#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 4偈

4 世間のうちにある患いを見て、汚れのないことわりを知って、聖者は悪を楽しまない。悪人は浄らかなことを楽しまない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この世の中では、喜ばしいことや浄らかなことに、混じって煩わしいことや汚れたことも、起こり、消えていきます。

聖者のまわりには、喜ばしいことや浄らかなことが集まって来ます。

悪人のまわりには、煩わしいことや汚れたことが集まってきます。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 3偈

3 倶(とも)に行ずるときにも、つねにひとりでいて、(たまたま)他の人々と混った智者・善き人は、悪を捨て去る。乳を飲む鷺が水を捨てて(乳だけを飲む)ようなものである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

鷺は、水の混じった乳から水を捨てて乳だけを飲むことができるかどうかわかりませんが、必要なものを取り、不必要なものを捨てることは生命の重要な機能です。

身体のどの臓器はそのような行為を行なっていますが、特に腎臓は体内を巡る血液から、必要な養分と水を再吸収して、不必要な老廃物を選り分け、過剰の水とともに排出に回します。身体の賢者のようです。

智者・善き人は、多くの情報などから、不必要な悪を捨てて、必要な善を選び取るのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 2偈

2 わかち与える人には功徳が増大する。みずからを制するならば、ひとが怨みをいだくことは無い。善い人は悪を捨てる。情欲と怒りと迷妄とを捨てるが故に、煩悩の覆いをのがれる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この感興のことば(ウダーナヴァルガ)は、サンスクッリット語で書かれたものですが、感興のことば(ウダーナ)には、パーリ語で書かれたものもあります。パーリ語の感興のことばの8章5に、この偈と同様の偈が付与されています。

8章5の内容は、鍛冶屋の息子チュンダが釈尊に食事の布施をした後、釈尊が激しい腹痛を起こし、亡くなりました。釈尊は無くなる前に、チュンダがそのことを後悔しないように、従者のアーナンダ長老に次のように告げられました。

「ブッダへの供養食の中で2種の大きな功徳があるものがある。一つはブッダがその食事をとって、この上のない覚りを覚られた時のものであり、二つはブッダがその食事をとって、完全なニルヴァーナ(涅槃)に至った時のものである。鍛冶屋の息子チュンダの功徳は大きい。」と。

この話の後に、この偈を述べられたということです。

「わかち与える人には功徳が増大する。」、ブッダに布施することだけではなく、困っている人に、わかち与える人の功徳は増えるのです。わかち与えるとき、悪がなくなるからです。

「みずからを制するならば」とは、自分の悪を制することです。悪が怨みを作るから、悪を制するならば、怨まれることはないのです。

情欲と怒りと迷妄が悪です。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第28章 悪 1偈

1 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、___これが仏の教えである。

(ダンマパダ183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、___これが諸の仏の教えである。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、七仏通誡偈と言われ有名です。また偈に関しては有名な逸話があります。

中国唐代の詩人・白居易が、禅僧・鳥窠道林(鳥窠和尚)に「仏教の真髄は何か」と質問しました。和尚は「すべて悪しきことをなさず、善いことを行なうこと」と答えました。白居易は「3歳の幼児でも知るところだ。」と不服を述べました。しかし、和尚は「3歳の幼児でも知っているが、80歳の老人でもできないだろう。」とたしなめました。白居易はそれを聞いて謝罪したということです。

ここでは、「すべて悪しきことをなさず」とありますが、一つの悪でも完全になさないならば、心は変わります。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 41偈(つづき)

41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。                        

                              以上第27章 観察

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

41偈の「つくり出されたもの」の逆のことば「不生 〜作られざるもの」について、前回のブログ記事で紹介しました「覚りの境地(2019改訂版)」に解説がありますので、それも引用させていただきます。

(以下引用)

