気付きを楽しみ心を守れ 執着捨てて解脱せよ

ダンマパダ 327

気付いていることを楽しみ
自分の心を守れ
難所から自分を引き上げよ
泥沼に沈んだ象のように


○この詩から学ぶこと

 今回はこの詩の出来た因縁物語から始めます。
 若い時は大変強い象がいました。しかし、年をとって弱くなりました。その象が水場に行った時に泥沼にはまって、そこから抜けられなくなりました。それを聞いた王様は象を助けるために象使いを水場に送りました。象使いたちは戦闘用の太鼓を打ち鳴らしました。その老象はその音を聞き、奮い立ち、昔の血が全身に蘇ったように力強く足を踏み出し、見事の泥沼から脱出したのでした。
 その様子を群集と見ていた比丘たちは仏陀にその報告をしました。仏陀はその比丘たちに、「気付いていることを楽しみ、自分の心を守りなさい。そして、泥沼にはまった象が、奮い立ち、全力を出して泥沼から抜け出るように、自分自身の執着から脱出しなさい。」と説法されました。この説法を聞いてこの比丘たちは阿羅漢果の悟りを得たということです。
 いい話ですね。
 年をとって弱った象でもがんばれば、泥沼から脱出できるんですね。
 執着は泥沼のように、抜け出るのが難しいのですね。
 
 執着って何でしょうか? パーリ語ではウパーダーナですが、取著とも訳されています。簡単な日本語では「こだわり」が近いでしょう。しかし、最近では「こだわり」を良い意味にも使いますが、本来は良いいみではなく、人間に苦しみをもたらすものなのです。「こだわり」さえなければ、苦しみはないのです。ですから、釈尊は「こだわり」から脱出しなさいと説くのです。

 中部経典第9「正見経」にその説明があります。片山良一訳「中部(マッジマニカーヤ)根本五十経編Ⅰ」150ページから下に引用します。
 「取著とは何でしょうか。取著の生起とは何でしょうか。取著の滅尽とはなんでしょうか。取著の滅尽にいたる行道とはなんでしょうか。
 これら四の取著があります。すなわち、欲の取著、見の取著、戒禁の取著、我語の取著です。
 渇愛の生起から取著の生起があります。
 渇愛の滅尽から取著の滅尽があります。
 かの聖なる八正道こそ、取著の滅尽にいたる行道です。」

 執着を理解するために、四種類に分けています。
1.欲に対する執着です。欲しいと思うとどうしても欲しいと思い、あきらめることができない。
2.見解に対する執着は変わらない魂があるなどという邪見に対する執着です。
3.戒禁に対する執着は無意味な修行や宗教儀式に対する執着です。
4、我語に対する執着は自分の説に固執することです。
 これらは確かに、捨てるこたが難しいようです。しかし、八正道を実践することで克服することができると述べられています。やはり八正道は解脱し、涅槃に達するための王道なのです。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~  

この記事へのコメント

2008年10月10日 08:07
ワンギーサさん、今日は。ものを捨てる時などは、それに対する執着が分かり易いです。今日解説して頂いた、見解や戒律などへの執着は、執着していること自体に気付きづらいような気がします。さまざまな執着があるのでしょうが、八正道の実践でそれらに気付き、そこから離れられたら「苦しみ」からも離れることが出来るのでしょう。有難うございました。
ワンギーサ
2008年10月10日 10:29
新様、コメントありがとうございます。
本文では書きませんでしたが。日常読誦経典の25ページの注に、固執(ウパーダーナ)主体としての自己にも、客体としての外界の対象にも強くとらわれることと記載されています。この点も大切です。執着をなくすには先ず自分が囚われていること、ものに気付くことからはじまります。
ホーシノヒトリゴト
2008年10月10日 10:40
ワンギーサさん 今日もありがとうございます。私は今までどっぷりと泥沼の中に沈んでいました。お陰さまで頭だけが水面の上に出せたようです。10月6日の困った時はダンマパダ「乗り物でなく 自己の訓練が 未到の涅槃に 連れて行く」の解説によって「智慧を増やす方法」を知ることが出来ました。「智慧のある人に親しみ、正法を学び、如理に作意して、八正道に即した行為を実践する」ことが、自分を煩悩の泥沼から救うことになるのですね。ありがとうございました。
ワンギーサ
2008年10月10日 16:36
ホーシノヒトリゴト様。コメントありがとうございます。「『智慧のある人に親しみ、正法を学び、如理に作意して、八正道に即した行為を実践する』ことが、自分を煩悩の泥沼から救うことになるのですね」とのコメント、その通りだと思います。

ツヨシ
2008年11月17日 09:10
 ワンギーサさん、おはようございます。
 すばらしい作品をつくろう、と考えることは、こだわりなのでしょうか。
 完璧な作品でなく、そこそこの作品をつくろうと、考えると、苦しみや作る時間も、減りますかね。
ワンギーサ
2008年11月19日 09:17
ツヨシさんへ。別の記事へのコメントの返事にも書きましたが、すばらしい作品を作ろうとするのはこだわりではありません。自分の能力への挑戦です。向上心です。人間は人格の向上と同時に、能力向上ために努力する必要があるのです。そこそこの作品で満足するのは、怠けであり、腰抜けです。苦しくとも最高の作品をつくるように挑戦するべきなのです。そこに喜びや満足がありますし、能力も向上するのです。
白檀
2011年03月31日 13:41
お金にとてもこだわる人と出逢いデートする度嫌になりさいご逃げてました。歩く家計簿みたいに店を出たらすぐかかったお金を計算しながら歩き口に出し 会話がお金いくら遣ったか等というのが主です。隠れて‥女性が横にすわり接客してくれお酒を飲むのが好きでそこに通う性格がわかりそこへはお金をだす人と知り。特に本能のこだわりの強さを口に平気でその都度出す人には嫌気もきて逃げてしまっていた。
身の丈修行者
2015年02月09日 17:53
執着・こだわりがある程、柔軟性や可能性はなくなるように思います。
また、こだわりがある程生きにくいようにも思います。
そんなこだわりを捨てて・・と言うは簡単ですが、実際はなかなか捨てれず守ってしまうのが人間と思います。
そのような意味でこちらで学ばせて頂き、そして心の成長の機会に繋げていきたいです。

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