#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 40偈、41偈

40 何物ももっていない人々は楽しんでいる。何物ももっていない人々は知慧の徳をもっているからである。見よ! 人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

41 何物ももっていない人々は楽しんでいる。何物ももっていない人々は知慧の徳をもっているからである。見よ! 人々は人々に対してかたちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日、掲載しました38偈と39偈と同様のことが説かれています。

何物も持っていないのに楽しんでいる人々は、どのような知慧を持っているのでしょうか?

「必要なものは現れる」という知慧を持っているのです。そして、実際にその通りになるので、楽しいのです。
また、持っているもので、悩むことがないので、楽しいのです。持っているものがなければ、形や色が気いらないとか思うことはないし、壊れたとか、無くなったとか悩むことがないのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 38偈、39偈

38 この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をももたない人は、楽しい。見よ! 人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。

39 この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をももたない人は、楽しい。見よ! 人々は人々に対してかたちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。
 
(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ2・5 法を究め、よく教えを聞く者は無一物であっても楽しい。人が何かを所有してかえって悩んでいるのを見るがよい。人は人に縛られているのが常である、と。)

(桜部建訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

「何物をももたない人」がすべて楽しいわけではありません。多くの人々は、何かを持っていないから苦しいのだと思っています。また実際に苦しんでいるのです。

この偈は、「この世で教えをよく説き、多く学んで」とまたウダーナ2・5の偈でも、「法を究め、よく教えを聞く者」と条件をつけているのです。

法を究めた人は、「無一物中無尽蔵」ということを知っているのですから、そのことが楽しいのです。すべてが「その通りだ」と見えるから楽しのです。

「無一物中無尽蔵」については、ネットで検索してください。いろいろな方がいろいろ説明しています。はじめはなかなか納得いかないでしょうが、その気になれば、わかってきます。

それがわかると、「何物かをもっているために(かえって)悩んでいる」とことがわかるでしょう。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 37偈

37 心のうちには怒りが無く、変転する迷いの生存をとどめ、つねに憂いを離れて、すっかり楽しんでいる人を、神々も見ることができない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ2・10 その心に怒りなく、こうである、こうでないという議論を超え、恐れなく、安楽な、憂いのない人を、神々の威力をもってしても見ることはできない、と。)

(渡辺愛子訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

パーリ語の感興のことば(ウダーナ)の第2章の10経の前文には、次のように書かれています。

カーリゴーダーの子のバディヤ長老は、在俗のとき、王としての楽しみを味わっていたはずであったが、森へ行っても樹の根方へ行っても、また人気のない土地を行っても、常に「楽しい、実に楽しい」と感興のことば(ウダーナ)を発していた。

そこで、多くの比丘の疑問に答えるために、世尊は彼に「なぜ、常に「楽しい、実に楽しい」と感興のことば(ウダーナ)を発しているのか?」と尋ねた。

バディヤ長老は次のように答えました。「私が在俗のとき、王として楽しみを享受していたときは、宮殿の内側の守備は固く、外側の守備も固く、都の内側の守備は固く、外側の守備も固く、国の内側の守備は固く、外側の守備も固かったのです。私はこのように守護され警備されながら、恐れおののき、疑い深く、怯えて暮らしていました。ところが、現在私は、どこに行っても、人気のない土地に行っても、独りでいても、恐れなく、おののきもなく、疑いもなく、怯えもなく、悩みもなく、安心して暮らしています。こういう理由で、常に「楽しい、実に楽しい」と感興のことば(ウダーナ)を発しているのです。」と。

そのことを知って、世尊は上の偈(ウダーナ)を唱えたということです。

この経の前文は、以上ですが、世俗での楽しみは、王といえでも完全なものではありません。「心のうちに、怒りが無く、変転する迷いの生存をとどめ、つねに憂いを離れて、すっかり楽しんでいる人」、すなわち、解脱した人の楽しみは完全な楽しみなのです。

「神々も見ることができない。」・・・神々も欲界の存在であるために、欲はあるのです。そのために、完全な楽しみを理解できないということです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 35偈、36偈