不生 〜作られざるもの

時としてこの世に不生なるものが出現し、それを覚知する人があるゆえに次の真実が明 らめられる。
『人が不生なるものの真実とその真相を知ったとき、彼の一切の苦悩は終滅する。一切の苦 悩を滅した仏は不生なるものの実在を知る。一切を覚知した仏は生死(=無常、=作られたもの)のあ りさまを知るのである。』
”一切”と名づく縁起の中にあって識別作用に翻弄されている人々にとって、縁起はまさしく実 在のものであると感じられるだろう。しかしながら、不生なるものを識る人(つまりすでに苦が縁起せず、苦の源泉たる識別作用を滅ぼすに至った覚者)は、縁起が作られたも の(=生じたもの)に他ならないことを知っている。そうしてもろもろの仏は、解脱の理法を、す なわち生じたものからの出離を語るのである。
『作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為、=無常)から解脱する。』
これが覚りに向けた修行の本質であり、修行論を示唆するものである。
したがって、縁起を「常住不変の本質」の対義として想定されるものであると考えることそ れ自体は大過ないことである。なんとなれば、(論としては完全ではないが)この考えに従い修 行者が、
『常住不変なるものを求めるのではなく、作られたもの(=有為)からの解脱を願う。』ならは ゙それはまさしくすぐれた考えとなるからである。さて、
『世に出現した不生なるものを知り、その真実の意味を覚知する人があるならば、かれの一 切の苦悩は終滅する。』
先ほどとは一部表現を変えたが、これが解脱の真相である。
ところで、この不生なるものの本質とは何であるか? もしそれを問う人があるならば、 次のように答えなければならない。
『この不生なるものの本質とは、ことに臨んだ局面における一なる答えのことである。そ れを
智慧と呼ぶ。』
すなわち、その答えは時と場所と相手とを選ばないものであり、ことに臨んだその局面 における究極の、唯一の完全な答えである。その答えは、誰であってもその局面に臨んだ ならば究極においてはその答えに到達すると確信されるものである。その答えは、遠い未来 においてもその答えの唯一性が決して損なわれることがないものである。その答えは作ら れたものではなく作られざるものである。すなわち、それは人智を超えたものであると 知られるものである。人を超えた存在たる仏だけがそれをそれだと知ることがで きる。それゆえにこの不生なるものの本質を仏智とも言う。
この世のことがらは、総じて作られたもの(=生じたもの)である。つまり縁起している 。しかしながら、そうでありながら時として作られざるもの(=無為)が世に出現する。 人がその作られざるものを眼のあたりにして、それがまさしく不生なるものであると識 ったならば、かれは智慧を覚知したのである。ことに臨んだその局面はそれを人為的に呼ひ ゙起こすことはできないが、修行者の極近くに出現すると期待され得るものであり、そうでなければ修行者とはならない。
円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)を求める人は、気をつけて遍歴せよ。因縁によって出現する この不生なるものの真相を見てまごうことなき覚りに到達せよ。それを為し遂げたとき、人 は縁起を超克し、作られたものによって生じる一切の苦悩を完全に滅するからである。

(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 41偈

41 (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。                        

                              以上第27章 観察

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

41偈は、「第27章 観察」のまとめの偈であります。

この偈の解説に際して、みなさまにお知らせしたいことがあります。
それは、SRKWブッダが電子書籍として発売されていました「覚りの境地」が、紙の本「覚りの境地(2019改訂版)」として出版されることになり、11月11日からアマゾンで購入できるようになりました。なお、この改訂版は電子書籍としては11月1日から購入できるようになるということです。

この中から、「解脱の本体(名称と形態:nama-rupa)」は今回の偈を詳しく理解する上で重要であるので、
引用させて頂きます。

(以下引用)

解脱の本体(名称と形態:nama-rupa)

