「覚りの因縁」が届く

昨日、SRKWブッダの第四番目の著書が注文していたアマゾンから届きました。
この著書の「はじめに」は2021年7月6日の記事で引用しました。
また、7月8日には「目次」を引用しました。

本日は、「あとがき」を引用いたします。

(以下引用)
あとがき

思うに、人が人として完成を見たとき以来、この世には数多の仏が出現したであろう ことは疑いの余地はない。

ところが、現実には、釈尊が世に仏教を広めてからこの方、実際に作仏した人は数十 人程度に留まるようである。

名が残っているブッダは数人に過ぎず、名前こそ残っていないがブッダであったこと が間違いないと考えられる人々の数も、主要な仏教経典の数や仏塔の本数から類推でき る程度に過ぎない。

その数は、釈尊以来この世に生まれた人の数から言えば余りにも少ないと思われよう。

このため、特別な素質や才能、あるいは前世において沢山の功徳を積んだ修行者でな い限り、現実に覚ることはできないのだとする誤った見解さえ、世に蔓延するありさま である。

しかしながら、人は誰でも修行して功徳を積みさえすれば覚って仏になれるという真 理は、嘘偽りのなく本当のことなのである。ただ、世の人々は、それが功徳を積むこと によって生じる因縁に縁って起こるという覚りの本質を見失っており、それゆえに修行 そのものが空回りしていることが見て取れるのである。

逆に言えば、この覚りの因縁さえあれば誰もが覚るのだと確約することさえできよう。

本書は、この覚りの因縁について、余すところなくその真実を述べたものである。こ ころある人がこの本を読めば、因縁の不可思議さと、威力と、それが人を究極のしあわ せの境地にいざない、至らしめる本体であることを理解するであろう。
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そして、その理解にもとづき、自ら仏になるのだという正しい求めを生じ、功徳を積 み、実際に作仏することを得るであろう。

また、今現在は修行が空回りしている修行者も、この覚りの因縁の真実を知ったとき、 その瞬間から、それまでの修行遍歴が何ら覚りの障害になるものではなく、むしろそれ らが覚りに必要な遍歴修行となることを身を以て体現することとなろう。

ところで、知恵の輪に取り組んでいる人は、まだその知恵の輪が解けないからと言っ て、そのことを恥じたりしないであろう。さらに真摯に取り組めば、きっと解けることを 信じているからである。そして、実際にそれを見事に解く日がやって来ることになろう。
同様に、仏道修行者は、まだ覚りを得ることができないからと言って、そのことを恥 じる必要など微塵もない。むしろ、胸を張って、凜としてさらなる修行に勤しむべきで ある。そうすれば、遠くない日に、見事に作仏する瞬間を迎えることになろう。

そして、今現在は外道に馴染んでいる人であっても、この覚りの因縁を知り、理解し たその瞬間から、すでに立派な仏道修行者に他ならないのである。このような人も、自 らの修行について何一つ恥じることはあたらず、自分が心からしあわせの境地を求めて いることを広く表掲してしかるべきである。

真理は、区別することなく、人々をしあわせの境地たるニルヴァーナへといざなうも のである。覚りの因縁は、その真理の実在と、それがすべての人々に共有されているこ とを実証する元のものなのである。

2021年7月3日 自宅にて記す
(以上引用)

このような文章を書ける人は本物のブッダ以外にはありえません。


覚ったら、何が変わったの?

私はテーラワーダ仏教の比丘(僧侶)をやめていわゆる還俗しましたが、修行をやめたわけではありません。

現在のテーラワーダ仏教の教義と儀式に従って、修行するならば覚ることはできないと気がついたからです。

その切っ掛けは2014年に、SRKWブッダのホームページ「覚りの境地」を知ったからです。

さて、比丘をやめましたが、昔の何人かの信者さんと繋がりはあります。

その中の一人の紹介で、ある方と久しぶりに会いました。

私は彼女にあって、2019年に覚ったことを話しました。

彼女は私に聞きました。

「覚ったら、何が変わったの?」

私は答えました。

「もう何も求めるものがなって、ほっとした。・・・

私は若い頃から、いつも何かを求めてきました。

何かをしなければいけない。

何をすればいいのだろう?

正しいことはなんだろう?

真実はなんだろう?

本当のこととはなんだろう?

私は何を求めているのだろうか?

私とはなんだろうか?

しかし、私は覚ったと自覚したとき、

それらがすべて消えたのです。

もう探求しなくてよいと感じたのです。

・・・・・

ある意味、もう何もしたいことがないのです。

本当に楽になったという感じです。

・・・・・」

と答えました。


ブログのタイトルを変更しました。

昨日、このブログのタイトルを「法津(のりつ)如来の独り言」から「自称『法津(のりつ)如来』のブログ」に変更しました。

変更理由は、ブログのトップページのブログ紹介に次のように付け加えました。
2021年7月26日、ある方のブログ記事を拝見しヒントを得て、ブログ名を、自称「法津(のりつ)如来」のブログに変更しました。自称であれば、如来と名乗ることに抵抗のある方も納得していただけるでしょう。(2021.7.26)

自称ならば、この人は自分では如来になったと思ってくれるでしょう。

極端な言い方をすれば、その人がどのように名乗ろうとその人の自由ですから。

以前(2021年2月17日)に、「なぜ法津如来と名乗るのか?」という記事を書きました。
https://76263383.at.webry.info/202102/article_19.html

しかし、事情を詳しく知らない方には、特に「如来」と名乗ることに違和感を持たれるでしょう。

また、そのように名乗る人のいうことを受け入れがたいということもあります。

確かに、私も他人に自己紹介するときは、法津如来とは言いません。本名をいいます。

また、自分のブログを紹介するときは、「法津(のりつ)如来の独り言」とはすこし言いにくかったのです。

如来はブッダということであり、覚った人という意味です。

これは、解脱知見を得て、自分で解脱したと確信したものです。他の人(例えば師匠等)から認めてもらったから、如来(ブッダ)になったというものではありません。

自分は解脱したのかな等と思って、他人に認めてもらいたいと思っている人は覚ってはいません。


無意識の世界

本日、SRKWブッダの新刊「覚りの因縁」が出版されます。
アマゾンで購入できます。
https://www.amazon.co.jp/覚りの因縁-不可思議なる因縁のすべて-∞books-ムゲンブックス-デザインエッグ社/dp/4815027773/ref=sr_1_1?dchild=1&qid=1627239298&refinements=p_n_binding_browse-bin%3A2423861051&s=books&sr=1-1


さて、覚りといえば、無意識の世界に関心を持たないわけにはいきません。
そこでユーチューブで調べてみると、面白い動画がみつかりました。

大嶋信頼 無意識の旅 〈ルーチンを使って無意識のことを書くつもりが〉
https://www.youtube.com/watch?v=VH42ol5hqRE

大嶋信頼 無意識の旅 〈日本が無意識で元気になる予感!!〉
https://www.youtube.com/watch?v=eR58e2hyD7w

前者は、「ルーチンを使って無意識のことを書くつもりが」というブログ記事からのものです。
http://insight-fap.jugem.jp/?day=20190610

