真実を語るように、怒らないように、施すように

ダンマパダ 224

真実を語るように、怒らないように
求められた時は少しの中からも施すように
これらの三の要因で
神々の面前に赴くだろう

*この詩から学ぶこと

 この詩の因縁物語も面白いので、北嶋泰観先生の御本から引用させてもらいます。
 ある時、マハーモッガラーナ長老は神通力を使って天界に昇って、「どのような善行によって、天界に輪廻転生することができたのですか?」と神々にたずねた。
 一人は恥ずかしそうに、「私は前世においては布施もせず、説法を聞くこともありませんでした。唯、嘘をつかなかっただけです。」と答えた。また一人は「多くの善行をした覚えはないのですが、唯、仕えていた主人に叩かれいじめられても怒ることは無かったです。」と答えた。また別の神は「施しをお願いされた時、ほんの少しの砂糖や果物や野菜をあげただけです。」と答えた。
 長老は地上に戻るとお釈迦さまを訪ね「あのような少しの善行によって神々の世界に行けるのでしょうか?」と質問した。お釈迦さまは「なぜそのような質問をする。たった今自分の目で見て、自分の耳で聞いてきたではないか」と語られ、上の詩を説かれました。以上因縁物語。

 さて、「嘘をつかないこと、怒らないこと、求められれば施しをすること。」これは決して小さな善行為ではないのです。これを完全に実践することは偉大な善行為であり、涅槃につながるものなのです。

 嘘をつかないことは相手の人格を尊重することです。生命の自分は幸せでいたいという自己愛を尊重することです。仏教用語では「慈」の心です。どんな人に対しても嘘をつかないのであれば、それは生命を平等にみる気持ちです。仏教用語で言えば、「捨」の心なのです。

 怒らないことは、自分の心に猛毒を作らないようにすること。心を汚さないことです。回りの生命には不快な気持ちを撒き散らさないようにすることで、慈しみの心なのです。怒りの感情が強い人は慈悲の瞑想の実践がよい修行方法なのです。

 求められた時は施しをすることは、困っている人を助けたいという気持ちです。これは仏教用語では「悲」の心と言います。またこれは施しを受ければ、困っている人は喜びますから、共に喜びたいという気持ちも入っています。これは仏教用語では「喜」の心です。どんな人にも求められれば、施しをするのであれば、「捨」の心も入っています。

 この三つの行為を実践すれは「慈悲喜捨」の心が育てられます。この心には制限が無いので、どこまでも大きく育てられます。そうすると神々の最高の立場にいる梵天の境地と同じようになるのです。それは心解脱です。完全な解脱である慧解脱まであと一歩です。

  ○嘘つかず怒らない人布施すれば 梵天の如く涅槃に近い

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

ホーシノハタラキ
2008年08月03日 12:41
ワンギーサさん、毎日、素晴らしい解説ありがとうございます。真実を語る、怒らない、少しでも施す、という三要因は、相手を尊重し、相手が喜ぶことによって、自分も喜び心が成長できるということですね。私はこれまで相手を尊重する行為が自分を成長させるというところに気がつきませんでした。ただ、嘘をつくことは道徳的に悪いこと、怒ることは自分を破壊することだと考えておりました。布施については正直なところよく解りませんでした。今日の解説で「心の成長、人格の形成」にとって重要な3要因であることがわかりました。
2009年03月11日 05:46
 「どうぞ、持って行ってください。」チョコレートをもらいます。お腹が空きます。食べます。半分になります。お腹が満たされます。親に上げよう。持って帰ります。「お土産です。会社にもらいました。どうぞ。」親は食べます。「ココアですね。」親。分けれて、よかったです。
身の丈修行者
2015年01月27日 13:33
困っている人を助けたい・・を実行するのは場面が明確でなければ(有難迷惑のような流れ?で)難しいかもしれないとも思います。また自分が何処まで出来るのかという面もあるように感じます。

相手が困るような関わり方をしない、というのは宜しいように思います。

自分の器の範囲の良い加減で・・という面もあるかもと感じますが、慈しみの実践をして参りたいなと思います。

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