あるものがあるゆえに苦がある。そのあるものが解脱によって消滅するゆえに苦の終滅 を見る。それが解脱の真相である。
では、何が消滅すると言うのであろうか? ”あるもの”とは何であろうか? あったものが消滅するとはどういうことであろうか? あったものとは”在ったもの”や”有ったもの”ではないのか?
順不同であるが、以下に説明しよう。まず、解脱の本体たるものの正体を明かそう。
すでに解脱した仏は、その消滅したものが苦の体たる”この名称と形態(nama-rupa)”であ ると見極める。すなわち、人(衆生)は名称と形態(nama-rupa)が心と癒着しているゆえにそこに 苦の要因が入り込み、それによって苦が感受されていたのだと知るのである。解脱によ って苦の体が消滅する。すると、苦悩が起こるよすががなくなる。したがって苦悩が 生じなくなるのである。ここに至って、仏は苦の体が名称と形態であったことを知る のである。
ところで、今述べたように名称と形態そのものが苦を生じているのではない。解脱す る前にはあったもの、すなわちこの名称と形態(nama-rupa)に苦の要因が結びついて、結果と して苦が生じるのである。したがって、苦の体と苦の要因とは別に論じなければなら ないものである。
さらに説明を困難にしているのは、この名称と形態(nama-rupa)とは解脱以前の名称と形態その もの全体ではなく、苦を生じるように働く、いわば悪しき名称と形態の部分の意である 。ゆえにこれを”この名称と形態(nama-rupa)”と書く。つまり解脱しても名称と形態は機能として 残るのであるが、その残った名称と形態には苦が生じないということである。先に”在っ たもの”でもなく”有ったもの”でもなく、”あったもの”(あるものがあるのある)と表現したの はこれがその理由である。つまり、解脱によって特定のこれが、あるいはこの部分が消滅 したという性質のものではないからである。
なお、ここでは苦の体について述べ、苦の要因については章をあらためて説明したい。
すでに述べたように、解脱とは苦の体たる名称と形態(nama-rupa)を消滅せしめる現象を 指す。と言うのは、苦の要因そのものを消滅せしめることはできないからである。苦の要因 は世に蔓延しており、その要因すべてを消すことはできない。苦の要因は人の外にあるものだからである。しかし、苦の体たる”この名称と形態(nama-rupa)”を消滅せしめることは出 来る。それらは人のいわば内部にあるものだからである。それが出来るということが 法(ダルマ)であり、法によって苦の体が消滅したことを解脱と称するのである。名称と形 態についてさらに詳しく述べよう。
名称と形態(nama-rupa:名色と略記することもある)とは、ユング心理学(分析心理学)に代表さ れる深層心理学の言葉を(説明理論として)借りれば「個人的無意識」と「集合的無意識」の作用 のことだ言って大過ないと知られる。これらのような言葉が出てくるのは、覚りの境地 に至った人が分析的に人の心を大きく3つの階層に分けて考えた結果である。すなわち、人 々(衆生)が自分自身だと思っている自我意識やペルソナの作用が表層意識としての自我(自 我コンプレックス)であり、その下層に位置する自我の他の可能性であるシャドウや抑圧 されたコンプレックス人格などを含む個人的無意識にあたるのが「名称(nama)」だと言 える。さらに、それらの下部層に位置して元型(アーキタイプ)群およびグレートマザーという 形で人類全体を貫いて共通に存在する集合的無意識にあたるのが「形態(rupa)」である。
これらについて、原始仏典(『テーリーガーター:尼僧の告白』)では名称を「刀」、形態を「串 」のようだと形容していて、言い得て妙である。確かに、名称作用は自我を脅かしてこころ を動揺させる刀のようなものであり、ユング心理学に言うシャドウやコンプレックス人 格が自我に及ぼす作用をうまく表現している。一方、形態作用は人類の歴史的経験のエッセ ンスというべきものであって、そのように凝縮されたイメージの潜在形成力が全人類を 貫くように投影されていて、個々人が有する縁に応じて適宜各自の自我意識に深い影響を与 える集合的こころ(として認知される心的作用)のことであるから、串(大勢を貫くもの)という形 容は実に的を射ている。つまり、釈尊の時代から名称と形態(nama-rupa)という一種の階層を成し た心の構造が認められていたと言え、解脱によってそれらが消滅するという認識があった ことをこの譬喩の存在は根拠づけている。
なお、誤解を恐れず、名称と形態を現代的な言葉で平易に表現するならば次のように言っ てよいであろう。
名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用 形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・増幅作用(心的アレルギー作用)
ここで、心的余韻作用とは、肯定的にはたとえば思い出の味やなつかしい心地よさなどと して現れる認識のことである。また否定的には嫌な思い出にもとづく不快な感情や嫌悪、ト ラウマによる自己制御の困難などとして現れるそれである。そしてもう一つの心的変換・増 幅作用とは、肯定的には例えば極微量の出し汁の作用による味噌汁の旨みの認識や芸術的映画 や音楽を鑑賞したときに生じる胸震わせる感動などとして現れるこころ細やかな快の認識のことである。また否定的には理由もなくわきあがる怒りや恐怖、焦燥感などのいわば心 的アレルギー作用として現れるそれである。
やや強引に譬えるならば、心的余韻作用とは幻の如きものであり、心的変換・増幅作用とは 錯覚の如きものであると言ってよいであろう。そして、この名称と形態(nama-rupa)こそが、 我ありという認識の根元(=我執)を為しているものなのであるが、実はこれらは自性ならざる もの、それ単独では存在しない泡沫のようなものであると知られるのである。
さらに、名称と形態(nama-rupa)をこころを覆う障害としてとらえた般若心経では、それらを ケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と呼び、ケイが引っ掛かり、ゲがさまたげるものであると している。不快な心的余韻作用は、対象に関するまさに「心の引っ掛かり」であるし、心的ア レルギー作用は目前の行動に対してまさにこころをさまたげるもの(心奥の障害)と言えるであ ろう。それは、たとえば特定の食べ物アレルギーのある人が、目の前に出された食事の中に アレルゲン(その人におけるアレルギーの原因物質)が含まれているのではないかと疑い、そ れを口に入れることをためらい、食べる前から恐れおののくようなものである。と言うのは 、アレルゲンが含まれているかどうかは実際に食べてみなければ分からないことで あるし、食べてアレルギー症状が現れたときには時すでに遅く、アレルギーの壮絶な苦し みを生じることがもう避けられないこととなる。このため、アレルギー体質の人は、目の前 に出された食事を、何も考えずに摂ることが出来なくなってしまうであろう。あたりまえ のことが、あたりまえに出来なくなってしまう。これは辛いことであり、まさにこころのさま たげとなる。
それと同様に、人々(衆生)にはケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と名付くべき心的障害がつねにつ きまとっているのであり、そのために素直なこころ(=真如)を働かせることが出来なくなって いるのだと考えなければならない。そして、それゆえに人々(衆生)は、あたりまえのこころを あたりまえに表出できなくなっており、しかも自分自身ではそのことに気づいてさえいな いのである。この人(衆生)が自力では知り難きこころの障害の根元こそが、”この名称と形 態(nama-rupa)”に他ならない。ゆえにこれらを苦の体と言う。
ところで、くり返しの説明になるが”この名称と形態(nama-rupa)”を滅尽することが即ち解 脱であり、その結果顕れるのが覚りの境地(=ニルヴァーナ)である。このため、人は解脱す るとその瞬間からまったく内外界の影響を受けない禅定の境地に入ることになる。なぜならば 、衆生である間はこの名称と形態(nama-rupa)にもとづいて起こっていた外界および内界と の関わりによる煩わしき「心的余韻作用」と「心的変換・増幅作用」が解脱によって根こそき ゙に消滅するからである。すなわち、真の禅定とは、一旦揺れ動いたこころが元どおりに 復帰する心の過程では無く、一切に関して何が起ころうとも最初からまったく動じない境 地を指して言う言葉なのである。