35 鉄の火炉で打たれて燃え立っている火が、次第に静まって、その行方(ゆくえ)がわからないように、

36 欲望の泥沼をわたりおわって、完全に解脱して、不動の楽しみを得た人々の行方(ゆくえ)を知らせることあできない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ8・10 鉄槌で打たれて飛び散った燃える火花は、しだいに消え失せて、その行く先が知れぬごとく、正しく解脱して愛欲の束縛の水流を超え渡り、不動の安楽を得た人々の行く先の認め得べきものはない、と。)

(桜部建訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

「鉄の火炉で打たれて燃え立っている火」とは、「鉄槌で打たれて飛び散った燃える火花」のようなものでしょう。これから、脳内のニューロンが発火して、他のニューロンに広がって行く様子をイメージしました。
この様子は、銀河系宇宙のような小宇宙を幾つも含む大宇宙の何処かで、一つの星が生まれ、消えて行く様子と似ています。一つの星が生まれれば、それは必ず他の星々に影響を与え消えていくのです。

超ミクロの世界で言えば、一つの素粒子が生まれ、消えていくのです。素粒子は波動でもあると言われていますから、一つの波動が生まれ、消えて行く世界です。

欲望は何かの刺激によって生まれます。一つの欲望は他の欲望を刺激して、他の欲望を発生させます。
そのようにして欲望の泥沼ができるのです。欲望の泥沼は混乱し、騒音が発生します。

しかし、解脱して欲望のなくなった人々には、混乱も騒音もなくなります。それは静かな、楽しい世界なのです。衆生には、それを楽しいとは思えないのでしょう。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 34偈

34 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。互いに満足するのは楽しい。(悪いことをしなかったので)あらゆる苦しみ(の報い)の滅びることは楽しい。
 
(ダンマパダ331 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

法津如来は、如来になって以降、世の賢者と言われる人々の諸説を吟味しています。それも楽しみの一つであります。

その一つに、ヌーソロジーという非常に難解なメッセージがあります。しかし結論を言えば、善悪でなく楽しいかどうかで判断せよということらしい。

もう一人、れいわ新選組の参議院選挙の候補者になった大西つねきという人がいます。彼の政治信条は「一人一人の心の自由」だということで、お金のために働くのではなく、楽しく生きられる世界を作ろうと言っています。

彼らのキーワードは「楽しい」です。ゴータマ・ブッダは二千数百年前に、それを言っていたのです。

「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」の第30章はのタイトルは「楽しみ」であります。

34偈の前にも、楽しみの例が挙げられていましたが、この偈にも楽しみの例が述べられています。

「事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。」・・・事がおこらないときも、友だちのあるのは楽しいものです。

「善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。」・・・善悪が基準ではありませんが、善いことをするのは楽しいのです。

「互いに満足するのは楽しい。」・・・自然に満足できるのは楽しいのです。

今日の25年前、1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。ヌーソロジーでは1995年は転機の年だと言っていました。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 33偈

33 すべての愛執を捨てると、すべての束縛を滅ぼすから、すべての迷いの制約を知りつくして、もはや再び迷いの生存にもどって来ない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「すべての愛執を捨てると」・・・求めるものがなくなったこと。

「すべての束縛を滅ぼすから」・・・そうすると、束縛がなくなる。

「すべての迷いの制約を知りつくして」・・・迷いは求めるものがあるからだとわかる。

「もはや再びもはや再び迷いの生存にもどって来ない。」・・・求めるものがないのだから、迷いはない。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 32偈

32 重い荷物を捨てたあとには、荷物をさらに引き受けるな。荷物を引き受けることは最上の苦しみである。荷物を投げすてることは楽しい。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

徳川家康の名言に、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」というものがあります。

家康は、「重い荷物」を捨てる発想はなかったのですね。ゴータマ・ブッダは、人生の苦しみは「重い荷物が原因であると覚りました。そこで、重い荷物を捨てることにしました。重い荷物を捨てると人生がいかに楽しいか体感したのです。

「重い荷物」とは何か?・・・それはダジャレのようですが、「おもい=思い」なのです。思いを捨てると、人生が楽になるのです。

言葉とは不思議なもので、言葉の音が、時として、真実を教えてくれるのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 31偈

31 この世における愛欲の楽しみと、天上の楽しみとは、愛執を滅ぼした楽しみの十六分の一にも及ばない。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ2・2 この世における愛欲の楽しさも、天界における楽しさも、渇愛(渇きのごとき強い欲望)の尽きた楽しさの十六分の一にも値しない、と。)

