渇愛は三十六の流れなり欲に基ずく見解運ぶ(339)

ダンマパダ 339、340、341

快に向って流れる
三十六の激しい渇愛があるならば
その貪欲に基づく思考は
悪い見解を運んでくる

渇愛の流れはどこにでも流れ
葛のような渇愛は根を伸ばし芽を出す
その繁茂する葛を見て
その根を智慧によって切り取れ

人の喜悦は
渇愛の流れと愛着にある
彼らは快に依存し楽を求める
こうして生老の輪廻に身を任せる


○この詩から学ぶこと

 今回も渇愛についての詩です。こう渇愛が続くと苦しくなる人もおられると思いますが、淡々と学んで下さい。

 釈尊が、在家のとき琴の演奏の得意であったソーナという弟子に説法をしました。ソーナが血のでるような厳しい修行をしていましが、悟りの境地に至らなくて悩んでいたのです。

 釈尊は思い出したように、ソーナに問いました。
 「そうだ、ソーナよ、なんじは家にあったころ、たいそう琴を弾くことが上手であったと聞いているが、そうであるか」
 「はい、いささか琴を弾ずることを心得ておりました」
 「では、よく知っているだろうが、ソーナよ、琴を奏でるには、あまり弦をつよく締め過ぎてはいけないだろう」
 「大徳よ、その通りでございます」
 「だからといって、ソーナよ、弦がゆる過ぎてもいけないだろう」
 「大徳よ、仰せの通りでございます」
 「では、どうすればよいか」
 「大徳よ、それには、あまり強からず、弱からず、ほどよく弦を締めることが大事でございます」
 「ソーナよ、その通りである。そしてわたしの説くこの道の修行もまた、まさにそれとおなじであると承知するがよい。刻苦にすぎると、心がたかぶって静かなることをえない。だからといって、弛緩にすぎるととまた懈怠におもむくであろう。ソーナよ、ここでもまた、なんじはその中をとらねばならない」

 この説法が転機となって、弟子のソーナは見事に彼の目的を達成したのでした。
 (増谷文雄著「ブッダ・ゴータマの弟子たち」教養文庫、32~33ページより)

 今回は引用が長くなりましたので、339番の「三十六の渇愛」についてのみ説明します。

 渇愛には三種類あります。
1.愛欲 : 色、声、香、味、触の五欲に対する渇愛(欲しい欲しいという思い)
2.有愛 : 生存に対する渇愛(生きたいという思い)
3.無有愛 : 虚無への渇愛(破壊したいという思い)

 眼において上記の三種類の渇愛があります。同様に、鼻、耳、舌、身、意にそれぞれ三種類ありますから十八種類の渇愛があります。
 渇愛の対象として、色、声、香、味、触、法で渇愛が分類されますから、ここでも十八種類の渇愛があります。
 以上により、十八に十八を加えて三十六の渇愛があるというわけです。

 これらの多数の渇愛はすべて快楽を求めて流れ、執着になるのです。そして苦しみを作り、輪廻の原因になるのです。


○渇愛はどこでも伸びて繁茂する智慧がなければ刈り取れない(340)

○人間は快に依存し楽求め生老輪廻に身を任すなり(341)
 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~  