なお、名称と形態(nama-rupa)によって生じるそれぞれの心的作用は一般に表象作用と感受 作用として知られている。また、解脱によって滅びる”この名称と形態(nama-rupa)”によって 生じる煩わしき心的作用を”識別作用”と呼ぶ。つまり、識別作用を滅することが解脱に他なら ない。

(以上引用)

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 40偈

40 ここなる人が苦しみを見ないというのは、見ない人が(個人存在の諸要素の集合が)アートマンであると見ることなのである。しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

                              以上第27章 観察


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈はわかりにくいかもしれませんが、すなおに読んでいきましょう。

「ここなる人」とは、ある人ということです。「ある人が苦しみを見ないということは」、つまりこの人は衆生です。

訳者がカッコで補った(個人存在の諸要素の集合が)は、色受想行識のこと、つまり個人の存在がアートマン(我、自己)だと考えることです。

「しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、」これがわかり難くしているのですが、これを「しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るべきときに、」とすれば、わかり易くなるでしょう。解脱した覚者は、「(すべてが)苦しみであると明らかに見る」のです。

「ここなる人は「(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。」とは、衆生は「何がアートマン(我、自己)であるか」と、つねにさらに吟味して見るということです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 39偈

39 単にすがたを見る人は、どうしてすがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか? すがたを見ない人がつねにすがたをさらに吟味して見ることが無いのは、どうしてであろうか? 何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか? 何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

単にすがたを見る人は、どうしてすがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

単にすがたを見る人とは覚者です。覚者はありのままにすがたを見ているので、すがたをさらに吟味して見る必要がないのです。

すがたを見ない人がつねにすがたをさらに吟味して見ることが無いのは、どうしてであろうか?