(渡辺愛子訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)


*法津如来のコメント

パーリ語の感興のことば(ウダーナ)の第2章の2の経の偈の前文には、次のようなことが書いてあります。

世尊の弟子たちが、「マガタ国のセーニヤビンビサーラ王とコーサラ国のパセーナディ王とではどちらが裕福だろう、どちらが財産が多いだろう、どちらの軍隊が強いであろう」等と雑談していました。その時、世尊は修行者はそのようなことをを話してはいけないと言われ、上記の偈を唱えたということです。

つまり、王様ような権力があり、裕福な人々の楽しみよりも、愛執を滅ぼした人々の楽しみは非常に想像もできないほど大きいのだから、そんなくだらないことをはなしている場合ではないと説かれたのです。

この偈の内容は、昨日引用した30偈の内容につながるものです。

「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。」

「十六分の一」とは、半分の半分の半分の半分です。量を具体的にイメージできるような表現です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 30偈

30  つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

(ダンマパダ290 つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

昨日、引用した29偈に「すべての欲望を断ち」と言っても、それはなかなかできることではありません。また、欲望を断つなど、することは嫌だと思う方も多いと思います。

しかし、この30偈では、「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら」とあります。それならば、やって見ようという気になります。

例えば、ダイエットをしようとする人は、目の前に美味しそうなケーキがあった場合、そのケーキを食べずに我慢することは、将来スリムになって、スマートな自分をイメージすれば、目の前のケーキを食べずに我慢することができるでしょう。

そのように、心清らかな、やさしい自分になりたい人は、いらいらの元になるつまらない快楽(欲望)を捨てることができるでしょう。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 29偈

29 すべての欲望を断ち、心のいらいらする思いを制し、ここに心が清らかに静まって、静けさに帰した人は、安らかに臥す。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

心がいらいらするのは、心が何かをしたいのにそれができないからです。

以前のわたしは、いそいで歩いている時、前を歩いている人がのろのろ歩いていると、いらいらしました。自分が急いで歩けないからです。今考えると、とんでもない自己中心主義者でした。

心に何かしたいという欲望があると、それを妨げるものに対していらいらするのです。心に欲望がなければ、心は妨げられるという思いが起こらないので、いらいらしません。

心に欲望がなければ、いらいらも起こららないので、心は清らかに静まります。

そのような人は、安らかに、ぐっすりと眠れるのです。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 28偈

28 すっかり覆いをときほごされてやすらぎに帰したバラモンは、全く安らかに臥す。諸の欲望に汚されない人は、解脱していて、煩悩の汚れが無い。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダの最終章(第26章)のタイトルはバラモンです。その始めの偈はつぎの通りです。

「383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。」

その解説でバラモンについて次のように書きました。
https://76263383.at.webry.info/200909/article_25.html

(以下引用)
「この詩から、ダンマパダの最後の章、「バラモン」になります。バラモンとはインドにあるカースト制で最上の階級を意味します。しかし、釈尊はインドの伝統的なバラモンではなく、最高の階級に相応しい人々をバラモンと呼ぶと宣言したのです。ですから、仏教においては、バラモンと呼ばれる人々は阿羅漢であるべきなのです。
バラモンは、因縁の流れを断ち切って、もろもろの欲望を断ち切って、もろもろの現象は生じても、消えるものであることを知って、現象を越えたもの・・・すべての現象に対するすべての執着を捨てて、・・・涅槃の境地を体得した阿羅漢であれと釈尊は述べられておられるのです。」
(以上引用)

というわけで、28偈のバラモンとは、ブッダの名付けられた阿羅漢(あらかん)です。ブッダも含みます。

バラモンは無明(無知)の覆いを取り外し、闇の世界が明るくなって、恐怖や不安・心配がなくなったのです。おかげで、夜はぐっすりねむれます。

バラモンには、いろいろな欲望はないのです。あるものだけで十分満足できます。必要なものは必ずあるのです。ですから、いろいろな煩悩で心が汚れることがないのです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 27偈

27 尊い生まれの人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。この英雄(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。 