この動画は、大嶋信頼さんの考える無意識をフロイトやユングの考え方と比較して述べられています。
特に興味を持ったことは、ぼーとしている時は、脳の全体が活用されていて、無意識に触れていて、他の人の無意識とつながっているだというようなことが述べられています。

後者は「日本が無意識で元気になる予感!!」というブログ記事からのものです。
https://www.youtube.com/watch?v=eR58e2hyD7w

この動画もかなり面白いです。
まず、歩きながらや電車のなかでスマホをやる人たちについて述べられています。
このような人を普通は、「うざいな・・・人の迷惑を考えなさい・・・」などと考えて、相手を裁いて、怒りなりますが、その人たちはすごいことをやっている、無意識の力を使ってやっていると考えると、相手が幸せに見えてくるというものです。
途中を省きますが、無意識の力を使うことで、・・・「日本が無意識で元気になる予感!!」のようです。

この二つの動画は短いですから、是非見てください。覚りの道につながるヒントがあるかも知れません。

石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その13)

以上、十二支縁起の観想法について述べてきましたが、これは仏教の修行体系である三学のうちの、増上心学(定)に該当する修行法です。
だが、三学における増上戒学(戒)、増上心学(定)、増上慧学(慧)は不即不離なものであり、その兼修により智慧が強化され、無明を根源とする煩悩を断滅することにより解脱が達成され、涅槃の境地に到達することが出来るとされるのです。
 
しかし、そのためには相応のプロセスが必要となります。その解脱に至るプロセスを、前述した経典は明確に示しています。それを示しますと・・・。
1、世間の念ずべき端正の色において、「病の如く悪いものの如く、煩悩の矢の如く、殺生の如く、無常なり、苦なり、非我なり」と観察する。
 
2、観察を進めることにより、愛(渇愛)から離れる。
3、愛から離れるが故に、億波提(おくはてい・執着)から離れる。
4、億波提から離れるが故に、苦から離れる。
 
5、苦から離れるが故に、生老病死憂悲悩苦から離れる(解脱する)。
ただし、この解脱のプロセスは、縁起を説くこれらの経典に限定されるものではなく、その他の法(ここでは五蘊)を説く経典にも見られるのです。すなわち・・・。
 
1、「この如く諸々の比丘、色は無常なり、受・想・行・識は無常なり。無常なるものはすなわち是れ苦なり。苦なるものはすなわち非我なり、非我なるものはすなわち我所に非ず。」
2、聖弟子、この如く観るものは色を厭い。
3、受・想・行・識を厭う。
 
4、厭う者は(欲望の対象を)楽しまず。
5、楽まざれば、すなわち解脱す。
これら、二種の経典から「法の観察-厭離-離貪-解脱」という、原始仏教における解脱のプロセスが認められるのです。
 
このように、釈尊の説かれた仏教の実践行とは、法(ダルマ)を解明する理論と密接に絡み合って、輪廻の超越である涅槃を目指すよう体系づけられていることが理解出来ます。
まさに、仏道修行における「この滅への修行は理論と実践の別を存しない。」というのが、仏教という思想体系のもつ大きな特性とも言えるのです。
 
まとめ・・・。
私が、佛教大学の通信教育学部本科(文学部仏教学科)に入学したのは、1995年(平成7年)のことです。卒業は、1999年(平成11年)でその2年ほど前から卒業論文に着手しました。
全く何も分からない中、『論文の書き方』を学び『大正新脩大蔵経』(漢文)を翻訳して引用文献としました。
 
今回の記事は長いですが、仏教思想の勉強になるということで過去作成の卒論を読み返し、手直ししながら文章を打ち直しました。
以前の記事、「富永仲基について」で学びましたように実際経典は加上(かじょう)が多く、思想的には相当膨らんでおり理解も難しいです。
 
縁起思想の最大の眼目は、「生起の法は、滅の法でもある」ということです。「蘆束(あしたば)のたとえ」にあるように、沢山集まって立っている蘆束も「どれかひとつ除いたら全て倒れてしまう」ということで、SRKWブッダの「どれでもよい。苦の要因を一つでも滅することができれば同時にすべての苦の要因が消滅する。」(『覚りの境地』81頁参照)の教えに相応しております。
 
十二支縁起は、難しい理論ですが釈尊が在世時弟子達に縁起を説いたと考えた場合、簡単な三支か四支のものだったはずで、それ以外は「加上」により膨らんだものと考えられます。
そう考えると、仏教思想も「簡単・平易ではあるけど肝心なところ(所謂・法や正法)」を重点に学んで思索を繰り返す、というやり方のほうがより現実的・実際的であると言えます。            

                    (おわり) 


*法津如来のコメント

石法如来 長文の特別寄稿ありがとうございます。

佛教大学の通信教育学部本科(文学部仏教学科)の卒業論文とのことですが、お仕事をしながらの論文作成であったのではないかと思います。ご苦労様でした。

また、新たなテーマでの寄稿をお願いいたします。


                                                                         

心の構造と社会の構造

ふと、面白いことに気がつきました。

心は、社会と同じような構造になっているということです。

社会にはいろいろな人々がいます。

それらの人々が寄り集まって、生きるために活動します。

そうすると。組織ができます。

組織ができると、それを管理する人々と管理される人々ができます。

世の中は常に変わっていますから、組織がいつも上手く運営されるとは限りません。

問題が起これば、管理する人々と管理される人々が対立します。

対立すると管理者は困りますから、仮の管理者を立てて、真の管理者は影に隠れます。

真の管理者は管理される人々にはわからないように、影に隠れて仮の管理者を支配します。

管理される人々は、そうとは知らず、仮の管理者と対立します。

仮の管理者は、真の管理者ではないので問題は解決しません。

さて、何を言いたいかと言えば、心もそのようになっているのではないかということです。

すなわち、心はいろいろな問題に直面します。

欲しいものがあるが、お金が足りなくて買えない。

職場や学校に嫌な奴がいて、行きたくない。

なぜか友達ができなくて、淋しい。

これらの問題は比較的単純ですが、自分でも訳のわからない不安や怒りあるでしょう。

後者の場合は、自分でも気づかない思い込み(社会の場合の仮の管理者)を作っているのです。

まずは、自分でも気づかない思い込みに気づく必要がありますが、その先があります。


アッサジ長老とサーリプッタ尊者のエピソード

昨日、朝6時にラジオ体操を行う運動広場に出かける道筋に、こちらに向かって歩いてくる一人の中年の女性がいました。その歩き姿が素晴らしく、思わずこちらの姿勢が正されました。

その時、今から二千数年前インドの朝の街角を歩いている一人の比丘とサーリプッタ尊者のエピソードを思い出したのです。

そのエピソードについては、過去のブログに書きましたので、それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200902/article_13.html

(以下引用)