「すがたを見ない人」とは衆生です。衆生はすがたをさらに吟味して見る必要を感じていないのです。

何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか?

覚者には智慧があります。智慧があるとき、すがたをさらに吟味して見ることはないのです。

何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

衆生には智慧がありません。智慧がないときも、すがたをさらに吟味して見ることが無いのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 37偈、38偈

37 すがたを見ることは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。ここに両者の異なっていることが説かれる。昼が夜と異なっているようなものである。両者が合することは有り得ない。

38 もしすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るこということは無い。またもし単にすがたを見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い。ここの人は、単にすがたを見るだけであって、すがたをさらに吟味して見るということは無い。しかしすがたをさらに吟味して見る人は、つねにすがたを見ることがない。  

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

37偈と38偈は同じ趣旨なので、同時に掲載しました。

「単にすがたを見ること」と「さらに吟味して見ること」は異なることが述べられています。

「単にすがたを見ること」とは、ありのままのすがたを見ることです。しかし、衆生にはこれはできないのです。第一印象に近いのですが、衆生はすぐにその像が変貌するのです。

「さらに吟味して見ること」とは、一般的には吟味してみることは推奨されることですが、衆生は吟味すればするほど、自分の思いを付け加え、ありのままのすがたから離れるのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 36偈

36 見る人は、(他の)見る人々を見、また(他の)見ない人々をも見る。(しかし)見ない人は、(他の)見る人々をも、また見ない人々をも見ない。

(テーラガーター61 (真理を)見る者は、(真理を)見る(他)人を見、また(真理を)見ない人をも見る。しかし、(真理を)見ない者は、(真理を)見る(他)人を見ないし、また(真理を)見ない人をも見ない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

36偈は、普通に読めば、「見る」の目的語がありませんので、何を見るのかわかりません。しかし、ブッダは常に人が覚る為に必要な言葉を語っているのだとわかれば、おのずと知れるものなのです。

テーラガーター61では、訳者がカッコで(真理を)と補っていますので、理解しやすくなっています。

訳者が補った真理という言葉は、法(ダルマ)あるいは真実という言葉でもよいのです。ですから、ここでは「見る人」とは覚った人(=覚者、仏)であり、「見ない人々」とは凡夫、衆生のことです。また、「見る」とは「理解する」という意味です。

36偈を書き換えると、次のようになります。

覚者は他の覚者を理解し、また他の衆生をも理解する。しかし、衆生は他の覚者をも理解しないし、また衆生をも理解しない。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 35偈

35 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよって、あらゆる苦悩から免れる。

(ダンマパダ192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。) 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

31偈、32偈のコメントに、「人々の恐怖はどこから来るのでしょうか?」と書きました。しかし、まだその解答を明らかにしていません。

今回はそれについて書いてみます。

ゴータマ・ブッダのおられた時、学生アジタさんがブッダにいくつか質問しましたが、その一つに「世間の大きな恐怖は何でしょうか?」という質問がありました。それがスッタニパータの第5章2「学生アジタの質問」に書かれています。その質問に対して、ブッダは「苦悩が世間の大きな恐怖である。」と答えました。人々は苦悩(苦しみ)を恐れ、それを避けながら生きているのです。つまり、苦悩(苦しみ)から恐怖がくるのです。

苦悩(苦しみ)から免れるものが、安らかなよりどころなのです。

苦悩(苦しみ)から免れるもの、それは何か? 四聖諦なのです。四聖諦を理解し、実践することで苦悩(苦しみ)から免れるからです。

山々、林、園、樹木、霊樹などをたよりにしても、苦悩(苦しみ)から免れることができないのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 33偈、34偈

33 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、明らかな知慧をもって、四つの尊い真理を見るときに___  

34 すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの部分よりなる尊い道(八聖道)とを(見るときに)、

(ダンマパダ190、191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。___(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八すなわち聖道)とを(見る)。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)が、安らかなよりどころなのです。

仏、法、僧について、その本質について六祖慧能は「仏は自覚であり、法は正義であり、僧は清浄である」と解説しています。
では、なぜ仏法僧が安らかなよりどころなのでしょうか?

