渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる

ダンマパダ 338

根が害がなく強固ならば
幹が切られても再び成長するように
渇愛の潜在力が根絶されない限り
この苦しみは何度も現われる

○この詩から学ぶこと

 草を取るときは根から引き抜かなければ、またすぐに草は生えてきます。他の喩えで言えば、堤防に蟻の穴ほどの小さな穴があれば、堤防は崩れてしまうのです。渇愛は少しどころか、渇愛として表われていない潜在的渇愛でも、それがあれば、それは苦しみの原因になるのです。

 ここで潜在的渇愛について理解するために、三種の煩悩について説明します。

1.実際の行動になった煩悩、これは罪です。
 例えば、殺そうと思い実際に殺してしまう煩悩。これは犯罪です。

2.実際の行動になってないが心で働いている煩悩、これは纏(てん)と言われます。纏は、広辞苑によれば、「①まとうこと。まとい付くこと。②仏教用語:煩悩の異称。衆生にまとわりついて生死に流転させるからいう。」 例えば、殺してやると思っているが実行してない。これはまだ犯罪ではないですが、悪行為です。

3.心にも現れていない煩悩、これは随眠(ずいみん)と言われます。
 例えば、殺したいと思うような人が現れてないので殺してやるとは思っていないが、そのような人が現れれば殺してやるという思いが表われる可能性がある心の状態。

 潜在的渇愛とは随眠のことです。渇愛は随眠であっても危険なのです。

 随眠は七種類に分類されています。1.欲貪の随眠、2.有貪の随眠、3.瞋恚の随眠、4.慢の随眠、5.見の随眠、6.疑の随眠、7.無明の随眠 (水野弘元監修「アビダンマッタサンガハ」209ページ)

 上記の本には随眠の説明の面白い例があるので、ここに引用します。「例えば、マンゴーの場合、始めの種にも芽にも、後の幹・枝・葉などにも、常にマンゴーの実を実らせる力が含まれているように、潜在煩悩も結生以来、善を作す時のも業処を修する時にも、どんな時にも、阿羅漢に達しない限り、有情につき従って、その中に潜んでいるのである。」

 釈尊は、どんな小さな渇愛も、それどころか形にもなってない渇愛も、苦しみを作り出す原因だから、徹底的に捨て去るように教えています。しかも、すべての随眠は阿羅漢にならない限り、私たちの心に潜んでいるのですから、私たちに阿羅漢になるように修行することを進めておられるのです。修行は中途半端で終わらす訳にはいかないのです。


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~  

この記事へのコメント

2008年10月16日 07:56
ワンギーサさん、おはようございます。とても厳しい内容ですね。確かに、ある特殊な状況下では、欲、怒りが自覚している以上に出ることがあります。いかなる状況でも怒らない…素晴らしい境地だと思います。有難うございました。
2010年06月30日 08:18
行動に移さなくても思うだけで
というところまではきいていましたが
随眠はしりませんでした。

環境の良いところで
心がきれいになったように感じても
油断してはいけませんね。
身の丈修行者
2015年02月10日 10:29
私の体験ですが、ある人に嫌な目にあった時等「(その人が)不幸になってしまえ!」と思った事が少なからずあります→その後心が疲れるような状態になりました。
自分が嫌な目に遭ってもそれはそれで「(あなたも)幸いでありますように」と慈しみの念を投げかけると、その後とても心穏やかになり、嫌な目に遭った事で心が動揺するのも少ない流れになった経験があります。
今回「纏(てん)」を拝見し、成程なと思いました。悪行為になりますよね。
そのような事にも注意して悪い業を作らないように精進して参りたいです。

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