 悟った人から学ぶことは、その言葉からももちろんありますが、それ以上に立ち振る舞いにあります。経典の中から、私が立ち振る舞いが大きな意味を持ったとして、思いだされる場面はパーリ律蔵の大品に書かれている「サーリプッタとモッガッラーナの出家」に関する文章です。宮元啓一著「仏教かく始まりき」(春秋社)の200ページから引用します。

 「時に、アッサジ長老は、早朝に下衣を着け、鉢と衣を持って王舎城に乞食をしに入り、行くも帰るも、前を見るのも後ろを見るのも、屈するも伸ばすも清らかで、目線を下に落とし、正しい威儀のあり方にかなっていた。遊行者・サーリプッタは、アッサジ長老が王舎城で乞食をしながら、行くも帰るも、 前を見るのも後ろを見るのも、屈するも伸ばすも清らかで、目線を下に落とし、正しい威儀のあり方にかなっているのを見た。
 見て、彼に、次のような思念が生じた。『世間において尊敬を受けるに値する人、あるいは尊敬を受けるに値する道に入った人々、この人は、そうした比丘たちの一人だ。私は、この比丘に近づいて訊ねてみよう。『友よ、あなたは誰のもとで出家したのですか。あるいは、誰があなたの師なのですか。あるいは、あなたは、誰の教え(真理)を喜んでおいでなのですか』と」

(以上引用)

アッサジ長老は「自分は世尊の弟子である」と答え、

また、世尊は何を説かれているのかという質問にたいしては次の詩句を唱えたということです。

「諸々の事がらは原因から生じる。
真理の体現者はその原因を説きたもう。
諸々の事物の消滅をもまた説かれる。
大いなる修行者はこのように説きたもう。」

この言葉を聞き、サーリプッタ尊者は「法の眼」を開いたということです。

つまり、預流果に悟ったということです。

これは、SRKWブッダの説かれる(第一の)法の句に相当するでしょう。

石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その12)

また、最初期の経典である『スッタニパータ』には、つぎのような縁起の観察法が説かれています。
「「およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起こるのである」というのが、一つの観察〔法〕である。「しかしながら、素因が残り無く離れ消滅するならば、苦しみが生ずることがない」というのが第二の観察〔法〕である。このように、二種〔の観察法〕を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修業僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。・・・すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」・・・。
 
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである」というのが一つの観察〔法〕である。しかしながら無明が残り無く離れ消滅するならば、苦しみが生ずることがない」というのが第二の観察〔法〕である」(『スッタニパータ』第三章十二「二種の観察」)
 
と述べられた後、潜在的形成力(行)、識別作用(識)、接触(触)、感受(受)、妄執(愛執)、執着、起動、食料、動揺などを含め十一項目に関し、「縁って起こる」という観察法と「それらを離れ消滅するならば、苦しみが生ずることがない」という観察法とが示されているのです。
 
ここで説かれる(二種の)観察法は、最初期の経典であるスッタニパータに記されていることを考え、前述した伝承(菩提樹下において「さとり」を得たという)に通じる実践修行法といえます。
また、縁起で説く生老死の苦から脱し、さとりを得るための観想法として、原始仏教以来「四念処」(しねんじょ・仏教における悟りのための4種の観想法の総称)が説かれています。
 
「もし比丘、四念処を離れずんば聖の如実の法を離れざるを得、聖の如実を離れずんばすなわち聖道 (しょうどう・仏の教え)を離れず、聖道を離れずんばすなわち甘露(かんろ)法を離れず、甘露法を離れずんばすなわち生老病死憂悲悩苦より脱することを得るなり。」(『雑阿含経』巻第二四(六0八)と。
 
すなわち四念処とは、
1、身念住(この身は不浄なり。)
2、受念住(受は苦なり。)
3、心念住(心は無常なり。)     
4、法念住(法は無我なり。)
という、さとりを得るための四種の観想法であり、初めはその四項をそれぞれ別に観念し、次にそれら四つを一つにして、身体・感受・心・そしてすべての事物(法)は不浄である、また苦である、無常である、無我であるというように思い浮かべる修行法です。            
 
また、修業を説く他の経典には・・・。
「この如く比丘、無常想を修習し多く修習せば、よく一切の欲愛・色愛・無色愛・掉慢無明(じょうまんむみょう・愛(タンハー)の実現に執着する)を断ぜん。」(『雑阿含経』巻第十(二七0))と、無常想を多習すれば愛(欲愛・色愛・無色愛)とともに掉慢無明に至るまで断ずると説かれていることから考え、経典に共通するのは「法を観ずる」ということであり、法を観ずるとは般若(はんにゃ・智慧)の立場に立つことであり、従って無明を滅することであると理解出来るのです。
 
特に前述した経典には、「無常なり苦なり空なり非我なりと観察せよ」と、三つの法印が観想法として説かれており、法印の実践性が認められるとともに、「空」の概念が注目されます。
空とは、「もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ」であり、縁起とは同義語です。
 
この空の思想は、後代の大乗仏教によって強調されていますが、最初期の仏典にも・・・。
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば、死を乗り越えることができるであろう。」(『スッタニパータ』一一一九偈)と、説かれ原始仏教における空の実践性を知ることが出来ます。
 


ライオンのおやつ

昨日、妻が録画した「ライオンのおやつ」というドラマを見ました。

このドラマは、「余命を宣告された29才の雫は、美しい島のホスピスで過ごすことを決めた。そこに暮らす人たちとの出会いと友情が、雫にたいせつなことを思い出させてくれる。優しく流れる時間の中で、人生の価値を描き出す物語」というものです。

このドラマはウィキペディヤによると、小川糸による日本の小説、2019年10月にポプラ社から刊行され、2020年の本屋大賞第2位を受賞したもののドラマ化とのことです。

さて、このドラマを見て感じたことは、ガンという病気はありがたいなということです。

このように言うと、「患者や家族の身になってみろ、その辛さや苦しみがわかってない」と言われるかもしれません。

しかし、ガンという病気ほど、自分の死や家族の死を感じされるものはありません。

ガンにでもならないと、人間は必ず死ぬものだとは知ってはいますが、自分は死ぬものだとは思えないのです。

これは、自分の死を直視することを避けているからでしょう。

度々このブログで引用するダンマパダ6偈は次のように述べていますが、

「『われらは、ここにあって死ぬはずのものである。』と覚悟をしょう。___このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。」

ガンにかかったこころある人々は、自分に関わりを持った人々への感謝の念が湧いてくるのです。

コアラとパンダの話

昨日は、4歳の男の孫を一人あずかりました。彼は、最近のおもちゃを持参しました。

プスチックの電気じかけの器械に、動物や虫などが書かれたカードを入れると、それらの特徴が音声で聞こえます。

彼はコワラの話を私に聞かせたかったようで、コアラの絵を器械にいれました。

「コアラの赤ちゃんはお母さんの糞を食べます。」という音声が出ました。

そうすると、彼は「汚い」と言って笑いました。

このことに関しては、私はよく知っていて、コアラのお母さんは離乳食として、自分の糞を食べさせるのです。

コアラの主食であるユーカリの葉は赤ちゃんが食べるには硬すぎるのです。しかもユーカリの葉には毒があり他の動物は食べられないのですが、コアラの腸内にはユーカリの葉を消化し、この毒を無毒化する腸内細菌が生息しているのです。それでコアラは生き延びてきたのです。