仏法僧に帰依することで、四つの尊い真理(四聖諦)を知ることができるからです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 31偈、32偈

31 多くの人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹などをたよろうとする。 

32 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによっては、あらゆる苦悩から免れることはできない。

(ダンマパダ188 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。)

(ダンマパダ189 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免(まぬが)れることはできない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

人々の恐怖はどこから来るのでしょうか?

人々は、それを知らないから、何かに守ってもらおうとするのです。
生まれるとすぐ、不安を感じると、お母さんに頼って守ってもらってきたからです。
ですから、大人になっても、恐怖を感じると、何か頼ろうとするのです。
恐怖はどこかから来るかを知らずに、自分より大きな頼れそうなもの頼るのです。
それらが、山々、林、園、樹木、霊樹などなのです。

「しかしこれは安らかなよりどころではない。」のです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 30偈

30 青い幌(ほろ)をまとい、白い傘で覆われ、輻(や)が一つしかない車が回転して来る。結びつける紐もなく、軛(くびき)に結ぶ綱もなく、悩まされることなく、やって来るのを見よ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

岩波文庫の訳注には、「『出曜経』によると、「輻(や)が一つしかない車」とは、仏の説かれた「微妙の法」のことを言うのである。」と記されています。

「回転」とは説法をすることです。

輪廻の世界に結びつけるものはなく、自由を拘束する執著もなく、それゆえに悩まされることはない方を見なさいとということです。

だから、何ですか?と問われれば、そのような方がおられるのです。だからあなたもそのような方になれるということです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 29偈

29 愛欲の園からも離れて、愛欲の林から脱している人々からも離れているのに、また愛欲の林に向かって走る。___この人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向かって走るのである。 

(ダンマパダ344 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免(のが)れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ344については、以前解説しました。その一つを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200810/article_19.html

(以下引用)
 この詩については初めに、この詩の出来た因縁物語を紹介しましょう。

 「マハーカッサパ長老の弟子にある比丘がいました。その比丘は修行して第四禅定の段階まで達することができるようになりました。しかし、ある日彼は托鉢をしている最中に一人の婦人を見た時、急に激しい情欲が生じました。それに気付いた彼は、修行の未熟さに強いショックを受け、サンガを去って還俗しました。以降いろいろな職業につきましたが、うまくいかず、盗賊の起こした事件に巻き込まれて、死刑の判決を受けました。

 刑場につれていかれ行かれる彼を、 托鉢中のカッサパ長老が見て、『昔の修行を思い出すのだ。』と声をかけました。長老の声に彼は昔の修行時代を思い出し、刑場において第四禅定の冥想に入りました。死刑執行人たちは彼の清々しい姿を見て、『彼には死の恐怖がない』と畏怖を感じました。このことが王に報告され、再吟味が行われ、彼の無罪が判明しました。解放された彼に釈尊は上の詩を述べ、還俗の愚かを説きました。この説法により彼は預流果を得て、許されて、再びサンガに入団した後、阿羅漢果を得ました。」(北嶋泰観 訳注「パーリ語仏典ダンマパダ」377~378ページ)

 「欲の林からぬけながら欲の林に走るこむ」
 「欲の林」とは世俗のことです。世俗は欲の誘惑が多く、しがらみが多く、修行をするには困難な条件が多いのです。「欲の林をぬけながら」はそのような世俗のしがらみから抜け出して、出家することです。出家の生活とは世俗の生活と比べるとわずらわしいことが少ないのです。例えば、衣服で言えば衣だけですから、何をきるか迷うこともありません。食べ物も托鉢をして得たものを食べるだけですから、何を食べるかわずらう必要がありません。
 「欲の林に走りこむ」はせっかく出家してわずらわしい生活の少ない条件ができたのに、また悩み苦しみの多い世俗に戻ることです。出家を止めること、還俗することです。

 この因縁物語の比丘のように、幸福な生活はできる筈はなく、死刑犯に間違えられしまうようなことになるのです。一度は出家までした人にとっては本当の愚かなことなのです。そのきっかけはほんの一瞬のこともあります。このブログで9月5日に書いたダンマパダ284番の詩は参考になりますので是非参照ください。http://76263383.at.webry.info/200809/article_5.html

(以上引用)