(ダンマパダ193 尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「かれはどこにでも生れるのではない。」・・・この通りです。実際にどこの家でもブッダが生まれているわけではありません。ゴータマ・ブッダは王国の王子として生まれましたが、誕生してすぐに、母を亡くしました。その後、やさしい義理の母に育てられたのでしたが・・・。

ブッダはいわゆる幸福な家庭から生まれるとは限りません。むしろ、いろいろ問題のある家庭から生まれる可能性も多いのです。私が仏教について話した人々の中には、両親が離婚されている方も多いのです。実は、私の両親も私が12歳の時に離婚しました。現在では離婚は珍しくありませんが、当時は離婚は珍しく、それが恥ずかしく、決して人には言えませんでした。そのため、親友というものをつくれませんでした。

宗教や政治運動に関わる学生は、両親が離婚した人に多いとも言われています。人生について考えるようになるかもしれません。

しかし、「この英雄(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。」・・・これも本当です。ブッダのいる家は幸せです。これも恥ずかしいはなしですが、以前の私の家族は口喧嘩が多かったのですが、今ではそのようなことはありません。あるのは幸せだけです。もし、夫婦仲の悪いブッダがいたとすれば、そのブッダは偽物です。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 26偈

26 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つらいことである。___まるで仇敵とともに住むように。心ある人々と共に住むのは楽しい。___親族と共に住むように。

(ダンマパダ207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。___仇敵とともに住むように。心ある人と共に住むのは楽しい。___親族に出会うように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「類は友を呼ぶ」ということわざがあります。同じような種類のものが集まるということです。同じ種類のものは波長があって一緒に居やすいのです。逆に、異種のものは一緒にいると違和感があるのです。ひどい場合は争いがおきます。

赤ちゃんは赤ちゃんを見ると喜びます。子供は子供のと遊びたくなるのです。老人は老人と集まる傾向があります。人間ばかりでではありません。動物も同じです。人間や動物ばかりではありません。色々な種類の豆や穀物を混ぜて、振動させると同じ種類の豆や穀物が集まって、分離するのです。

26偈を述べておられるのはブッダであり聖者ですから、愚人と一緒に歩むのは違和感があってつらいのです。「心ある人々」とはやさしい人々です。聖者はそのような人々は居やすいのです。

最後に一言、自分が愚者だと自覚しているが、賢者になろうと思う方は、「朱に交われば赤くなる」ということがありますから、賢者、聖者に、すなわち善友に親交したらよいでしょう。初めは、善友に嫌がられるかもしれませんが。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 25偈

25 諸の聖者に会うのは楽しい。かれらと共に住むのも、つねに楽しい。愚かな者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。 

(ダンマパダ206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「諸の聖者に会うのは楽しい。かれらと共に住むのも、つねに楽しい。」・・・これはこの通りです。

しかし、「愚かな者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。」・・・この表現は微妙です。「心はつねに楽しいであろう。」としています。「楽しい」と言い切ってはいないのです。

現実には、愚か者と会わないわけにはいかないからでしょうが、ブッダが愚か者と表現しているのは衆生を意味しているのです。ブッダは衆生に対する慈しみがあるのです。愚か者が愚かなことをしても、慈しみの心で、愚か者が聖者になることを願っているのです。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 24偈

24 岸に下りてゆく階段の整備されている河は楽しい。理法によってうち克った勝利者は楽しい。明らかな知慧を得ることは、つねに楽しい。「おれがいるのだ」という慢心を滅ぼすことは楽しい。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「岸に下りてゆく階段の整備されている河は楽しい。」・・・ガンジス河はゴータマ・ブッダの時代でも大変な聖地でした。そこで人々は心身を清めるために沐浴するわけですが、そのために岸に下りていく階段が整備されているのならば、楽しかったのでしょう。

「それ以上に」とはこの偈には書いてはありませんが、それ以上に、理法によって自分の煩悩を克服した勝利者は楽しいのです。

理法によって、明らかな知慧を得ることは楽しいのです。

理法によって、「おれがいるのだ」ということはないことがわかります。それによって慢心が滅びます。そうすると今まで自分で抱えていた悩み苦しみがなくなります。それは楽しいことです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 23偈

23 徳行をたもっている人々に会うのは楽しい。博学な人々に会うのは楽しい。解脱していて再び迷いのうちに生まれることのない真人に会うのは楽しい。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