コアラのお母さんは自分の腸内細菌を赤ちゃんにの腸内に住まわせるために、自分の糞を食べさせるのです。

ちなみに、胎児の腸内は基本的に無菌です。これは人間でも同じで、人間の胎児は産道を通るときや、授乳などを通じて、お母さんの腸内細菌が赤ちゃんに引き継がれるということです。

お母さんの腸内細菌を持ってない赤ちゃんは少し体が弱いということで、帝王切開で生まれた赤ちゃんにお母さんの腸内細菌を赤ちゃんに与える研究や治療が進められているとのことです。

もう一つ、腸内細菌に関する話。

哺乳綱食肉目クマ科のパンダはもともとは肉食だったことは、腸内の構造からほぼ確実とされています。
では、なぜパンダは竹だけを食べて生きているのでしょうか?

この謎は、数年前にパンダの消化管ないから、他の草食動物の腸管内に生息しているのと同じセルロース分解酵素が発見され、竹食で生きていけるメカニズムが解明されたということです。

しかし、本来肉食である動物が、竹のみで生活するようになったのだろうか等の疑問がうまれます。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その11)

戒とは、習慣・習性・慣行などの意味があるが、心身を調整して悪をやめ善をなさしめる宗教的同時的な行為の規範や生活の規定のことです。

定とは心を統一し、安定させることで、音写して「三昧」(さんまい)あるいは「三摩地」(さんまち)といい、また「等持」(とうじ)とも訳します。その具体的方法としては「禅」と呼ばれる瞑想が主であるため、しばしば両者を合わせて「禅定」とよびならわしています。
 
慧とは、智慧のことで般若(はんにゃ)ともいう。般若は、世間一般でいう知識ではなく真実を見聞し、諸法の実相を見きわめ、空を体観するいわば絶対智であり、その智慧は煩悩の汚れがないから無漏智(むろち)といわれます。
 
前述した八聖道を三学に分けてみれば、正語・正業・正命の三つは戒学にあたり、正念・正定の二つは定学にあたり、正見・正志(思)の二つは慧学にあたり、正方便(精進)はいずれにも通じるものといえます。
 
三学ついて経典には・・・。
「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律とともに修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一とともに修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧とともに修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから全く解脱する。」(『ブッダ最後の旅』(大パリニッバーナ経)第一章十二)と、戒・定・慧の不即不離な三学の兼修が仏道修行の完成をもたらすと説いています。
 
第二節 十二支縁起の観想法
 
何度も述べてきたように、仏教において種々の実践行を修する目的は、この現象の世界に生きる人間の苦を滅し、輪廻を脱して究極の境地である「涅槃」(ねはん・ニルヴァーナ)を得ることにあります。
 
その目的成就のために、前節では中道の実践行として八聖道について述べてきましたが、本節では経典に「いかんが思量観察せば正しく苦を尽くし、苦辺を究竟(くきょう・物事の最後に行きつくところ)」するや。」(『雑阿含経』巻第十二(二九二))とあることから、十二支縁起の実践行としての「観想法」に焦点をあてて考察してみます。
 
釈尊の正覚成就を説く経典によれば、未だ正覚を成就せざりし時、独一静処において専精に禅思し、次のような念(おもい)をなしたとあります。
 
「何の法有るが故に老死あり、何の法に縁るが故に老死有るやと、すなわち正しく思惟して実の如く無間(むけん・絶え間なく)等を生じき。生有るが故に老死あり、生に縁るが故に老死有り。・・・生に縁りて老病死憂悲悩苦、この如くこの如くして純大苦聚集(じゅんだいくじゅしゅう)すると、
 
我ときにこの念をなしき。何の法無きが故に則ち老死無く、何の法滅するが故に老死滅するやと。すなわち正しく思惟して実の如く無間等を生じき、生無きが故に老死無く、生滅するが故に老死滅する。・・・有滅するが故に生滅し、生滅するが故に老病死憂悲悩苦滅し、この如くこの如くして純大苦聚滅(純粋にして大いなる苦のあつまりの集積の滅)すと。」(『雑阿含経』巻第十二(二八七))
 
そうして、古い仙人の道・逕(けい・小道)・道跡を得、この法において自ら知り覚り、等正覚を成(じょう)じたと経典は記しています。
 
この経典中にある、「独一静処において専精に禅思しこのような念(おもい)をなした。」、あるいは、「正しく思惟して」等という記述から、釈尊は瞑想を行じて十二支縁起の順・逆を観るという観想法を修したものと考えられますが、それは前述した「その時、菩薩逆順に十二因縁を観じ・・・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら-さんみゃくさんぼだい・一切の真理をあまねく知った最上の智慧)を成ず。」という記述とも対応することから、菩提樹下でさとりを得たという伝承を裏付ける修行法であると推察出来るのです。


食生活が精神に与える影響について

最近、食生活に関することをこのブログで書いています。

2021年6月17日:食生活を改善すること
https://76263383.at.webry.info/202106/article_17.html


2021年6月24日:意外なところの、意外なものが人間の精神に大きな影響をあたる
https://76263383.at.webry.info/202106/article_24.html

この「意外なところ」は大腸であり、「意外なもの」は腸内細菌なのです。

食事には、単に生きるために食べる、楽しみのために食べるということでなく、食事を通じて修行ができるという意味があるのです。

修行は、顕在意識を改善するだけではだめで、潜在意識を変革しなければ完成しません。

潜在意識の変革は、変えようと思ってもできないのです。

最終的には、一大事の因縁によって、法の句を聞き、解脱するということになるのですが、

意図的に、潜在意識の変革の下地を作ることができることが科学的にわかってきました。

食物の質や量を変えることによって、腸内細菌フローラ変えたり、眠っている遺伝子を活性化させること(オートファジー等)で、あるていど潜在意識を変えることがわかってきたからです。

いつも頭がさえない人々や、鬱になる人々、いつもイライラしている人々、これらの人々は腸内細菌の影響でしょう。

食生活を変えて、腸内細菌フローラを変えれば、多くの場合改善するはずです。

テーラワーダ仏教や禅宗などの戒律にも食事に関するものが多くあります。

その意味を正しく知らずに、儀式化、形骸化されていますが、実は深い意味があるのです。


栄養学の間違った常識

一昨日7月15日に「常識を疑え」という記事を書きました。

その一つの具体的な例として、栄養学があります。

そのことを指摘している「宗田哲男著『ケトン体が人類を救う』(光文社新書)」という本があります。

この本の序章「本書で伝えたいことのあらかじめのまとめ」があります。

その要約を以下に書きます。

今の栄養学では、間違っている6つの説(神話)があります。

1 カロリー神話
血糖値とカロリーには何の関係がないのにもかかわらず、カロリー制限で糖尿病を治そうとする矛盾。

2 バランス神話
食事は「バランスよく」と言って、じつは炭水化物を60%もとらせる。タンパク質、脂肪は、それぞれ20%である。これらの比率には、学会も認めるように根拠がない。

