遠くにいても 善人見える 近くにいても 見えぬ悪人

ダンマパダ 304

遠くにいても善人は輝いて見える
ヒマラヤ山のように
近くにいても悪人は見えない
夜中の放たれた矢のように

○この詩から学ぶこと

 私はこの詩を何年か前に読んだ時、そんなものかなと思いました。内心は悪人にはよく分かるけど、善人は近くにいても分からないと思っていたのです。その前に、悪人と善人の区別ができなかったのです。私がこの詩の意味がよく分からなかった理由はこの詩ができた因縁物語を知れば少し分かると思いますので、要点を紹介します。

 信仰心の篤い在家信者アナータビンディカは娘のチュラスバッターを友人ウッガの息子と結婚させました。ウッガ家は裸形修行者に帰依していました。チュラスバッターの義父は彼女に裸形修行者の接待を頼みましたが、彼女はそれを拒んだので、義父は義母に彼女の帰依している修行者はどのような人物か聞かせました。彼女は仏陀の素晴らしさについて話しました。義母は仏陀に興味を持ち、仏陀をウッガ家に招待し食事のお布施をすることにしました。喜んだチュラスバッターは、家の最上階に上がり、仏陀の居られるサーヴァティの方向を向いて、仏陀と弟子たちを招待することを念じました。その頃、アナータビンディカは食事の招待を仏陀に申し出ましたが、仏陀は「折角だが私はお前の娘から招待を受けている」と返事をされました。アナータビンディカは不思議に思って「娘は遠く離れたところに嫁いでおります」言うと、仏陀は「その通りだが」と答えて、上の詩を述べました。以上が因縁物語の要旨です。

 この詩は仏陀の言葉なのです。仏陀だから、「遠くにいても善人は輝いて見える」のです。凡人には善人は近くにいても見えないのではないでしょうか。仏陀は「近くにいても悪人は見えない」と述べられていますが、仏陀が悪人を見抜けない筈はないので、悪人は見ないようにしているのかも知れません。

 ところでこの詩は何を言いたいのでしょうか? 物を見る力ができないと善悪が分からないということでしょう。物を見る力を付けるためには心のレベルを上げる必要があるのです。別の言い方をすると人格を向上させることが必要なのです。そのために、必要な智慧はダンマパダのすべての詩に散りばめられていますが、特に256番から270番の詩にまとめて書かれています。時間のある時、もう一度読み直すのもよいと思います。


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~ 

この記事へのコメント

ホーシノヒトリゴト
2008年09月22日 09:21
ワンギーサさん 昨日のスマナサーラ長老記念講演会ご苦労さまでした。さて、本日の詩にある「善人と悪人」についてですが、勉強不足の私が思うには、善人は煩悩を無くして幸せに生きる真理を理解し、その真理を他の多くの人たちに伝えようと、世の中のために役に立とうと善行をしている人ではないでしょうか。そして悪人(愚者)はその真理を知らず自己中心的に愚かに生き続けている人たちでは二でしょうか。私は昨日のワンギーサさんの業論についてもよく勉強して善業を積み重ねるように努めたいと思っています。ありがとうございました。
ホーシノヒトリゴト
2008年09月22日 09:26
コメントの書き込み文に間違いがありました。11行目の「二でしょうか」は「ないでしょうか」です。修正をお願いします。
ワンギーサ
2008年09月22日 10:11
ホーシノヒトリゴト様
コメントの修正はブログの管理者もできないので、あしからず。
身の丈修行者
2015年02月06日 11:37
この詩ができた因縁物語を拝読でき、幸せを感じています。ワンギーサ長老有難うございます。
心のよりどころ、というニュアンスを自分の中で感じました。
余談になるかと思いますが、仏教の知識人でも・その生き方が伴っていない例もある・・と伺った事があります。
そうしますと仏教の知識があるかどうか?という見方だけでは善悪は判らないという事になるかと思います。
自分の心のレベルを上げれるように精進したいです。

この記事へのトラックバック