われらは何も持たないけれど

ダンマパダ 200

真に気楽に生きてみよう
われらは何も持たないけれど
喜びを糧として存在しよう
天界に住む光音天の如く


 訳注:光音天という神々は喜びをエネルギーにして生きていると言われています。ですから、明るく喜びを持って生きている人々のそばに集まってくるそうです。暗く怒りや憎しみのある人々には近づきません。

*この詩から学ぶこと

 お釈迦さまは私たちに無理な注文をしているように聞こえます。それは何も持たなければ生きて生けないと私たちは考えているからです。しかし、どうでしょうか。私たちはなにも持たずに生まれてきました。母や父のおかげで、子供の頃は明日のことを何も心配しないで、気楽に毎日遊びながら大きくなってきました。何かがなければ生きて生けないと思い始めたのは何時からでしょうか。実はそれは単なる妄想なのです。そんなことは心配しなくてもよいのです。毎日必要なことを、怠けずすればよいのです。
 私たちは、これまで行為(業)の結果として、人間として生まれてきたのです。行為(業)の結果として人間に生まれた時には、寿命も決まっています。その期間、生きる能力も備えて生まれてくるのです。ですから生きている間は生きることができるのです。生きている間は死にません。安心していいのです。世界は因果法則で貫かれたいますから、日々悪い行為をしないように、善い行為をするように努力していれば、善い結果が現れ、寿命は全うされます。心配はないのです。これはお釈迦さまの業に関する教えの一部ですが、この教えに確信できれば、心配ないのです。
 業について疑いのある人は、少し考えてみましょう。あなたが悩んでいるとしたら、物がないからではなく、物があるからでしょう。ない人は悩まずに働いているでしょう。
 物がある人はもっと欲しい。あるはもっと良い物が欲しい、これが無くなったら困る、取られたら困るなどと考え、保険に入ったり、防犯対策を考え、無駄にあるいは余計にお金を使うのです。そして悩むのです。物だけではありません。家族や恋人や友人もそんなものです。具体的にはいろいろありますが、大筋はこんなものです。
 上の詩は「われらは何も持たないけれど」と訳しましたが、「何も持たない故に」と訳した方がお釈迦さまの意図に近いのかもしれません。

無一物 気楽に生きる 極意です


~わたしは幸せでありますように~
~あなたが幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

身の丈修行者
2015年02月12日 22:56
私事の経験ですが、家に貯め込んだ物を思いきって処分した時、身軽になり心も軽やかになりました。
自分が大事に思っている見方・考え方も、必要な真理以外を捨てれたら、さらに身軽になり心も軽やかになるように感じます。
本当に必要なもの以外は捨てれるような、そんな生き方を目指したいです。

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