小さな罪も軽く見ないで100パーセント犯さない

ダンマパダ 311、312、313

草の葉を誤って握れば
手を切るように
修行者は行ないを誤れば
地獄に落ちる

だらしのない行為
不純な請願
疑いのある清浄行
これらに大きな成果はない

為すべきことがあれば
しっかりと努力して為せ
だらしのない修行者は
より多くの迷惑を撒き散らす


○この詩から学ぶこと

 始めに、これらの三つの詩ができた因縁物語を紹介します。
 ある比丘が誤って草を切り取ってしまいました。その比丘は非常に後悔して他の比丘に懺悔しました。懺悔を受けた比丘は、彼を笑って「草を切り取ることは小さな罪だ」と言いました。それで、その比丘は他の草もどんどん切り取り始めました。
 仏陀はこのことを聞いて、その比丘に、311、312、313番の詩を唱えて、小さな罪も軽視してはいけないと教えました。始めはその比丘は頑固でしたが、後で軽い罪でも犯さないことの重要性に気付き、戒律をしっかりと守り、冥想に熱心に取りくみ阿羅漢にまでなりました。

 今回のテーマは「小さな罪」の問題点です。はじめの詩では、「修行は行ないを誤れば、地獄に落ちる」とあります。どんなことがあるでしょうか?たとえば、少しだけならばいいだろうと、お酒を飲んで車を運転をしたとします。これは世間の法律上でも罪です。仏教でも世間の法律を犯すのは罪です。お酒を飲むことは五戒を破ることになりますが、お酒を飲んで理性がなくなり、不倫をしたとします。大きな罪を犯すことになります。修行者にとっては地獄に行くことにつながります。

 だらしのない行為とは、小さな過失や罪ならば、許されるだろういう態度の人間の行為です。不純な請願とは、守る気持ちがない誓いです。こんな誓いはもちろん守れません。疑いのある清浄行は厳密でない少しの過ちは許すような清浄行、これらからは大きな成果どころか、少しも成果は得られず、これらは偽善的な行為ですから、かえって罪を作る恐れがあるのです。

 為すべきことは、行うと決めたことは、厳密に、しっかりと行うよう努力すべきなのです。真理の発見を目指すものは、100%の厳密さで諸々の事柄に対応すべきなのです。
 これはスマナサーラ長老もよく仰っていたことです。たとえば、冥想中、耳に「カーカー」と聞こえたします。それをすぐカラスの声とラベリング(確認)してはいけないのです。カラスの声かどうか分からないからです。その時、耳に聞こえたものは「音」であることは100%間違いないので、100%間違いものをラベリングするのです。 ラベリングは「音、音、音」と行うのです。少し余談になりますが、「カーカー」はカラスの声ではないのですかと、私は以前長老に質問しました。そうしたら、長老は「カーカー」とカラスの声そっくりの声を出しました。すなわち、それは人の声かも知れないのです。

 終わりの話は、少しポイントはずれましたが、仏教では曖昧でなく、厳密に、小さな罪も犯さないという態度は必要なのです。小さなことでも曖昧にしないことで、真理に近づくことができるのです。


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~ 

この記事へのコメント

ホーシノヒトリゴト
2008年10月01日 15:59
ワンギーサさん ダンマパダ311,312,313の解説ありがとうございます。私はどうしても怠けと言いますか、これくらいのことは許されるであろうと主観的に自分勝手に考えて愚かな行為をすることがあります。どのような些細な行為でも法に反する行為は避けなければならないのですね。私は昨日まで高山に登ってきましたが、登山道を少しでも誤ると命を無くすような事故につながります。おっしゃるように慎重な行動を常に心がけて歩かなければなりません。ありがとうございました。
身の丈修行者
2015年02月07日 15:36
小さな罪ならOKにしてしまうと、なし崩しで守れなくなるように感じます。
また、自分の主観で小さいと大きいとか区別してしまうのは危険に思います。
小さくても罪なものはしないように心がけたいです。

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