、小さなことでも、自分の問題点だと思うことを一つずつ克服してください。それが「一切に打ち勝ち」に繋がります。

今日は、石法如来の住まわれておられる釧路からの発信です。昨日の午前は、知床五湖の辺りを散策しました。この辺りはヒグマの生息地であるため、ガイドの付き添いが必須となっていました。ヒグマに遭遇すると、散策は中止になるので、ヒグマに会いたいようような会いたくないような気持ちでした。天気はよく、羅臼岳など知床連峰がよく見えました。また天然保護種になっている頭が赤いクマゲラのオスをガイドさんが見つけてくれて、見ることができました。ヒグマには会えなかったと思っていながらの帰路でしたが、道路の遠方にクマがいました。すぐに林に入って行きましたが、彼(彼女)は別れの挨拶をしてくれたのだと思います。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 50偈

50 牡牛のごとく雄々しく、気高く、竜・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

過去には、覚った人(ブッダ)を「牡牛のごとく雄々しく」と形容することが多かったのですが、これは誤解を生むことがあります。修行者がブッダに対するイメージを作ると、そのイメージに拘束されて覚れなくなるのです。修行者は固定したイメージから離れなければなりません。

例えば、やさしい弱々しい女性が、ブッダは「牡牛のごとく雄々しく」とイメージすると、自分は違うと思うことがあるかもしれません。彼女は覚れなくおそれがあります。今では、「雌牛のごとくやさしく」と表現も加える必要があります。

「竜」は、古代インド語ではブッダや修行者を意味しています。竜をイメージする言葉は世界のどの地方にもあります。これは古代人が見えないが偉大だ存在をイメージ化したものです。それが雲の形などに現れるのです。「大切なものは見えない」と言った人がいましたが、見えない大切なものを意識することは覚るために必要です。

「勝利者」とは、他者に勝つということではなく、自分自身に勝つた人です。

「欲望の無い人」とは、不必要な欲は無い人です。

ここでいう「沐浴者」は、心身の汚れを洗い流した人です。水で洗えば心の汚れは落ちませんので、注意する必要があります。

このような人は、覚った人(ブッダ)であり、真のバラモンなのです。

今日は、北海道の東にあるウトロからの発信です。昨日は利尻島から稚内、宗谷岬、網走、ウトロとオホーツク海を臨みながらの移動の旅でした。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 49偈

49 一切の束縛の絆(きずな)を超え、驚ろき怖れることが無く、執著なく、よく行きし人、覚った人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「一切の束縛の絆(きずな)を超え」とは、真実を見る心の眼を曇らせる障害物を無くしてという意味です。ここにいると、山の頂上を隠している雲のようなものと思えます。

真実が見えれば、驚き恐ることは何もないのです。もちろん、執著すべきものは何もないことがわかります。

般若心経にはこのことを、「心無罣礙無罣礙故無有恐怖(しんむけいげいむけいげいこむうくふ)」と書かれています。意味は「心に障害がない、障害がないので、恐怖がない」ということです。

心の障害とは、心の名称作用と形態作用です。心には名称作用によって観念という障害があります。また形態作用によって経験という障害があるのです。

これらが無くなれば、真実が見えるのです。真実が見えれば、恐怖が無くなれば、恐怖がなくなります。執著もなくなります。

ということで、一切の束縛の絆(きずな)を超えた人は、真のバラモンなのです。

以上、今日も利尻島からの発信です。空は晴れてきました。良い天気になりそうです。昨日は利尻山を登りました。私たち(私76才、妻70才)は老人ですから、無理をせず登れるとところまで登ることにしていました。ゆっくりと途中の高山植物を愛でながら、小鳥の声を聞きながら登りました。

途中までは私たちだけの登山でしたが、七合目付近で、山を降ってくる一人の若者に出会いました。「こんにちは」と挨拶して別れましが、彼は早朝に登山し、頂上まで行って、降りてきたのでしょう。私たちは、そこから少し歩き、12時に、向きを変えて下山しました。