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 28偈

28 上にも下にも全く情欲を離れた人は、「われはこれである」と観ずることが無いので、このように解脱して、未だ渡ったことのない流れを、この世で渡り、再び(迷いのうちに)生まれことがないであろう。 

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「上にも下にも」だけでは意味がわかりにくいでしょうが、これは東西南北上下のことです。すなわち、一切に関してということです。

「情欲を離れた人」の「情欲」とは、不必要な欲と考えればよいでしょう。

「われはこれである」について。文字通りに読めば、凡夫はこのように思うことはないでしょう。そうではなくて、「これはわれのものである」ならばわかるでしょう。

しかし、全く情欲を離れた人(解脱した人)は、自分という思いがなくなるので、「われはこれである」と観ずることが無いのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 27偈

27 諸の欲望に執著し、つねに迷っている者どもは、束縛のうちに過ちを見ることが無い。束縛の執著にとらわれいる者どもは、広がった大きな流れを、決して渡ることがないであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この感興のことば(ウダーナヴァルガ)はサンスクリット語によるものですが、パーリ語仏典にも、ウダーナ(感興のことば)があります。その7章3に次の偈が附されています。参考のために、引用します。「原始仏典8ブッダの詩Ⅱ(講談社)桜部建・訳」より。

(以下引用)
もろもろの愛欲に執著し、愛欲に愛著する人々は、人の心を五官の対象に結びつける煩悩に、過ちあるをみない。そいう煩悩に愛著している人々は、けっして広く大きな水流を渡るこtがないであろうから、と。
(以上引用)

「束縛のうちに過ちを見ることが無い。」とは、「人の心を五官の対象に結びつける煩悩に、過ちあるをみない。」ということがわかります。

過ちを過ちとみなければ、解脱することがないのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 21偈、22偈

21 見よ、あのように宝石や腕輪で粉飾された形体を! それは愚人を迷わすには足るが、彼岸を求める人々を迷わすことはできない。

22 見よ、あのように宝石や腕輪で粉飾された形体を! それは愚人を迷わすには足るが、賢者はそれに対する執著を離れる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

20偈で述べられた「粉飾された形体」について、「宝石や腕輪で粉飾された」と具体的に説明されています。

愚人はそれらを求めているので、迷わされるのです。

彼岸を求める人々や賢者はそのようなものを求めていませんから、そのようなものに迷わされないのです。

その人の求めるものによって迷わされるのです。何も求めない人は、何ものにも迷わされることがないのです。

尚、最後にお知らせです。22A、22B、23、24、25、26、26A、26B、26C、26Dの偈がありますが、今回の偈と同様の趣旨ですので、掲載を省略します。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 20偈

20 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体という名のものであって、病いに悩み、虚妄の意欲ばかりで、堅固に安住することがない。 

(ダンマパダ147 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日は、「つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。・・・」という偈を掲載しましたが、今日は一変、「見よ、粉飾された形体を!・・・」となりました。

しかし、実はよく見ると、同じことを言っているのです。よく見ると、王者の車も粉飾されているから、美麗であるように見えるのです。

身体は細胞でできています。その一つ一つの細胞は絶えず新陳代謝をしています。細胞の部品もすぐに古くなって、壊れてしまいますので、新しいものと取り替えているのです。また、それらの細胞自体も再生不能になって死んでしまうのです。

身体は「堅固に安住することがない」のです。そのようなものであるから、粉飾された形体(身体)に対する執著から離れるように説かれているのです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第27章 観察 17偈〜19偈

17 つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに迷うが、明らかに知る人々はそれに執著しない。  

17A つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、賢者はそれに対する執著を離れる。

18 つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺する。___老いた牛がぬかるみの泥にはまり込んだように。

19 つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに迷うが、賢者はそれに執著しない。

(ダンマパダ171 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「つねにこの身体を見よ。」とありますが、なぜでしょうか?

この身体がこのようにあるのは多くの因縁の結果なのです。父と母がいて、多くの人のおかげで、このように生きています。その過程で多くのことがありました。その結果としてこの身体があるのです。

今回の偈では、「王者の車のように美麗である。」と表現されていますが、昨日掲載した16偈では、「身体は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。」と表現されていました。身体は美麗であっても、泡沫やかげろうのように消え去ってしまうのです。

愚者は身体に対してあれこれ期待し、悩みますが、賢者はそれに対する執著を離れるのです。