3 コレステロール神話
肉や脂肪は「コレステロールが上がるから食べ過ぎないように」と教えられているが、厚生労働省は2015年4月で、食事からのコレステロールの摂取制限目標値を撤廃したにかかわらず、ほとんどの医師や栄養士は、今だにこれを理解していない。

4 脂肪悪玉説(肉・動物性食品悪玉説)と
5 炭水化物善玉説(野菜・植物性食品善玉説)
肥満は脂肪が原因、これはほとんどの人がそう信じているが、これこそが間違いであって、肥満は糖質過剰摂取で起こる。

6 ケトン体危険説
ケトン体は危険な物質であるというのは、20年前の知識で、もはや前世紀の遺物である。今やケトン体は胎児、新生児のエネルギー源であって、健康と、アンチエイジングのエネルギー源である。

 これらの大きな間違いが相互に補完しあうことで、今やますます、肥満、糖尿病、成人病、小児糖尿病を増やしており、それらを膨大な薬剤で治療しようという馬鹿げた医療が進行中である。
 これらの説に基づいた治療法は、完全に方向性が間違っているにもかかわらず、ほとんどの医師は気づいていない。多くの医学会がガイドラインで治療内容を拘束しているため、自由に考える医師集団は、すでに壊滅している。

要約は以上です。

この見解が正しいかどうかは、上記の本全体を読んで各自確かめてほしいのですが、このように告発している事実があることは、知っておいた方がよいです。

私自身は、この本を全体をもちろん読みましたし、また他の文献も参照し、自分の体で確かめましたので、大筋正しいと考えています。

(一部疑問はあります。タンパク質はいくら取ってもよいとするところです。)

最後に、仏教や覚りに関するブログのはずであったのに、なぜ栄養学が話題になるのかという疑問があるかもしれないので、それにお答えします。

それはその人の食生活が、その人の精神に大きな影響をおよぼすからです。

また、その人の食生活はその人の運命を決めるでしょう。

糖質を過剰にとる人は覚ることはないでしょう。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その10)

仏教でいう智慧とは「般若」ともいい、「個々の現象を分析して判断する識から出発して、これを越え存在の全てを全体的に把握するようになる」ことであり最初期の経典には、「明らかな智慧によって四つの尊い真理を見るときに、この人は迷える生存の妄執を破り摧(さい・砕く)く道を明らかに知る。」(『ウダ-ナ・ヴァルガ』(第十二(一))
 
「「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」(『ウダ-ナ・ヴァルガ』(第十二(五))

と、四つの真理(四聖諦)や法印(三法印)などの、法(ダルマ)に対する深い考察が智慧の源であると教えています。
最初期の仏教徒が智慧を重んじたのは、われわれの存在の奥に潜む盲目的な渇きにたとえられる妄執(渇愛)も、知る働きによって滅ぼされると考えたからであり、その過程は明知が無明を破り、それによって解脱が起こるのであると説かれたのです。
 
つぎに、行(実践)の面から考察すると、中道における具体的な実践行とは前述した四つの尊い真理(四聖諦)の道諦で示されている八聖道(八正道)を指すのです。
八聖道は、正しくは聖八支道といわれ「八つの構成要素(すなわち支分)よりなる聖道」という意味であり、正見と正思と正語と正業と正命と正精進と正念と正定とを総括して示す語です。
 
この八聖道において肝心なことは、何が正しい見解(正見)なのかということであり、経典では誤った見解について説いています。
「無明とは無知なり。善、不善法において実の如く知らず、有罪無罪、下法上法、染汚不染汚、分別不分別、縁起非縁起に実の如く知らざる成り。実の如く知らざるが故に邪見を起こす。」(『雑阿含経』巻第二八(七五0))
 
すなわち、十二支縁起の無明や縁起そのものを如実に知らないことを、経典では誤った見解(邪見)であると述べ、それゆえ邪志(邪な思い)乃至邪定(邪な精神統一)が起こると説くのです。
経典は続いて、八聖道の要ともいえる正見についても説いています。
 
「明とは善、不善法において実の如く知り、有罪無罪、親近不親近、卑法勝法、穢汚白浄、有分別無分別、縁起非縁起にことごとく実の如く知るなり。実の如く知らば是れすなわち正見なり。」と。 (『雑阿含経』巻第二八(七五0))
 
すなわち正見とは、善法を生ずるための明(智慧)であり、「正見が成立すれば正志(思)、正語、正業、正命、正方便(精進)、正念、正定が成立し、正しく貪恚癡(とんじんち・三毒)より解脱することが出来る。」と説くのです。
 
このように、十二支縁起の理論面では「苦の生起と滅尽」という道理を示すに止まっていましたが、具体的にどうしたら無明や愛(渇愛)を滅し「老病死憂悲悩苦」を解決して、涅槃を得ることが出来るのかとという具体的な実践の道は示されておりませんでした。
 
そのように考えると、十二支縁起の思想は「如来が世に出現してもしなくても、永遠に変わらざる真理」ではあるが、そこにおいて説くところの教えは自ずと限界があり、修行の実践という不足部分は、四聖諦の苦滅道聖諦の八聖道で補っていると考える事が出来るのです。
 
また、正しい智慧の実現の道は、八聖道の実践によって得られるが、これまた戒定慧の三学としてもまとめられています。
三学とは、増上戒学・増上心学・増上慧学の三(みっつ)をいうのであるが、これらの三つは順次に戒・定・慧を自性(じしょう・物それ自体の独自の本性)とするものであるので、戒・定・慧の三学ともいわれています。


常識を疑え



今日は初めに、ダンマパダ62偈を引用します。

「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。

しかしすでに自己が自分のものではない。 
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。(中村元 訳)