下山の途中で、大きな笹の葉に字が書かれているのを見つけました。よく見ると「大スキ」と書かれているのです。隠花植物の枯れた花で書かれた文字です。利尻山のメッセージと受け取りました。私も心の中で「ありがとう、私も大スキ」と言いました。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 48偈

48 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「生きとし生ける者の生死をすべて知り」とは、生命の始めと終わりをすべてを知りということですから、人生のすべてを知るということです。すなわち、人生の真実を知るということです。

人生の真実とは、何か? それはいろいろ表現できるのですが、ここでは、人はみなやさしいことだと言います。

このことが、本当にわかってしまえば、何も執著することがないのです。修行が完成した人であり、覚った人なのです。

かれは真のバラモンです。

本日は利尻島からの発信です。昨日の利尻島は曇りでした。午前中は島の中央の利尻山は見えませんでした。そこで昼過ぎに、利尻山が見えますようにと念じました。午後には晴れ間もあり、3時間ほどして念いが通じ、利尻山の頂上が姿を現しました。めでたし、めでたし。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 47偈

47 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、苦しみの終末を明らかに知った人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

現在の自分の意識を観察すると、自分ではなぜそうなるのかわからない感情などがあります。しかし、それらを何度も観察して、また他の出来事、人との出会い、夢などをきっかけにして、わかってくることがあるのです。また現在では、それらは学問的にも研究されています。それらを潜在意識といいます。現在の意識は、外部刺激によって起こりますが、潜在意識に支配されているのです。

「前世の生涯を知り」とは、自分の潜在意識を知りということです。

「天上と地獄とを見」とは、自分の潜在意識における天界と地獄を知ってということです。

「生存を滅ぼしつくすに至って」とは、自分の生存への執著を支配している潜在意識の名称作用や形態作用を知って、それが真実を知る障害になっていることを知るのです。そうすると、自動的に潜在意識の名称作用と形態作用はなくなるということです。

「直観智を確立した」とは、真実がわかったということです。

「苦しみの終末を明らかに知った」とは、苦をもたらす潜在意識の名称作用や形態作用なくなった結果を知ったということです。

そのような人は、真のバラモンなのです。


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お知らせ:昨日は書き忘れましたが、昨日東京から北海道に向かいました。新しい出会いが楽しみです。6月23日は、釧路の石法如来にお会いする予定になっています。今日は、稚内からの発信です。


































#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 46偈

46 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)も人間どももその行方を知り得ない人、無限の智をもっている人、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

仏教では生命の存在形態を、神々、人間、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄の住人などを考えています。これらは人間の意識の象徴なのです。

神々は、苦しみがほとんどなく、ほぼ楽しくに生きています。そのような人はいます。一人の個人にとってもこのような心の状態のときがあります。

人間は、苦しみもありますが、楽しみもあります。

阿修羅は、いつも怒っているのです。そのような人もいます。一人の個人にとっても、阿修羅のように怒っているときがあるのです。

餓鬼は、いつも求めるものが得られず、いつも苦しんでいるのです。かわいそうですが、このような人もいます。一人の個人にとっても、求めるものが得られず、苦しんでいるときがあります。

畜生とは、人間以外の動物です。動物のような心なのです。

地獄の住民の意識とは、地獄の苦しみというような、想像を絶する苦しみです。

神々にもいろいろ種類があって、天の伎楽神(ガンダルヴァ)は、音楽が好きな神です。音楽で楽しんでいるのでしょう。

さて、「神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)も人間どももその行方を知り得ない人」とは、上で述べた意識を超越した意識、究極の安楽の意識(ニルヴァーナ)を持った人という意味です。

「無限の智をもっている人」とは、無限の知識があるということではありません。物事の本質がわかった人、本当のことがわかった人という意味です。

そのような人は、真のバラモンなのです。