この記事へのコメント

2008年10月17日 07:52
ワンギーサさん、おはようございます。渇愛はやはり難しいものがあります。ところで、36種類の渇愛ですが、眼の場合「もっときれいなものを見たい」というのが1番目の愛欲で、「何でもいいからとにかく見たい」というのが2番なのでしょうか?有難うございました。
ホーシノヒトリゴト
2008年10月17日 08:08
ワンギーサさん 今朝もありがとうございます。昨日は一日中、外出してましたのでコメントできませんでした。さて、私にとって一番厄介な「渇愛」について詳細な解説をしていただき感謝しております。一昨日ウォーキングの時、長老のおっしゃる「置物」のように感覚が機能しないのであれば渇愛も生まれないのではないか?と思いましたが間違いでしょうか。ご指導宜しくお願い申し上げます。
ワンギーサ
2008年10月17日 09:08
新様。私の説明が不足していたので、36種類の渇愛について誤解しているようです。渇愛の発生する場所12の箇所(6内処と6外処)で分類して、それぞれに愛欲、有愛、無有愛があるので36種類です。「もっときれいなものを見たい」というのが1番目の愛欲で、「何でもいいからとにかく見たい」というのが2番ではありません。
渇愛の問題点は渇愛による苦を渇愛をなくして苦をなくそうとするのではなく、苦をなくすために新いし渇愛を求めるところにあります。そしてまた新しい苦を作ります。これを無明といいます。
ワンギーサ
2008年10月17日 09:17
ホーシノヒトリゴト様。感覚が機能しなければ、もちろん渇愛は生まれません。しかし、生きているということは感覚が機能しているということです。生きている限り感覚の機能は止まりません。しかし、パパンチャを止めることは出来ます。それができれば、渇愛は生まれません。
2008年10月17日 10:03
ワンギーサさん、ご回答有難うございました。確かに、苦しい状態から解放されるよう努力しても、それは妄想であり、また新たな苦しみを作るだけなのでしょう。苦しみはただ苦しみと観ることがポイントなのでしょう。ところで、渇愛の分類ですが、眼の有愛とは一体どういうことなのでしょうか?もっと具体的に教えて頂けたらと思います。私はつい死ねば何も見えなくなるので、とにかく何でも見たい、という解釈をしてしまいました。よろしくお願いいたします。有難うございました。
ホーシノヒトリゴト
2008年10月17日 13:17
ワンギーサさん ご指導ありがとうございます。スマナサーラ長老の法話「無価値論」(HPから)をよく読んでみました。私たちは日常生活のあらゆることに価値付けをしています。その価値付けからすべての悩み苦しみを生じていることが解りました。余計な価値付けというゴミの底なし沼から脱して、慈しみの心を育てて生命に対して役に立つ行為を心がけるようにしたいと思います。ありがとうございました。
ワンギーサ
2008年10月17日 14:47
新様。眼の渇愛は簡単にいえば「見たい」ということです。」耳の渇愛は「聞きたい」ということです。それぞれに内処と外処があります。内処は眼や耳での快感を求めること。外処は眼や耳の感覚の対象を求めることです。
2008年10月17日 15:36
ワンギーサさん、ご返事有難うございます。とても具体的な説明で納得できました。ご指導有難うございました。
ツヨシ
2008年11月17日 08:31
ワンギーサさん、おはようございます。
法を読みたい。というのは、渇愛ですか。
ワンギーサ
2008年11月19日 08:50
ツヨシさん。それは渇愛でなく、智慧です。
2010年06月30日 08:24
きびしいお話を続けて読んでいたので
ちょっとほっとしました。

いつもながらお釈迦様の
大変的確なお言葉、さすがですね。

楽しく精進続けてまいります。
身の丈修行者
2015年02月14日 13:20
ワンギーサ長老の分かり易い解説・コメントを拝見し、(自分の理解の為)大変勝手ながら下記のようにまとめてみました。(失礼を謝罪致します)
○渇愛について:渇愛の発生場所12の箇所(6内処と6外処(内処は眼や耳での快感を求めること・外処は眼や耳の感覚の対象を求めること))で分類し、それぞれに愛欲、有愛、無有愛があるので36種
○渇愛の問題点について:渇愛による苦をなくすために新しい渇愛を求めるところ。そしてまた新しい苦を作る。これを無明という。
○生きている限り感覚の機能は止まらない。しかし、パパンチャを止めることは出来る。そうすれば渇愛は生まれない。
○渇愛はすべて快楽を求めて流れ、執着になる。そして苦しみを作り輪廻の原因になる。
とても分かり易くて理解に繋がります。
本当の意味で分かるように精進したいです。

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