ここでは、「自己が自分のものではない。」と述べられています。

「自分は自分のもの」というのが世間の常識です。

しかし、ゴータマ・ブッダは、自分は自分のものではないと言われるのです。
このには述べられていませんが、自分などというものはないのだという無我を教えているのです。

この結論をすぐに受け入れるのは難しいでしょうけれども、

私たちは、いわゆる常識というものを疑わずに、それに支配されています。

それが大した問題でない場合はそれでもよいのですが、

それが大きな間違いを犯すことがあります。

古い例では、天動説が間違いで、地動説が正しかったということです。

少し前のわかりやすい例は、太平洋戦争(第二次世界大戦)です。

一部の人を除いて、日本国国民はあれを聖戦として受け入れ、あの戦争に突入したのです。

現在進行中の問題、例えば新型コロナやそのワクチン等についても、新聞やテレビの情報だけで、それが常識だとすると、大きな間違いを起こす恐れがあります。

いわゆる専門家という人々も古い常識にとらわれていて、正しいことを言っているとは限らないのです。


タキミカ90歳

昨日、昼食後にテレビを見ていたら、「徹子の部屋」で「タキミカ90歳」を放映していました。

その時のゲストは、タキミカこと瀧島未香さんでした。

昭和6年生まれの90歳だそうです。

65歳の時、ご主人から「太ったね。」と言われて、スポーツジムに通いはじめたそうです。

57Kgあった体重が、今は42Kg。

そして、プロのスポーツトレナーにになっておられます。

テレビで見た彼女の動きや、肌のツヤ、声、そしていつも笑顔が素敵でした。

彼女は、「いつからでも、すこしずつ、諦めないで。」と言っていました。

ユーチューブに、【90歳まで動ける体に!】日本最高齢インストラクター・タキミカさんの〈くるくるタキミカ体操〉【美ST公式】がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=h5Ork4_N1EA

参考までに、次の記事も紹介します。
「日本最高齢フィットネスインストラクター瀧島未香さん89歳、いつまでも現役!の【食生活】拝見」
https://be-story.jp/article/26526



石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その9)

第三章 十二支縁起の実践行
第一節 十二支縁起と中道
 
先ず、釈尊が目指した仏教の実践修行には、一体そのような意義があるのでしょうか。経典では、人間には「聖なる求め」と「聖ならざる求め」があると教えますが、釈尊が実践修行を始めるにあたって想定したのは「聖なる求め」でした。
 
釈尊は、十二支縁起における「老病死憂悲悩苦」を解決し、輪廻からの解脱を成就して仏教の究極の目標である「涅槃」(ねはん)を求めたのですが、実際十二支縁起で説く実践行とはどの様な性質のものだったのでしょう。
 
何より縁起の実践を語るうえで重要なのは、「中道」の概念です。中道という概念は、釈尊が成道後初めてされた説法(初転法輪)において出てくるものですが、そこでは欲求に身を任せることと、いたずらに苦行で身を苦しめることとの二つの極端を離れる中道(有無中道・不苦不楽の中道)が説かれています。
 
中道と縁起について、経典には次のように説かれています。
「自作自覺は、すなわち常見(じょうけん)に堕し、他作他覺はすなわち断見(だんけん)に堕するなり。義説法説(ぎせつほうせつ)は、此の二辺を離れ中道に処して法を説く。」(『雑阿含経』巻第十二(三00))  
 
この経典で重要なのは、常見(じょうけん)とは「この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張した見解」であり、断見(だんけん)とは「因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解」というところです。
 
経典には、「世間の集を実の如く正しく知見せば、もし世間無しとする者は有らず。世間の滅を実の如く正しく知見せば、もし世間有りとする者は有ること無ければなり、これを二辺を離れて中道を説くと名ずく。」(『雑阿含経』巻第12(三0一))と。
 
現代語訳「世間の苦しみの起こる原因(集)を正しく智慧によって見るならば、世界は無常可変であり、人が死ねば後に何も残らないとする考え(断見)はあり得ない。また、世間の消失(滅)を正しく智慧によって見るならば、世界は常住であり人が死んでもその霊魂は不滅であるとする考え(常見)はあり得ない。この極端な二つの考えを捨て、中道を説くというのです。」
 
二つの経典で述べている中道(ちゅうどう)とは、「断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと」を言います。
前者は、断見と常見の二つの極端な考えを離れることが、後者は「有と無」の二つの極端を離れることが、ともに中道であると説かれています。
 
この二つの経典で、つづいて「これ有るが故に彼れ有り。これ起こるが故に彼れ起こる。」という縁起のフレーズが記されているところから、中道とはすなわち縁起であると言うことが理解されるのです。では、なぜ釈尊は縁起とは一見違う「中道」というものを説かれたのでしょうか。
 
中道について、中村元(なかむらはじめ・仏教学者)氏は『新・佛教語辞典』の中で、「二辺のいずれかに偏る謬見・邪執から離脱している不偏中正の道であり、それはほどよさを意味する中間の道(中庸の説)ではなく、とらわれを離れ、きびしく公平に現実を見きわめ、正しい判断、行動を成すことである。」と定義されていますが、そこに理(理論)と行(実践)という二つの面から、中道を説かれた理由が考えられます。
 
まず、理(理論)の面から考察を試みると、中道を歩むということは「ここではすでに二辺の各一辺に関して、深い洞察と熟知とが十分にゆきわたり、もはや二辺のあいだをただうろつき回るのではなく、きびしい智慧がつねに伴われている」ということであり、「中道を中道と見きわめる智慧」が仏道修行の前提になっているということです。


*法津如来のコメント

今回は「十二支縁起と中道」の関係について述べられています。

十二支縁起は理論の面で、中道は実践の面ということになるということです。

また、中道は二辺のあいだをただうろつき回るのではなく、きびしい智慧がつねに伴われているということです。


ゆたぽんの父の教育論

今日のヤフーニュースを見たら、私が書きたかったことが、生き生きと書かれていました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/115e3ff140e37148797d7b6781848a30e3ce4044

(以下引用)
ゆたぼんの父が語った教育論、“毒親”と批判も「僕が息子を叱らない理由」

 “少年革命家”を名乗り、「不登校の自由」という主張を掲げて自由に生きようとしているYouTuberのゆたぼん。彼の生き方には賛否両論が飛び交い、その矛先は当然ながら父親の幸也さんにも……。批判に反論しながら、彼が語った教育論とは―。

「最初に彼から“学校へ行きたくない”と聞いたときは、なんとか学校に行かせることはできないかと考えました」

 そう胸中を明かすのは、中村幸也さん。「不登校は不幸じゃない」というメッセージとともに小学校へ行かないことを宣言し、'19年、一躍脚光を浴びた少年YouTuber、ゆたぼんくんの父親だ。
小学2年生までは毎日楽しく学校に通っていた
 今年4月に中学生となったゆたぼんくんは、あらためて「俺は中学校に行く気はない」ことをYouTube上で発言。義務教育に一石を投じる格好となったゆたぼんくんと、保護者である幸也さんに対して、激しい賛否、さらには誹謗(ひぼう)中傷が飛び交う騒動に発展した。

 冒頭にあるように、当初は幸也さんも「学校に行かせたほうがいい」と考えていたという。しかし、ゆたぼんくんの学校への拒否反応が強かったため翻意したと続ける。

「小学2年生までは、毎日楽しく学校に通っていました。ですが、3年生になったとき、彼の中で“なぜみんな同じように通い、教室に座っているんだろう─”。大人の言い方をすれば、一律で教育を受けさせられていることに対して、子どもながらに疑問を覚えたみたいです」(幸也さん、以下同)