毎朝ラジオ体操をしに近所の運動広場に出かけます。ほとんど私と同年輩の年寄りの集まりですで、「おはようございます。」とあいさつをするだけの付き合いですが、楽しいです。彼らは早起きという徳行を保っている人々だからでしょう。

思い起こせば、何人か博学な人はいました。一人は我が家に下宿していた大学生です。彼は何でも知っていました。わからないことは何でも聞きました。彼の広辞苑のほとんどすべての言葉には朱が入っていました。その時、私は小学生でした。

もう一人は、大学4年になって入った研究室の助教授でした。生命とは何か?知りたくて生物学を学んでいたのですが、彼とよく一緒に散歩していろいろ質問しました。彼は全て即答してくれました。その時は楽しかったです。

最後に、「解脱していて再び迷いのうちに生まれることのない真人」です。彼は真人以上の方ですが、現在熊本県熊本市に住まわれておられるSRKWブッダです。5年ほど前に熊本に会いに行きました。そこで朝から晩まで、6日間話していましたが、ずっと楽しかったことを思い出します。

というわけで、この偈に書かれている通りです。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 22偈

22 仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々が修行しているのは楽しい。

(ダンマパダ194 もろもろの仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ182に、「もろもろの仏が出現したもうことも難しい。」と説かれていますが、その仏が現われたまうのは本当に楽しい。昨年は4人の仏が出現しました。実際に楽しいものです。

テーラワーダ仏教の教義では、一つの宇宙に一人の仏が現れるとしていますが、ダンマパダには「もろもろの仏」と複数形にしています。一つの宇宙に複数の仏が現れることを示しているのです。

「正しい教えを説くのは楽しい。」は仏の言葉ですから、説くのは楽しいになりますが、衆生の側から見れば、正しい教えを聞くのは楽しいとなるでしょう。

「つどいが和合しているのは楽しい。」・・・サンガなど修行者の集まりと限定しなくとも、「つどい」とは人々の集まりです。人々が仲良くしていることは楽しいものです。

そのような人々が修行するならば、さらに楽しい。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 21偈

21 世の中で母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世の中でバラモンを敬うことは楽しい。 

(ダンマパダ332 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世の中で修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「世の中で母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」これについて考えましょう。
これに参考に参考になるブログ記事を探しました。

2008年10月7日の「ダナパーラという名の白象は食べ物取らず母思う」という記事です。
https://76263383.at.webry.info/200810/article_7.html

(以下引用)

ダンマパダ 324

ダナパーラという名の象は
激しい破壊力があり制し難い
捕まった象は食べ物を食べずに
象が住む森を心配する

○この詩から学ぶ

 この詩はダナパーラという名の象のことを知らなければ意味が分かりません。ダナパーラという象についてはジャータカ物語455 養母象本生物語 (南伝大蔵経 第33巻 337~345ページ)に書かれています。

 ダナパーラは大変美しい勇ましい白象でした。この白象は山中の洞窟で盲目の母象の世話をしていました。しかし、自分が助けた悪い人間のために、王の乗り物として捕獲されたのです。ダナパーラがあばれれば、捕獲されずにすみましたが、そうすれば多くの人間を傷つけることになるので、またそれは悪業を作ることになるので、おとなしく捕獲されました。王はこの白象を大変気に入り、毎日ご馳走を白象に与えました。しかし、この白象はそれを食べようととはしませんでした。不審に思った王は白象にその理由を聞きました。白象は「盲目の母象が私を待っています。私は母が心配で食べられないのです。」と答えました。慈悲深い王はこの白象を放し、象の森に帰しました。ちなみに、その時の王はアーナンダ尊者であり、母象は王妃マハーマーヤーであり、白象は釈尊、それぞれの過去生であったということです。

 この物語は親孝行を教える話なのです。しかし、この詩の多くの日本語訳で「発情期には狂暴になって」などの訳がありますが、理由が分かりません。パーリ語の辞書にもその訳はありません。もっとも英語の本にも「発情期」という言葉を使っていますので、私の知らない何かの意味があるのかもしれませんが、話の本筋からは外れ、この詩の意味を混乱させるのではないかと思います。

