多弁の人を賢者と言わない 無畏の人こそ賢者です

ダンマパダ 258

多く語るだけでは
賢者ではない
穏やかで恨む心のない無畏の人こそ
賢者と呼ばれる

○この詩から学ぶこと

 多く語るだけでは賢者とは言えません。正しく語る人が賢者なのです。釈尊は次のように述べています。「多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安楽のため、迷妄のない生けるものが世に現われていると語る場合にのみ正しく語ることになります。」(片山良一先生訳 中部経典「恐怖経」より)。 ただ多く語るのは無駄話で釈尊が禁止していることです。

 それに対して、無畏の人こそが賢者と呼ばれる人です。無畏の人とは恐怖心がない人ですが、穏やかで恨む心のない人と述べられています。上に引用した「恐怖経」には、恐怖は煩悩により生まれると書かれています。すなわち恐怖心のない人とは、煩悩のない人、解脱した人ということになります。「恐怖経」には恐怖が現われる原因を16に分けて書いてあります。参考のために項目だけ挙げておきます。

1.身による行為が清められていない欠点
2.語による行為が清められていない欠点
3.意による行為が清められていない欠点
4.生活が清められていない欠点
5.貪欲にしてもろもろの欲に強く染まっている欠点
6.怒りの心と邪悪な想いがある欠点
7.沈鬱と眠気に纏わりつかれている欠点
8.浮つきと静まらない心がある欠点
9.疑いと迷いがある欠点
10.自分を誉め他人をけなす欠点
11.恐れ戦く欠点
12.利得や尊敬や名声を求める欠点
13.怠惰にして精進のない欠点
14.失念し正知しない欠点
15.安定せず心が乱れている欠点
16.無知蒙昧の欠点

 以上の欠点をなくせば、恐怖のない人、無畏の人になります。

 以上考えてみると、ダンマパダ258は「恐怖経」の要約のような詩である。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現われますように~

この記事へのコメント

ホーシノハタラキ
2008年08月16日 08:04
ワンギーサさん、ダンマパダ258の解説ありがとうございます。愚者(私)は真理や道理を理解していないために多くを語ることになります。そして、恐怖経にある恐怖を無くし安穏に生きるための16項目の教えは判るのですが、いざ日常において実践することは大変難しいことのように思いました。
高橋優太
2009年03月15日 07:13
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。確かに心が浮ついているとき、怠惰のとき、怖くなります。「自分は何してんの?怠けて」と怒りも出てきます。そんなときこそ心と知恵を育てます。悪い感情に負けないで。ありがとうございました。
身の丈修行者
2015年01月31日 16:25
怒りや欲・無知の状態でいると、余計な事・変な感情を込めて多弁になってしまう印象があります。

クレームを下さる方に対応する時、理不尽な事を言われてもこちらに「怒り」が出なければ無難な流れになると経験で知っていますが、自分が怒らない大変さを感じています。

ワンギーサ長老本文の>多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安楽のため、迷妄のない生けるものが世に現われていると語る場合にのみ正しく語ることになります。

この事を意識して言葉を出すように戒めたいです

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