 決定打だったのが、宿題をしていなかったことをきっかけに、担任教師との間に起きたトラブルだった。

「怠惰から宿題を放棄したわけではなく、なぜ宿題をしなければいけないのか、宿題をする前にその理由を先生に聞きたかったんです。親として僕も、宿題をする意味を伝えたものの、ゆたぼんとしては学校から納得できる答えを求めていました。ところが、“ルールだから”という一辺倒の答えが返ってくるのみで、彼はさらに不信感を募らせてしまった」

 結果的に、このやりとりが引き金となり、さらに学校とゆたぼんくんの溝は広がってしまう。

「不登校には葛藤はありました。ですが、本人が行きたくないと言っているのに、無理やり行かせることは本当に彼のためになるのかなって。だったら、行きたくないという気持ちを受け入れて、そのうえで親ができることを最大限サポートするほうが、子どものためになるのではないかと思いました」

 そして、ゆたぼんくんは先述のとおり、学校に行かないことを宣言するのだが、「同級生たちがロボットに見えた」などの過激な発言が猛反発を招き、大炎上へと発展してしまう─。

「これほど大きな騒動になるとは想像できませんでした」

 と、幸也さんは当時を振り返りながら苦笑する。

「前例がないだけに批判は覚悟していました。賛否両論……とはいえ、7割が反対意見ですが、ゆたぼんが学校へ行かない選択をしたことに対する肯定的な意見もありました。本人がそうしたいというのであれば、親としてはサポートするのみだと励まされた」

 小学校の卒業証書を破り捨てるパフォーマンスをした際には、大顰蹙(ひんしゅく)を買った。幸也さんは、

「他人のものであれば叱りつけます。ですが、彼の卒業証書を彼がどう扱うかは自らの判断に任せます。“卒業証書なんだから大事にしろ”というのは価値観の押しつけでしかない」

 と毅然と話す。物議を醸した動画だったが、中には「スッキリした」といったコメントも寄せられている。学校に嫌な思い出しかない人にとっては救われた瞬間なのかもしれない。

 世間では、幸也さんに対し、“義務教育を放棄した毒親”“子どもを操り人形にする親”といった非難も多い。しかし、ゆたぼんくんには3人の妹がおり、彼女たちは全員学校へ通っている。

「親の影響を受けて子どもが学校に行かないのであれば、娘たちも不登校になってますよね(笑)。僕は、子どもの気持ちを尊重することが大事だと思っているだけです。ゆたぼんは行きたくない、娘たちは楽しいから行きたい」

 また、「不登校は不幸じゃない」の言葉どおり、学校に行かない=何もしないというわけでもない。今夏には、元プロボクサーの亀田興毅が開催する『亀田興業』でのエキシビションマッチへ出場予定だ。

「たしかに、ゆたぼんは学校で体験できることを体験できないかもしれません。ですが、絶対に学校では体験できないことを体験している。不登校の子どもたちを集めてお泊まり会をするなど、友達をつくれるようにもしています」

 そう幸也さんは、理解を求める。
毒親ではなく親バカ、強制的に命じない
 一方で気になるのは、学校に通わないことで学力をどう補うかだ。否定的意見の多くを占めるのがこの点で、学力がないことで子どもの将来への選択肢が狭まるのでは、と危惧する声は大きい。小学校を卒業した後、宣言どおり彼は不登校のままだ。

「今はネットもあり、多様な学び方ができます。勉強に関しても、YouTubeや『スタディサプリ』などを使って、本人が勉強したいときに勉強しています」

 と幸也さんは説明するが、義務教育と異なる高校以降を考えるとどうだろうか?自らの人生の指針を本格的に考え始める、多感な時期だ。

「彼が中学校を卒業する年齢に達した時点で、どんな考えを持っているか。そこで、きちんと向き合うことだと思っています。学びたいのか働きたいのか、僕自身、中卒で大人になってから学びたいと思い、独学で高卒認定試験に合格した。彼が学びたいと思うのであれば、その環境をサポートします。YouTubeを続けたい、ビジネスを始めたい……、そのときに考えている気持ちを尊重したい」

 もし、「何もしたくない。ニートになりたい」と言い出したらどうします?少し意地悪な質問をすると─。

「それは困るかもしれない」と笑いながらも、

「ニートなりにお金を稼ぐ生活はできないのかと提案すると思います。ニートなんだから働けという言い方はせずに、生活できるニートになればいいのではないかなって」

 そんなニートがいてたまるか!とツッコミたくなるが、世の中には“プロ奢(おご)ラレヤー”や“レンタルなんもしない人”など、働かずともお金を稼ぐ新人類も登場している。

 ましてや、前例のないことをしているゆたぼんくんともなれば、既存の価値観で測ってはいけないだろう。実際、中学1年生でひとりで沖縄から飛行機に乗って移動したり、大人に対して物おじせずにコミュニケーションができたりする姿は、目を見張るものがある。

「勉強をしたい、社会に出たい。そういった子どもの“やりたい”という意志が大前提として必要で、最良のタイミングで親として何ができるか。強制的にあれをやれ、これをやりなさい、と子どもに言うようなことはしようと思わないです」

 話を聞いていると、毒親どころか、むしろ親バカ─。そう伝えると、「そうかもしれない」と幸也さんは笑う。

「サポートし続けた結果、慢心してしまったら……きっと彼の周りから人が離れていくと思うんですね。そうなったら痛い思いをして学ぶしかない。失敗させてあげるのも、後悔させてあげるのも、生きていくうえでは大事なことだと思います。

 調子に乗って、周りへのリスペクトを忘れ、人が周りから離れていけば後悔するでしょう。そこから自分のダメな点に気づくことができれば、また成長する。もちろん、彼がくじけたとき、その問題とどう向き合うのかを伝えることも親の役割だと思います」

 先日、自身らを誹謗中傷してきたネットユーザー40人以上から謝罪を受けたことを、幸也さんは明かした。

「理由を聞いたところ“自分は嫌々学校に行っていたのに自由に楽しく過ごしているゆたぼんが許せない” “俺も苦しんでいるんだからお前も苦しめ”といった、嫉妬心から書き込んだという人もいました」

 どんな理由であれ、誹謗中傷は決して許されるものではない。一方で、ゆたぼんくんのような“出る杭(くい)”に対する羨望(せんぼう)が嫉妬となり、誰かを傷つけないと気がすまないような人が増えているのだとしたら根は深い。

 先日、『古い政党から国民を守る党』(旧・NHKから国民を守る党)から次期衆議院議員選挙への出馬を表明した幸也さん。

「小中学生の不登校は年々増加しています。不登校の理由も、いじめだけではなく、多様化していて、学校という場所に合わない子どもが増えてきています。かつては学校しか学びの場はなかったですが、今はそうではない。自分たちが身をもって体感していることを伝え、学校以外にもさまざまな学びの機会があることを提示していきたい」

