賢い友が得られないならば独りで歩め象のように 

ダンマパダ 328、329,330

もしも正しい生活している賢明な
友を得るならば共に歩め
それで一切の困難を克服して
心にかなう気付きある生活ができる

もしも正しい生活している賢明な
友を得られないならば
征服した王国を捨てる王のように
林中の象のように一人歩め

愚か者と付き合うよりは
独り歩む方が良い
林中の象のように悪をすることなく
求めること少なく独り歩め


○この詩から学ぶこと

 このブログの10月6日に、「智慧を増やす方法」について書きました。

  http://76263383.at.webry.info/200810/article_6.html

 その第一は、「智慧ある人親しむこと」です。今回の詩も、賢明な友が得られるならば、共に歩めと教えています。釈尊はいろいろなところで善友の重要性について述べておられます。その重要な一つを紹介しましょう。

 中村元訳「神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ」(岩波文庫)191ページ。

 「そのとき、修行僧アーナンダが、私(釈尊)のところに近づいて来ました。近づいてから・・・
私(釈尊)に次のように申しました。『・・・善き友のあること、善き仲間のいること、善き人々に囲まれていることは、清浄行の半ばに近い」と。
 このように言われたので、私(釈尊)は・・・次のように言いました。『アーナンダよ。そうではない。そうではない。善き友をもつこと、善き仲間のいること、善き人々に囲まれていることは、清浄行の全体である。善き友である修行僧については、このことを期待することができる。善き友、善き仲間、善き人々に取り囲まれている修行僧ならば、八正道を修めることができるであろう。そうして八正道を盛んならしめるであろう。・・・』と」

 釈尊は善き友と親しくすることは、「仏教修行の全体である」とまで言われるのです。その根拠は「八正道を修めることが出来るであろ」と述べられています。

 次に、今回のダンマパダの詩では、不幸にして「もしも正しい生活している賢明な友が得られないならば、林中の象のように悪をすることなく求めること少なく独り歩め」と教えています。そのことに関連して、独り修行する意義について、このブログの7月16日に説明しました。

  http://76263383.at.webry.info/200807/article_16.html

 仏教では「この法は遠離を喜ぶ人のものであり、衆会を楽しむものものではない。」 この法とは仏教のことですが、善友がいないならば、いないなりに修行が出来ることも教えているのです。


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~  

この記事へのコメント

ホーシノヒトリゴト
2008年10月11日 08:02
ワンギーサさん 今朝もありがとうございます。さて、現在、アメリカのサブプライムローン破綻などから、世界的な金融不安、株価の大幅な下落、企業の倒産など大きな問題が世界的規模で起こっています。我々の生活にも厳しい影響が生じると思います。今日のダンマパダを読み今後の生活のあり方を考えてみると、誠に示唆に富んだ教えであることが理解できました。ありがとうございました。
2008年10月11日 08:06
ワンギーサさん、今日は。今日は善友という人間関係についてのテーマですね。やはり「思考」だとは思います。正思を実践していれば、その限りにおいて、悪い思考の人たちとは友人にはなれません。それからやはり道徳でしょうか。だから、逆に考えると、道徳的にしっかりしていて、慈しみの心で生きている人とは友人になった方がよいのでしょう。ところで、それぞれの社会でさまざまな人との関わりの必要がありますが、慈しみの気持ちを心がけ接していけばいいんじゃないか?とは考えてます。有難うございました。
ワンギーサ
2008年10月11日 15:53
(1) ホーシノヒトリゴト様。コメントありがとうございます。現在の金融恐慌の大騒ぎは人々の作り出した妄想の結果です。妄想に一緒になって踊らされる必要はないのです。一日一日まじめに働いて
いる人は問題ありません。大恐慌がなくても会社は倒産することはあります。その時は、また仕事を探して働けばいいのです。
ワンギーサ
2008年10月11日 15:56
(2)ホーシノヒトリゴト様。(1.の続きです)会社は倒産してなく、失業もしてない人はなぜ騒ぐのですか。株が半額になっても、値段が変わっただけです。そのお金で世界旅行をしようと思っていた人は、近所の散歩に変えればいいだけです。何の問題はありません。それよりは八正道の実践をして、死ぬ前に修行を完成させたいものです。 
ワンギーサ
2008年10月11日 16:05
新様。コメントありがとうございます。今回の詩のテーマは「善友」と「遠離」です。本文は「善友」を中心に書いてありますが、善友がいない時のことについてもご検討ください。
2008年10月11日 17:29
ワンギーサさん、御返事有難うございました。友人からはさまざまな影響を受けると思います。そこで、善友がいないケースですが、実際あったことに則して考えてみたいと思います。たまに酒の席に出る事があります。話題は、欲、怒り、という仏教とはまるで反対のものです。しかし、「この人たちが幸せでありますように」と何回か念じたら、話題にのりながらも、話しの影響を受けない事が分かりました。自然と一線を画しているような。でも、怒りの感情などに負けていたら、結局その話題やその人らにこだわっているのでしょう。周囲がどちらかというと悪人で、善友は探しても見つからないは合も多多あるかと思いますが、そういう場合でも、お釈迦さまの教えを念頭に置きながら生活すれば、独りでもいい方向に向かうのだとは思います。有難うございました。
ワンギーサ 様
2008年10月15日 01:37
 これもいい詩ですね。私の読者の自称弟子の方に、S刑務所に収監中です、プリントアウトして送りたいと思います。善友を得ることがとても困難な環境なのです。
身の丈修行者
2015年02月09日 18:02
友人が多いと・人気者で自分は凄い・・という様な学びを自己啓発系で伺った事があります。
友人を多くしようとした時期がありましたが、10人?100人?1000人?維持するのは物凄く時間・労力を必要として家庭にも仕事にも影響がありました→無知でした。
本当の友とは、との内容で「お釈迦様を師(友)とすれば良いんですよ」と伺って目の覚めるような印象を感じました。
確かに悪戯に人間関係が多いと、もうそれだけで余裕のない状態になりかねません。
本当に必要なのは自分の心を成長させる機会、それはお釈迦様の世界を学ばせて頂く事であり、冥想修行であり、悟りを目指すことになるかと思います。
そうしますと、冒頭の「友人が多いと」の解釈が全く違ってくるように思います。
本当の意味での法友を大事にさせて頂きたいと思います。

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