 孝行は儒教でも重要な徳目でありますが、仏教でも重要な善行為です。ここでは仏教の父母に対する考え方を説明しましょう。
 1.父母は梵天あると思うべきこと。梵天とは慈悲喜捨の心を持った最高の神です。梵天と同じように、父母は子に対して、どんな時でも慈しみの心でいてくれます。困った時は自分をかえりみず助けてくれます。成功した時は自分のことのように喜んでくれます。いつでも冷静に助言をしてくれます。父母以外はそのような人はいません。
 2.父母は教師であると思うべきこと。父母は私たちが生まれてから、何も知らないときから、生きる術をすべて教えてくれました。父母は私たちの教師なのです。
 3.父母は、阿羅漢と同じように尊敬すべきであると思うべきこと。上の1、と2、を考えると私たちにとって阿羅漢と同じような人なのです。尊敬すべき人なのです。(南伝大蔵経17巻 214ページ)

 「両親に対して子供が為すべきこと」について具体的なことはこのブログの9月12日ダンマパダ292、293の「この詩から学ぶこと」に書きました。
  http://76263383.at.webry.info/200809/article_12.html

 また、大乗仏教のお坊様ですが、テーラワーダ仏教を実践されている木下全雄師のブログでも「仏教徒は両親に敬意を」で孝行について分かりやすく書かれていますので、参考にされるとよいと思います。(かってにここに引用しますが、よろしくお願いします。)
  http://blog.livedoor.jp/happyzenyu/archives/601277.html

(以上引用)

木下全雄師のブログ記事の引用もあり懐かしいです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 20偈

20 老いに至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。意義と趣旨を楽しむことばは楽しい。悪を為さないことは楽しい。 

(ダンマパダ333 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「老いに至るまで戒しめをたもつことは楽しい。」・・・60歳までは、戒めを守ることを意識したことはしませんでした。しかし、60歳からは五戒を意識して守るようにしてきました。特に、うそをつかないように努力しました。はじめは楽しいとは思えませんでしたが、うそをつかないことで真心がつたわります。それは楽しいです。

「信仰が確立していることは楽しい。」・・・青年時代、また成年になってからも、信仰(信念)が定まっていませんでした。常に何が正しいのか迷っていました。それは楽しくありません。しかし、進む道が定まれば、すべてが楽しくなります。

「意義と趣旨を楽しむことばは楽しい。」・・・良いことも悪いことも、全てに意味があることを知れば、その意味を知ることは楽しいものです。

「悪を為さないことは楽しい。」・・これは実践すればわかります。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第30章 楽しみ 18偈、19偈

18 満足して教えを聞き、真理を見る人が、独り離れているのは、楽しい。世の中で、生きるものに対してみずからを制して殺さないのは楽しい。

19 世にあって、情欲を離れ、諸の欲望を超えているのは、楽しい。「おれがいるのだ」という慢心をおさえよ。これこそ最上の安楽である。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)

(ウダーナ2・1 法を聞き、正しく見、満ち足りている者がひとり静かにいるのはのは楽しい。この世の生きとし生けるものを自制心をもって傷つけないことは楽しい。世間に対する貪欲を離れ、欲望を超えていることは楽しい。うぬぼれを払い去る、これこそが無上の楽しみである。と。)

(渡辺愛子訳「原始仏典 第八巻 ブッダの詩II」講談社より引用しました。)

*法津如来のコメント

パーリ語のウダーナの2章2の経によれば、世尊(ゴータマ・ブッダ)が解脱後7日間、解脱の楽しみに浸っておられるとき、季節はずれの大雨が降った。その世尊の身体をムチャリンダという竜王が自分の身体で守ったそうです。7日後空は晴れ、竜王は青年の姿になり、世尊の前に立ち、合掌して世尊に敬礼しました。世尊はそのことを知って、上のウダーナ(感興句)を唱えたということです。

ということで、世尊がご自分の解脱後の満足を表現された言葉です。

もう少し砕いて言えば、

法の句を聞き、「真理を見る人」とは解脱知見を得た人という意味で、一人でこの状態を感じているのは楽しい。どんな生き物も、どんな人々も悲しませないことは楽しい。この世のどんなものにも執著がないのは、楽であり、楽しい。「おれが、おれが」という自意識がないのは、以前は不思議に思っただろうが、楽であり、楽しい。無上の楽しみであり、比べるものがない楽しみであるということです。