 くしくも、コロナ禍によって学校へ行くことに疑問を覚えている子どもが増えている。親がどのように子どもと向き合うか─。出すぎた杭から学ぶこともあるはずだ。

なかむら・ゆきや 大阪府生まれ。心理カウンセラーとしてLINEや電話、対面でカウンセリングを行う。YouTubeチャンネル『少年革命家ゆたぼん』(登録者数14.5万人)を配信するYouTuber・ゆたぼんのパパとしても知られる。

〈取材・文/我妻アヅ子〉

(以上引用)

*法津如来のコメント

私の書きたかったテーマは「鳴かなぬなら 鳴かなくていい ホトトギス」(小林正観)です。
この句は、
「鳴かなぬなら 殺してしまえ ホトトギス」(織田信長)
「鳴かなぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」(豊臣秀吉)
「鳴かなぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」(徳川家康)
これらの句に対比して作られた句だそうです。

ちなみに、私が書きたいと思うことは、その日のニュースによくありますので、助かります。

大島康徳氏

中日と日本ハムでプロ野球選手。1983年本塁打王。名球会会員。
引退後は日本ハム監督、第1回WBC打撃コーチを務め、現在はプロ野球解説者。
2016年10月に大腸がんステージ4と診断され闘病中。
https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/page-3.html


大島康徳氏は東京新聞の夕刊に「この道 大島康徳」という連載記事を書いておられます。本年6月30日に亡くなれましたが、原稿は終了されておられましたので、最後まで掲載されるということです。

昨日(7月10日)の夕刊の記事を引用します。
(以下引用)
 2017年2月、僕は自分のブログで「大腸がんのステージ4」と宣告されたことを明かしました。自分が予想するより多くの反響があり、戸惑ったことを覚えています。
 実は家族から反対されました。「応援してくれる人ばかりじゃないよ。誹謗中傷とか、悪意ある反応もあるよ」。それでも僕は公表することにしました。
 がんになることは悪いことなの?
 隠さなければいけないことなの?
 そう思ったからです。
 がんになったからといって、僕は何も変わっていません。僕は僕です。大島です。うつむいたり、ひっこもって生きるのは嫌でした。
 皆さん、がんという病気を特別しすぎていませんか? 病気って生きていれば必ずかかるものじゃないですか。誰だって風邪をひいたり、腹痛になりますよね。でも、うまく付き合いながら、生活していますよね。がんも同じです。病気とうまく折り合いをつけて生きていくのが普通のことだと思うのです。
 以前も伝えましたが、健康な人は善で、がん患者は悪というのは偏見です。間違ったイメージです。それを少しでも直したい、がんへの正しい知識を身に付けてもらいたい。それが僕がブログにがんの話を書く理由であり、この欄で記す理由です。僕の考えをわかってもらえるとありがたいです。(以下略)
(以上引用)

全くこの通りです。

私の大島康徳氏の考えに賛同します。

また同様のことが新型コロナにかかった患者さんについても言えます。

新型コロナウイルスに感染することは悪いことではありません。

だれでも、新型コロナウイルスに感染することはあるのです。


石法如来の特別寄稿:(十二支)縁起の考察(その8)

何より経典に、「かの愚癡無聞の凡夫は、識において厭いを生じ欲を離れ、背捨(そむきすつ・滅尽定にいたる八種の解脱)することを能わず(あたわず・出来ない)」とあるように、十二支縁起説における無明や行は、十支縁起説における識(認識・識別作用)よりも更に深い精神領域に位置して、人間の果を生ずる因をなしている縁であり、十二支縁起においてはじめて、苦の存在における究極の原因である無明が発見されたことになり、ここに苦の根本的な解決が可能になったと言えるのです。
 
「是の故に當(まさ)に知るべし、無明を生とし、無明を觸(しょく)とす。かの無明永く滅して餘(よ)無くんば、即ち行滅し、かの乘(の)れる所の無明の滅道跡を實の如く知りて、彼の向次法を修習せば、是を比丘(びく・修行僧)正しく盡(つ)くし苦邊(くへん)を究竟(くきょう・最後に行き着くところ)するに向ふと名づく。所謂無明の滅なり。」(『雑阿含経』巻第十二(二九二))
 
(現代語訳)「この故にまさに知らねばならぬ。かの行は無明を因とし集とし生とし触とすることを。かの無明とこしえに滅し、死後に生まれ変わることなし、すなわち行滅し、かの手段により無明を滅する仏道の跡があることを如実に知り、その順次に赴く法を集習しなさい。これ比丘が正しく苦を滅して赴く、究極にして最後の苦と名づける。いわゆる無明の滅なり・・・と。」
 
このように、識や行を越えた無明の滅により、正しく苦を滅ぼして輪廻の生存から解脱し、仏教の究極の目的である涅槃の成就が可能となるのです。まさに、この一点にこそ十二支縁起の成立の意義が見出されると言えます。
故に、十二支縁起を説く経典には最も重要な苦の根源である「無明」が一体どの様なものであるか、法説に繋げて繰り返し説かれています。
 
それによると、愚癡無聞の凡夫は無明をもっての故に、「色はこれ我なり、異我なり相在すと見、我真実なりと言って捨てず。」と、我(アートマン)に対して誤った見解をもって固執し、それを捨て去ることが出来ない。あるいは、この五受陰(ごじゅおん・五蘊に同じ)において、如実に知らず見ず、無間(むけん・たえまない)等なく、愚闇(ぐあん・おろかで、ものの道理にくらいこと。)不明なるを是を無明と名づく。」(『雑阿含経』巻第十(二五六))と。
 
五つの感受作用の蘊(うん・あつまり)ついてよく知らず、智慧を欠いて明に通じていない。また前述したように、「過去のこと、未来世のこと・・・」などのものの道理に暗いこと等々。それらが、十二支縁起における全ての苦の出発点である無明であるとするのです。
 
「この無明とは大いなる迷いであり、それによってこの永い輪廻が現れ出たのである。しかし明知に達したものどもは、再び生存を受けることがない。」(『スッタニパータ』七三〇偈)
 
経典でいう明(みょう)あるいは明知とは、無明の対局にあるもので「さとりの智慧」を指します。では、何を知ることが「さとりの智慧」と言うのでしょう。
 
「所謂、色は無常なりと知るなり、色は常なりと知るは如実に知れるなり、色は磨滅(まめつ・すり減ること)の法なるを色は磨滅の法なりと如実に知るなり。・・・此の五受陰(五蘊)に於いて如実に知り、見、明、覺慧(かくえい)、無間(むけん)等なる、是を名づけて明と為(な)す。」(『雑阿含経』巻第十(二五六))
 
このように、十二支縁起を説く経典では、人間苦の根本原因である無明とは一体どのようなものであり、無明を滅する「さとりの智慧」とはどのようなものであるかを、原始仏教における重要な法説である五蘊・六入処説に繋げて説くのです。
 
そのように考えると、十二支にわたる縁起説は、一切の法の究極の条件として無明を立てることにより、無明の滅・・・すなわちさとりが一切の存在者の存在の滅の道をひらくことを、五蘊説・六入処説のなし得ざる程度に明らかにしたものであると言えるのです。